妙見尊星王
『でもまあその寝坊疑惑のお陰で、皆が最初の内は俺のことを見くびっていてくれたのは、かえって良かったのじゃないだろうか。
さすがに内田先生にはすぐに俺の考えを見透して、えらく叱られたっけな』
清次郎は思い出してふっと笑った。
それからようやっと秀助が差し出している書籍に目をやって、
「どれ、どの本を引っ張り出して来たんだ?」
ガサガサ声で訊き返した。
「どれが良いやらさっぱりなので、背負棚の一番上に乗っていたのを、取りあえず取ってきました」
清次郎は差し出された書籍の表紙を読み上げた。
「北極出地測量艸。内田弥太郎先生の著書だよ」
「ほっきょく……?」
「うーん、なんと説明したら良いだろうか。
夜の星の、妙見星は知っているか? いや北辰星とか、北の一つ星の方が判りやすいかな?」
「へえ……? あ、一つ星ってぇのは聞いたことがありやす。いつ見ても北の方の空の、こう、ちょいと上の真ん中辺りにおわすお星さまですかね?
ガキの頃に筆学所のお師匠さんに、夜中に道に迷ったらまずこの星を探せって、教ったような」
「うん、それを北極の天枢とか、北極星とも呼ぶのだよ」
「一つの物に、そんなにいくつも名前があるんですかい? ややこしいこった」
「そういうな。
例えば内田先生も五観という諱、思敬という字、弥太郎という仮名と、観斎や宇宙堂という号をお持ちじゃないか。
名前というのは、呼ぶ人、名乗る時所によって、様々に呼ばれるものが変わり、名乗るものを違える。
しかし、どう呼ばれ、どう名乗っても、内田先生が内田先生であることに違いはない」
「うーん、なんとなくわかったような、わからないような……」
秀助は不安げに首を傾げた。
「うん、実は俺もよくわかっとらん」
清次郎が笑ってみせた。
嘘だ。
だがその嘘によって秀助の顔にわずかばかり安堵が広がることになったのだ。これは方便に当たる嘘というヤツだ。なんの問題もあるまい。
「ところで赤松の先生、こいつはいったい何の本なんですかい?
表紙から難しい漢字ばっかりだし、中味もさっぱり読めねぇンですよ」
秀助は申し訳なさげに、それでいて不本意そうな声音を隠さずに訊いた。
「そうだなぁ。
北極星は一年を通してほとんど位置を変えない。それを利用して、その他の星も合わせて観察し、それらの位置関係から、この日の本の国、ひいては世界中の各地の緯度を測量する方法の本、だな」
「ふぇ?」
秀助の幾らか眠たげに下がり掛けていた目蓋が持ち上がった。
「秀助よ、今の説明で解らないンなら、お前はこの本を読むにはまだ早いってぇことだよ」
清次郎は真顔で、しかし優しく諭すように言った。
「そりゃぁもしかして、今のおいらが難しい漢字を読めるようになったとしても、この本の中身は解らねぇかも知ンねえってことなんじゃ?」
「その通りだな」
清次郎はきっぱりと言い切った。




