蚕都・上田
芦田柔太郎や赤松清次郎の主である上田藩主・松平忠優改め忠固は、国元での米に次ぐ産業として養蚕を奨励している。
上田の地では藩祖・真田信幸の時代から紬織が名産だった。当時は領主の姓をとって真田織と呼ばれていたその織物は、領主が仙石氏、伊賀守系藤井松平氏へと移り変わるうちに、土地の名を冠して上田縞・上田紬と呼ばれるようになった。
絹糸は蚕の繭から一本ずつ引き出した糸を指す。それを織り上げた絹織物は強靱かつなめらかで、光沢があるのが特徴で、高級繊維とされる。
幕府は度々贅沢禁止令を出し、一般大衆の衣服に絹を使うことを禁止した。
だがその絹糸・絹織物の中に紬糸を用いた紬織物は「含まれない」と、庶民たちは主張した。
紬糸は品質の低い屑繭から糸を引き出して、縒りをかけた物だ。
紡ぎ糸は太さが一定でない。織り上げても光沢が少ない。遠目には綿織物のようにも見えた。
その上、上田紬は藍染めの縞模様が多く、地味な見た目をしており、ますます絹織物らしさがない。
これが藩内外の、主に庶民の間で大いに人気を博していた。
上田縞は緯糸を強く打ち込んで織る。大変に頑丈で、硬く、伸び縮みの少ない布地となる。そのくせ、元が絹であるから、見た目に反して軽い。
その頑丈さから、
「裏地がすり切れて三度取り替えるほど長く使い込んでも表地は堅牢さを保っている」
として、三裏縞・三裏紬などと呼ばれもする。何着もの着物を仕立てられない庶民にとって、この頑丈さは魅力であった。
硬い布地であるから、新しく仕立てた着物はむしろ着づらい。
金持のなかには、敢えて一年ほど奉公人に着せ、生地を馴染ませるようなこともしたらしい。
そこまでして「絹織物を纏いたい」という反体制的ですらある人々の欲求もまた、上田紬の人気の一因と言えるかも知れない。
上田藩主・松平忠固が絹と絹織物の振興を図ったのは、上田縞の人気ばかりが理由ではない。直接には、天保の大飢饉が切掛となっている。
幕藩体制下では、米が流通貨幣に等しい価値を持っていた。米は年貢として藩に納められ、藩から家臣達に俸禄として支払われる。
無論、米は人々の主食でもある。
米が不作になったら、他藩から買い入れなければならない。でなければ公的資金は足りなくなり、侍達に給料を払えなくなり、領民達は餓えて死ぬ。
米を買い入れるには金がいる。
金を作るには米以外の物を売らなければならない。
藩内で、金になる物を――米以上に価値があると人々に思わせる物を――作り出さなければならない。
その価値ある物として、忠固は「絹」に目を付けた。
今、上田藩で盛んに作られている上田縞は確かに人気が高いが、それは安価で丈夫であるからだ。安価な物は売ったときの利が薄い。ならばそれに「今以上の価値を持たせる」か、それに変わる「高価な物を新たに生み出す」必要がある。
美しい絹織物を、高品質な生糸を、歩止まりの良い蚕種(蚕の卵)を。
藩主の政策は、藩士達が実行をすることになる。禄高・俸給の高くない藩士たちが、副業として養蚕、蚕種の生産、製糸、そして織物を作ることを推奨された。
芦田家でも中二階を改造して蚕室にした。
家長の勘兵衛が養蚕を、その妻の志賀が機織りに励んでいる。
この日も勘兵衛・志賀夫婦は、志賀の実家での法事のついでに蚕種を別けてもらうため、北国街道で上田の次の宿場である鼠宿に、泊まりがけで出かけている。
親の行いを見ていれば、子どもたちもその行いをまねる。
芦田家の長女・くには母同様に機織りの腕を磨いた。
そして長男・柔太郎の方は父の背を見たものか、蚕と生糸について研究を始めた。
実践の前に研究があるあたり、つくづく柔太郎は学者肌であるらしい。




