清次郎は武士で御座る。
その最中に、清次郎が件の写本を持ってきた。
柔太郎の感激ぶりは、決して大袈裟なものではない。
感激の中で四度目の読み返しを始めていた柔太郎が、弟の言葉に僅かに首を傾げると、
「日が落ちて、灯を点さねば字も読めぬ程に暗くなり、どうにも眠くなったら寝るが」
書面から顔を上げて清次郎に目を向けた。その目が、
『何を当然のことを訊くのか?』
と語っている。
自分一人のために灯明油や薪炭を消費して書物を読む余裕は、芦田家にはない。
「じゃあ、それだけの短い時の間に、儒学の講究と養蚕の研究を詰め込んでるってことすね」
清次郎の声には素直な感嘆の色があった。
恐ろしい勢いで件の染色手引書の四度目の読み直しを終えた柔太郎は、
「あとは、武芸、だな。ま、それはお前も同じであろうが」
視線を清次郎の手に向けた。
掌の皮が部分的に固く盛り上がっている。木刀胼胝だ。同じような物が、柔太郎の手の中にもある。
「それがしも武士に御座れば、日々の鍛錬は欠かせない物に候」
清次郎はわざとらしく古めかしい口ぶりをしてみせた。
自分でしゃべっておいて、彼はわざとらしく古めかしい言葉を使ったそのことのおかしさに堪えきれなくなったらしい。爆ぜるように笑った。文字通り腹を抱えて、床を転げて廻る。
その様子を、柔太郎は黙っていた。清次郎には当人の気が済むまで思うさま笑わせるつもりだ。
『今日は御屋敷で「学問について理解が薄い人々を前にして、己の学問に基づいた物事を説明をする」という、厄介で大の苦手の仕事をさせられたのだろう』
柔太郎の脳裏には、お仕着せの裃で藩のお偉方の前に平伏したままの弟の姿が浮かんでいた。
自分の学問の進捗状況はもとより、江戸の世情、幕府と米国との外交問題、この時勢に藩が行うべき事柄の提言、等、等、等。
清次郎は脳内にある専門的な言葉を他人にもわかりやすい平易な言葉に言い換え、絡み合った複雑な事象を噛み砕き、時に同じ事を言い振りを変えつつ幾度もくり返して語り、登城から下城まで……途中に中食や休憩を挟みはしたもだろうが……ずっと話し続けたのだろう。
相当な精神重圧がかかったに違いない。
下城して戻った先が、本来帰るべき養家・赤松家ではなく、実両親が留守である事がわかっていた実家・芦田家であったのは、確かに手土産を届けるという目的もあるのだろうが、家族としての付き合いがまだ浅い養父と婚約者が相手では、このように己の腹の内に封じ込めていた鬱憤を曝すことができない、
『……と、清次郎が考えた上のことだな』
そう思って、柔太郎は清次郎が笑い転げるままにさせていた。




