自らを恃《たの》む
最初の泊まりは板橋宿だ。中山道を追分まで進んで、そこから北国街道に入って信濃を進む。
この度の赤松清次郎の帰藩は藩命を受けてのものだから、泊まりは上田藩御用の旅籠が指定される。
その夜、秀助は蒲団から這い出した。
秀助は全くの無筆だというわけではない。
十歳ぐらいまで育ち暮らした裏長屋の近くに、小規模な筆学所があった。
浪人者のお師匠さんが町人や浪人者の子どもたちに読み書きと算盤を教えてい、その筆子の中に秀助もいたわけだ。
お陰で仮名や簡単な漢字は読める。三桁程度の和差積商ならどうにかなる。
しかしそこまでだ。
筆学所で学び取れたのは、町人が生きて行くのにギリギリ必要な基礎学問に過ぎない。
難しい漢字などは読めない。四則演算も四桁を越えると途端にあやしくなる。
下男として生きてゆくのなら、それだけでも十二分だ。
だが秀助はもっと学びたいと思ってしまった。
行燈に単衣を掛けてから、火を掻き立る。部屋の大半は暗闇のまま、秀助の手元周りだけがほんのりと明るくなった。
秀助は手探りで荷造りされていた書物の塔の、一番上にあった一冊を手に取った。
その表紙にある文字の内、彼が読めるものだけをボソボソと読み上げた。
「北…出地……艸」
意味が通じない、ということは、秀助にも判る。
だが敏い秀助はすぐに妙案を思いついた。そしてその妙案を行動に変換した。
秀助は眠りの中にいる清次郎の夜着をばっと引き剥がした。ほとんど本能的に横向きに身体を丸めて防御姿勢を取った清次郎の体を、ゆっさゆっさと揺さぶった。
「先生、赤松先生」
こうもされれば、さすがの清次郎も目を覚まさざるをえない。
目覚めた直後の清次郎は酷く不機嫌だった。
起き抜けの渇いた喉からはガサガサにかすれた声が出た。
「何がどうしたって?」
秀助は極力抑えた声で清次郎に訊いた。
「先生、これの読み方を教ぇて下さい」
清次郎は秀助が差し出した書物ではなく、部屋の中を見回した。
闇の中にぼんやりと行燈の灯が浮かんで見える。
行燈の半分を衣で覆って明かりを弱めてあるのだから、室内は暗い。
清次郎にはその暗い明かりに覚えがあった。
芦田清次郎友裕として瑪得瑪第加塾に入塾したばかりの、十八歳の頃だ。
瑪得瑪第加塾には、いや江戸、あるいは京阪には、全国から「秀才」と呼ばれる者たちが集まってくる。
彼らは最低限、都会に出ることが許されるだけの実力、つまり「他の秀才たちと同じ程度」の学力を持っているだろう。
それは即ち、巨大なドングリの背比べ、だ。
その事実を知る瞬間まで、彼らは「自分は特別な人間である」と信じて生きてきた。彼らは国元随一の秀才なのだ。藩から、領主から、同僚から、学友から、親戚一同から、金と期待を掛けられて送り出された逸材だ。
そんな「百凡の秀才」が、覚悟もなしに江都に出てきたならどうなるか。
自分たちよりも更に上の純粋な天才の存在を認知したら、どうなるか。
彼らは己が凡人であることを思い知らされ、多くは酷いショックを受ける。
そのとき、秀才たちの心の中にどんな変化が起きるだろうか。




