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竜頭――柔太郎と清次郎――  作者: 神光寺かをり
柔太郎と清次郎

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潰れた蛙

 この時になってようやく清次郎は、己が学者の端くれであるのに筆記用具を筆一本すら持たず、侍の末席を汚す身であるのに大小の刀どころか(かい)(けん)すら携えていない事に思い至った。

 慌てて自分の姿を見た。

 長く着込んで薄くなった上田縞の一重は帯が緩んで襟も裾もはだけてい、汚れた下帯が丸見えになっている。ほとんど裸だと言われても反論ができない姿だ。

 柔太郎は女将に対して深めに頭を下げた。懐から、腹に巻き付ける旅用の財布である(どう)(まき)を取り出す。ずしりと重たいが、中味は銭と小形金(こつぶ)ばかりだ。


「それで、申し訳ないが、できうる限り安価なもので頼みたいのです……」


 幾分か気恥ずかしげに言う柔太郎を、女将は手振りで軽く制して、


「いえ、芦田様、結構なのでございますよ。この度の芦田様の御遊行にかかった(つい)えは、()(はん)(てい)から頂けると、ご家老さまより承っておりますので」


「え?」


 柔太郎の手が止まった。彦六が少々驚いた顔を彼に向けた。


 確かにこの浦賀行きにかかった経費に関しては、宿や人馬の代を領収(うけとり)を駄賃帳に印判付きで書きまとめて藩に提出すれば、払い戻される事にはなっていることを、柔太郎も心得ていた。

 この度のことに算術の(たくみ)である清次郎(おとうと)を呼んだのは柔太郎の判断だった。自分だけでも測量はできる。

 しかし、もう一つの〝頭脳(あたま)〟が欲しかった。自分とは別角度でモノを観、考えることができる、別の〝頭脳(あたま)〟に近くにいて欲しかった。

 無論、清次郎の帯同については、藩からの許可を取った。

 帯同の許可は取ってはいるが、費用を負担の願いはしていなかった。だから、正式に藩の藩命に近い旅行許可を得た自分と従僕である彦六が使った(きん)(だか)に限ってのことであるという認識を持っていた。思い込んでいたと言ってもいい。

 柔太郎の脳裏に、江戸家老の岡部九郎兵衛の顔が浮かんだ。


「ああ、有難い、申し訳ない」


 実に素直に嬉しげに、言葉通りに申し訳なさげに、女将に向かって深く平伏した。直後、くるりと向き直って、壁と窓との間あたりに頭を向けると、再度深々と頭を下げた。その方角の先には上田藩の藩邸がある。


「有難うございまする」


 十石三人扶持という小禄の家の倅で、国元(こきょう)を離れて江戸(とかい)の物価高に絶えつつ暮らしている貧乏遊学生が、爪に火をともして(ふところ)に残した(きん)(だか)だけでは、弟の旅費を十二分に工面するには少々(こころ)(もと)なかったのだ。

 品川(ここ)から礼を申し上げたとして、大名小路(まるのうち)に声が届くわけも姿が見えるわけもないことが解らない柔太郎ではない。解っている上で、厳しい財政の中、小額とはいえども自分たち兄弟の為の(きん)()を工面してくれることを決めた藩邸のお偉方に、お礼を申し上げねば気が済まない。

 額を畳に擦り付けて礼をする姿は、彦六には儀礼に適った美しさに見えたし、女将には律儀の体現に見えた。

 清次郎には少しばかり情けなく見えた。そして(かん)(さわ)った。


『旅費を藩費で(まかな)ってもらえるのは有難いが、兄ほどの人材を潰れた蛙のように()()()とはいつくばらせるほどのことではない』


 頭を上げた柔太郎は、口をへの字に引き結んだ清次郎へ向き直って、


「まずは風呂を頂戴してくると良い。ゆっくり湯に浸かっている間に、旅装が整う」


「はい、そのように手を回しておきます」


 女将がにこやかに笑い、清次郎を誘った。


「赤松様、湯殿にご案内致します。こちらへ」



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