禍福はあざなえる縄のごとし
鷹女の目が鋭くなった。嫌悪感を持って清次郎を睨み付けている。
「つまり、その短刀は偽物、ということじゃな」
懐紙をくわえたままの鷹女に代わって、父の弘が彼女が言いたいのであろうことを口にした。
「長曽祢虎徹としては、偽物です」
清次郎が含みのある物言いをする。
鷹女と弘が同じ角度で小首を傾げた。
「では何か別の刀匠かの?」
弘の問いに対する清次郎の答えは、
「四谷正宗、かと」
というものだった。
「四谷……?」
「四谷伊賀町に仕事場があり、作風が正宗を思わせる古風で力強い作風であることから付いた異名です。……本名は恐らく義父上ならばご存じかと」
「ほぅ、わしの知った者かや?」
清次郎は大きくうなづいて、
「山浦環正行」
簡潔に言ったその名を聞いて、弘は膝を打った。
「おお、赤岩の名主の所の兄弟の弟の山浦内蔵助か。あれなら大したモンだぞ」
内蔵助は環の前名だ。
「今は源清麿と名乗っています」
源清麿と兄の山浦真雄は小諸藩赤岩村の郷士・山浦家に生まれた。
兄弟とも小諸時代から作刀をしていて、その段階で相当な腕前だったようだ。
例えば、兄の真雄はあの河合五郎太夫直義から特別注文を受けている。
この時真雄が鍛え上げたのは、刃渡り三尺二寸一分という長大な大太刀だった。
ちなみに一般的な打刀は二尺三寸から二尺四寸ほどであるから、少なくとも一尺弱は長いことになる。河合五郎太夫の巨躯と膂力でなければ使いこなせない代物だ。
なおこの大太刀は河合家の子孫に受け継がれ、今は上田市立博物館に収蔵されている。
兄弟はさらに研鑽を積むため、上田藩のお抱え刀工であった河村三郎寿隆に弟子入りした。
真雄は長じて上田藩松平家のお抱え、ついで隣藩である松代藩真田家お抱えの刀工となった。
清麿は江戸に向かった。武士になりたいがためのことだ。
山浦兄弟は郷士だ。最下級ではあるが士分ではある。
しかも半農半兵だから農業収入があり、下手をすると藩士として禄を食んでいる下級武士よりも実入りが良い。
それでも「本当の武士になりたい」と願う者がいる。彼らのいう「本当の武士」は、各々の心の中にそれぞれの形で存在している。山浦環の目指す「本当の武士」の形は、彼にしか解らない。
ともかく、小諸や上田や松代のような小規模で赤字まみれの藩で新規お抱えの侍になることは難しいだろう。
政治の中心地である江戸に出れば、大藩の陪臣や、幕臣――たとえ三十俵二人扶持の貧乏御家人であっても、幕府直臣である以上は郷士より身分が上だ――に取り立てられる可能性が無いとは言い切れない。
禍福はあざなえる縄のごとし
※この世の幸不幸は表裏をなしていて、何が不幸のもとになり、何が幸福をもたらすかわからない。
「漢書 賈誼伝」
(白文)夫禍之與福、何異糾纆
(訓読)それ禍と福、何ぞ糾える纆に異ならん。
「史記 南越伝」
(白文)因禍為福、成敗之転、譬若糾纆
(訓読)禍によりて福となす、成敗の転ずること、譬れば糾える纆のごとし。




