襖の向こう
「旦那様、よろしゅうございますか?」
襖の向こう側から聞こえたのは、柔太郎の母・志賀の声だった。
「応、どうした?」
「柔太郎殿の道場での兄弟弟子だという方々が、お見舞いに来て下さいましたが」
「そうか、座敷にお通しせよ」
起ち上がる父に、
「父上、私も同席を……」
声をかけて体を起こそうとする柔太郎を、勘兵衛は手と優しい眼差しで制した。
柔太郎はおとなしく蒲団の中に潜り込んだ。耳を澄ませる。
御徒士長屋は狭い。
座敷だとか客間とか呼んでいる部屋は、柔太郎が伏せっている寝間と襖一枚だけで区切られているに過ぎない。見舞客と父とがそれなりの大きさの声で会話すれば、内容は柔太郎にも聞こえてくる。
おとなしくしていろと言われたものの、頭は妙に冴えている。その状態でどう『おとなしく』すればよいのか。
例えば書物を読むことは『おとなしく』行える行動だろう。あるいは書き物をすることも同様だ。だが、柔太郎の腕脚と喉の痛みはまだほとんど治まっていない。
書物を音読しようにも声はまともに出ず、黙読するにしても頁をめくる手が痛む。腕が痛むため、筆を持って文字を書くことは出来ないし、剣術の稽古をすることも当然叶わない。
何も出来ないのだ。やれることは、薬を飲み、膏薬を貼って、横になることだけだ。本当に『おとなしく』しているより他にない。
柔太郎は恐ろしく暇なのだ。
『二人かな』
床を通じてなんとなく聞こえる足音で、柔太郎は来客の数を踏んだ。
予想は当たっていた。
「芦田先生、お邪魔致します」
先に聞こえた声は加舎金一郎だ。藩校・明倫堂で句読師を勤めている。つまり芦田勘兵衛の後輩であり、芦田柔太郎から見れば年上の同僚ということになる。
「金一郎どのにはご健勝そうで何よりでござる」
父が慇懃に頭を下げる様子が柔太郎の目に浮かんだ。
「お邪魔致します」
後から聞こえた声は鈴木弥門だ。柔太郎とは武道場で共に汗を流す仲だった。稽古のタイミングが良く重なり、年が近いということもあり、妙に気が合って仲良くしている。
なお、腕前は弥門の方が確実に上だ。
「弥門どのは此度、御側勤に取り立てられたそうで、ご祝着にござる」
またしても父が頭を下げる様子が柔太郎の目に浮かぶ。
「お寿ぎいただき、ありがとうございます」
「やはり芦田先生はお耳が聡い」
弥門の返礼と金一郎の感嘆が重なって聞こえる。
「年寄りの耳には、聞くつもりがなくとも色々なことが聞こえてくるのでござるよ」
勘兵衛の声には幾らか自嘲的な色がある。
他人から秘密の事柄を語られるというのは、その者から信頼されているということでもあるが、そこに語っても何の問題もないと目されてれているのだということでもありうる。
「河合様が『芦田勘兵衛に訊け』と仰せになったのはそのためですか……」
金一郎がぼそりと言う。
「ほう、ご家老様が私ごときに何を訊けと?」
「広瀬鷹女のことです」
金一郎がしっかりした声で答えた。
勘兵衛は暫く黙り込んだ。
「……それがしがあの娘の何を知っていると? あるいは知っていたとして、ご両人が訊いて知って面白い話とは限らぬのに」
「我々の目に、広瀬が柔太郎殿に……先生のご子息に執着しているように見受けられるからです」
弥門は喰い気味に言った。




