こいこく
夕餉の前に、赤松弘は手酌で飲んだ五勺の酒に心地よく酔った。
清次郎は酒が得意ではないというので、仕方なく、これもさほど強くない妻きぬに猪口二つほどを飲ませた。
弘の養父・巨助は江戸勤番の経験があるが、弘自身は江戸に出府したことがない。それ故に、清次郎が語る江戸の様子が珍しく面白く楽しくてならない。
亡父が観たであろう景色、亡父も知らなかったであろう名所。信濃の山底の田舎と大都会との違いを、
「語れ」
と乞うた。せがんだ。強いた。
その後に運ばれてきた夕餉の膳には、白飯に味噌汁と小梅を硬く漬けたもの、そこに丸々太った子持鯉の濃漿が付いていた。
普段は麦飯か糅飯と汁物と漬物だけであることを考えれば、大層なご馳走といってよい。
その膳が四つ並んだ夕餉の時間を、弘は上機嫌で過ごした。
「旦那様が心から笑ったお顔を観るのは、久しぶりな気がしますね」
膳を下げるきぬは酒精で耳先まで赤くなっていた。
「そうでしょうか」
鷹女は父に対していつも愛想良く笑っている心象を抱いていた。
弘が常日頃柔和そうにしているのは、過分に徒目付けというお役目柄のことがあるだろう。親しげな顔をしているほうが聞き込み調査はしやすいであろう。取り調べ――拷問を伴うような――にも笑顔は有効かもしれない。
弘が家族の前でも被っていた笑顔の仮面を、妻はしっかり見透かしていた。しかし娘は見破ることができなかった。
「男衆はいつでも素直に内面を顔に出すとは限らないのです。そういった殿方が夫になったなら、その裏側の顔を見抜かないと、女房は務まりませんよ」
きぬは一人娘に笑いかけている。カラカラとした明るい笑顔だ。猪口二つ分の酒の酔いが残っている。
母の言葉を聞いて鷹女は首を傾げた。
鷹女は、藩主・松平公が奨励する養蚕や製織を行っていない。
それらを行っていれば、蚕種の買い付けから桑の葉の採取、繭や生糸、反物の売買の時に、立場の違う人々と接して世間を見る事ができよう。
だが彼女は、家の都合で河合家老屋敷の奥向きという、女ばかりの職場に詰めきっていた。そして剣術に打ち込んでいた。
そのために開かれた社会での経験が少ないのかもしれない。
鷹女は少し考えたが、やはり首を傾げた。
奥様とお嬢様と下女とが並んで洗い物をした。
件の懐剣は、鷹女の帯に挟まれている。水仕事の間であろうと、ほんの少し手元から放したくないのだ。
やがて灯を落とす刻限になった。
弘は煎餅布団に潜り込んで、行儀悪く寝煙草を一服呑んだ。
『明日から新しい日々が始まる』
煙管の雁首で灰落しを叩くと、天井を見上げて薄く笑い、息をついて寝た。
清次郎は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
行燈に単衣が掛けられることはなく、火は完全に消えている。
室内は深く暖かい闇に満たされていた。
同じ部屋に秀助がいないおかげだ。
秀助は赤松家の下男下女とすっかり馴染んでいた。彼らが使っている板間に一緒に床を延べてもらって、心地よさげに寝息をたてている。
秀助もここ十日の間すっかり習慣になっていた「夜中の読書」から己を解放していた。
熱心に勉学に励んだここ十日ほどの日々は実に楽しいものであっただろうが、それはそれとして、半ば徹夜のような夜更かしを続けたことで過労も蓄積しきっていたのだろう。
きぬと鷹女は一つ部屋に布団を並べて横になった。
母親は幾度も娘の方を窺見た。
胸の辺りが一段盛り上がっている。胸の上で懐剣を抱きしめていた。
幸せそうな顔をして、穏やかに寝ている、と、きぬには見えた。見えはしたが、どういったわけか不安を覚えた。
何度も見返したが、鷹女の様子に変化はない。
そのうちに、きぬも眠りに落ちた。




