そんな気がする
その連れというのは「赤松」という男であると、老僕・彦六はわきまえていた。上田藩に所縁のある、江戸住まいの若い学者だと聞いている。
赤松との待ち合わせの刻限は昼八つ頃、落ち合う場所は品川宿、という約束だった。
ただ、彼が品川へ来る経路も考えれば、品川までの道すがら落ち合える可能性もあった。あるいは、約束通りに品川宿に着いてから旅籠に入る間に合流することもありえた。将又、時宜良く旅籠の前でばったりと出会うこともあったかもしれない。
ただし、すでに柔太郎が旅籠に到着している今の時点で、それらの可能性は消えている。
そこで出てくる次の可能性が、赤松は少し遅れたもののもうじき旅籠にたどり着く、である。
その次が、こちらが今日泊まる部屋で待っていれば、明るい内に相手が到着する。
そしてその次が、かなり遅くなったが、日が落ちるまでにやってくる、だ。
「だが……今日の内にはアレは来ぬかも知れぬなぁ」
旅籠の、広くはない部屋で、柔太郎は老僕・彦六に笑いかけながら、窓の外側に違い葦の葉の模様を大きく描いた自分の編み笠を掛けた。遅れてくるであろう赤松某に、
『自分たちはすでに旅籠に入っている』
と知らせる為の目印だ。
日が落ちかけている。空が赤い。
「それは、いったいどういうことで?」
彦六が首を傾げた。
「どういうといわれても……。ただそんな気がするだけのことだ。あえて理由を付けるなら……いつものことだから、に、なろうか」
彦六の側からは、窓の外を見ている柔太郎の顔が見えなかったが、その頬には小さな笑みが浮かんでいた。柔らかで優しい微笑だ。
「赤松様と仰るお方は、そのような、その……なまくらなお方なので?」
「いや、優秀な男だよ。すこぶる優秀な、うらやましい位に頭の切れる男だ。ただ少しばかり……」
「少しばかり?」
「一つ事に夢中になると、それ以外のことを忘れてしまう。玉に瑕だ」
窓の外を見ていた柔太郎が、掛けていた笠を手に取り上げて、
「思っていたよりは早かった」
彦六に向けられた柔太郎の顔には、どこか気恥ずかしげな笑みが広がっている。
柔太郎は部屋の真ん中あたりにすっと腰を下ろし、あぐらを掻くと、背筋を伸ばして腕組みをした。
まもなく、廊下から旅籠の女将の声がした。
「お連れ様をご案内いたしました」
戸障子が開いた。膝を突いた旅籠の女将の背後に、小柄な男が立っていた。
髷の元結が切れ、総髪がザンバラに肩へ落ちている。上田縞の単衣はあわせが乱れ尽くしていた。そして顔も体も汗と埃にまみれている。きれいなところは、旅籠の入り口で洗足を使った足首から下だけだ。
「随分遅れたものだな」
呆れたような、怒ったような、笑ったような顔を、柔太郎はその男に向けた後、老僕・彦六に振り返り、
「これが此度の旅の連れの、赤松清次郎だ。内田弥太郎先生の算学塾・瑪得瑪弟加塾の筆頭で、私の弟でもある」




