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竜頭――柔太郎と清次郎――  作者: 神光寺かをり
柔太郎と鷹女

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30/59

竹刀

 現代のスポーツ界には「ゾーンに入る」という物言いがあるという。集中力が極限まで増し、知覚が研ぎ澄まされて、見えぬはずのルートを感じとり得たり、モノを考えるまでもなく体が動いたりする、そんな「現象」を指す言葉であるそうな。


 そのときの(あし)()(じゅう)()(ろう)は、まさしく「ゾーンに入って」いたのだろう。


 藩校の武道場である。広い板間で、竹刀を取っているのは二人きりだ。残りの者たちは、その二人を見つめている。

 座って(はかま)を掴む者、立ったまま竹刀の柄を握り締めている者。

 みな、(かた)()を呑んでいた。


 (あし)()(じゅう)()(ろう)は繰り出される激しい攻撃を防ぐのが精一杯だった。

 だのに(ひろ)()(たか)(じょ)は決め手を欠いている。上段から面を狙う打ち込みは、みなギリギリのところで防がれてしまう。

 正しくこの時の柔太郎には鷹女の竹刀の軌道(すじ)が見えていたのだ。精神が澄み渡り、どこから来る攻撃にも体が反応した。

 だからといって、柔太郎には鷹女の攻撃をついて反撃に出られるだけの余裕はない。

 ひたすら、ただひたすら、防いでいる。避けている。打ち下ろされる鷹女の竹刀を、自分の竹刀で受け止めている。

 それだけだった。


 鷹女にとって柔太郎は「弟弟子」だ。柔太郎の方が年上ではあるが、こと武術に関して言えば自分の方に一日の長があり、絶対的に強い、と、鷹女は確信している。

 それに、柔太郎は学者なのだ。

 まだ家督前であるがすでに召し出されて、藩校・明倫堂の教授手伝を勤めている。

 藩士の子弟たちに、


「子、曰わく、うんぬんかんぬん」


 などと本を読み聞かせていれば、それで十分にお勤めを果たしていることになる。

 だというのに、非番の日にわざわざ同じ敷地内の武芸道場の方へやって来て竹刀を振る。

 その理由が鷹女にはわからない。

 いや、気に食わない。

 剣術が強いのか、あるいは他の武術が得意なのか、と言えば、そうではない。何をやらせても、腕は鷹女よりも数段劣る。

 それは柔太郎側も理解しているのだろう。

 だからいつもは胴の一つも抜いてやれば、


『ありがとうございます』


 などと頭を下げておとなしく引き下がって行く。


 それなのに。


『今日に限って、なぜ打ち込めない』


 鷹女に焦りが見え始めた頃、柔太郎の目に一つの光が見えた。むしろ、そこ以外の物は見えなくなった。

 鷹女が大上段から振り下ろした竹刀を頭上で受け弾いた柔太郎の竹刀の先端が、その光に向かってグイとのびる。

 竹刀の切っ先はどこからどうすり抜けてきたというのか。鷹女の右腕小手が打たれた。

 ピシリ、と小さな音がした直後、柔太郎の体は道場の壁の羽目板まで(さん)(けん)ほども吹き飛ばされていた。

 彼の喉元に、鷹女の鋭い突きが入ったのだ。

 ほとんど気を失っている柔太郎だったが、尻餅をついた格好のまま、竹刀を頭の上に横様に掲げた。

 そこに鷹女の竹刀が振り下ろされる。

 当然、攻撃は防がれる。鷹女の脳天に血が上り詰めた。


 そこからはもう滅多打ちだった。稽古でも試合でも勝負でもない。

 頭を殴り――柔太郎は竹刀を掲げ上げることを止めなかったので、脳天に打撃が入ることはなかったのだが――腕を殴り、胴を打ち払い、脚を叩く。竹刀がササラのように割れ、ささくれ立ったとげが、腕に脚に刺さって血が噴き出した。


「うわぁぁ!」


 雄叫びとも泣き声ともしれない声を上げて、鷹女が再び柔太郎の喉元に突きを入れんとした。


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