57 豪雨と慟哭
「巫女の方はともかくとして、神の方はまるで大した力が無いな。信者の数も少ない、若い神といったところか」
双眼鏡を覗いてやっと見えるこの距離から、バスの男の存在を感知したフェンリルが、つまらなさそうに言う。
「心を失った神というわけでもないから、俺にとっての攻撃対象ではないが、ここで太郎に恩を売るために戦ってやろう」
心なしか照れくさそうな口調でフェンリル。俺に呪いかけて呪い返されてその呪いをネムレスに解いてもらったことで、いろいろと引け目があるのかもしれない。
つーか、その心を失った神とやらが何なのやら……。神様やっていると頭おかしくなっちゃう呪いでもあるのか?
最前列の部隊が交戦に入る。すでに双眼鏡を見なくても見える位置で、バスの男は積極的に戦闘に参加していた。肉の弾を撒き散らし、そこから肉紐が伸びて、手当たり次第に兵士をなぎ倒している。相変わらず気持ちの悪い技だ。
奴から見てこちらの存在には気がついていないようで、目の前の戦いに一心不乱な御様子。
「ふん、神ともあろう者が人の戦に直接介入するなど、嘆かわしいことよ。しかし俺がこの場にいたのが運のつきだったな。ぱぱっと蹴散らしてくれよう」
侮蔑をこめて吐き捨てたかと思うと、自信満々にそう宣言し、フェンリルは狼バージョンに変身する。
「おい、馬鹿やめろ」
俺が制止したが、馬鹿狼は止まらずに最前線めがけて駆けていた。
別にバスの男が俺の獲物だから手をだすなーとか、そういうつもりで制止したわけではない。いや、奴が本当にバスの男を殺せるなら、そういうニュアンスで制止したかもしれないが……
フェンリルの姿を見て、慄く乱す者達。しかもバスの男の増殖肉弾や肉紐を近づくだけで溶かしているので、さらに戦慄している模様。
だがすぐに乱す者の遠隔攻撃部隊が、デカくて目立つ黒い的めがけて、矢で弾で魔法で一斉に攻撃した。
神とその眷属相手には比類なき強さを持つという性質を持つようだが、他に対しては……うん、デカい狼だ。とはいえその移動速度は中々のもので、必死にダッシュして逃げるせいもあって、最初の一斉射撃以降は中々当たらない。
と、逃げるフェンリルめがけて、蝙蝠の羽を広げて飛んでくる影が一つ。どもりっ子ナルシー変態泣き虫照れ屋魔王のシリン・ウィンクレスだ。
黒い霧が大量に発生し、フェンリルの行く手を遮る。流石にそれに突っこむほど馬鹿じゃなく、迂回して駆けたものの、その迂回した場所にシリン本人が待ち構えていた。
シリンは突っ込んでくるフェンリルに向かって手をかざすと、魔力の光弾が続けざまに四発ほど放つ。その全てが頭部に直撃する。
フェンリルが転倒する。そこに遠隔攻撃の雨あられ。
まあ……こうなるよなあ……。別にバスの男だけが敵じゃねーんだし。あんな目立つデカいもんが単身突撃とかすれば。
だからやめろっつったのに。あいつは本当に馬鹿なんじゃなかろーか。
死んだかとも思えたが、フェンリルは身を起こしてさらにそのまま逃亡。シリンが空から追いかけるが、フェンリルの脚の方が速いので逃げきれるだろう。
「見直して損した気分也」
呆れきった口調でゴージン。
「いや、彼の働きは中々のものだ。肉の触手や弾を退けたうえ、目立った動きをして敵の射撃部隊の攻撃の手を引きつけて、こちらにとっては大きなゆとりを与えた。そのうえ魔王シリンも引っ張っていってくれたからな。良い働きぶりだ」
堀内の評価は目から鱗な代物だった。つまりナイス囮ってことだな。
「伝令! 第十八部隊前進して交戦せよとのこと!」
「第十八部隊、前進! 隙間を埋めるように割って入れ!」
本陣からの伝令を受けて、堀内が号令をかける。いよいよかー。
バスの男が暴れたせいで、大分やられちまっているな。大きな隙間が出来てしまっている。だが敵も迂闊にはこちらの部隊の空いた場所に突撃してはこない。地の利はこちらにあるし、遠隔攻撃部隊も充実している事は向こうも知っているしな。中途半端に前に出てもふるぼっこにされるのがオチだと、敵もわかっている。
俺は第十八部隊と共に前進しようとはしなかった。馬上でひたすら絵を描いている。無論、バスの男を仕留めるための絵だ。
せっかく向こうは気がついていないし、絵を描く余裕はたっぷりとある。奴の巫女の能力もあって、絵を描く隙も無いのではないかと思っていたにも関わらず、気付かれていないおかげで、その心配が杞憂に終わってしまった。正直拍子抜けだ。
あっけない幕切れになるな。宿命の敵が、こっちに気付かない隙をついて、一方的に攻撃してそれで死亡とか。フィクションなら絶対糞展開として叩かれまくるだろうが、現実はこんなもんだ。いや、こういうあっけなさがあるからこそ、リアルとも言えるか?
お絵描き完了、あとは発動するのみという所で、俺は馬上から落下した。見えない力に引きずり落とされるようにして。
俺の両手が重ねあわさる形で、激痛と共に地面にへばりついている。これが何を意味するか、わからないわけがない。かつて一度味わった奇跡だ。
「太郎っ!」
「太郎さんっ」
ゴージンとディーグルが叫ぶ。どうやらゴージンは馬から下りたようだ。心配げに俺の目の前へとたちはだかり、ガードする。
ゴージンの股の間から俺は敵の姿を探す。バスの男の側に巫女の姿は無い。ふぁっく……見当たらない。まさか後ろにいるとか? バスの男の転移の力を使えば、それも可能である。後ろを見ても見当たらない。
「ど、どこだっ?」
狼狽気味の声をあげる俺。
「どうしたのですか?」
俺の言葉の意味がわからないのか、ディーグルが尋ねてきた。
「必ず視界内にいないと駄目なんだ」
慌てながら答える俺。
「奇跡を発現させるには条件がある。非生物の場合は、一度視界に収めればそれでいい。俺の筆や画板の力から見た限り、レベルアップすれば他人の記憶を利用することもできる。しかし対象が魂を持つ生物相手の場合、己の視界の中にいないといけない。だから俺を封じている巫女が必ず視界が届く場所にいる」
「ふーん……一部の攻撃魔法と条件が同じなのね。条件に縛られている奇跡とか……名前は御大層だけど、所詮その程度。いいこと聞いちゃったあ」
徒歩で俺の側にやってきた鈴木が、小気味よさそうにそんなことをほざく。ローブが雨でずぶ濡れで重たそうだ。
「鈴木、お前の探知魔法で探れないか?」
しかしこんな奴にでもすがりたい俺がいる。
「太郎を認識し、明確な敵意という条件で、しかも近くにいるわけだから、いけるわよ。いけるに決まってる。そんなこともわからないの?」
余計なことを口にしたものの、ちゃんと呪文を唱えてリクエストに答えてくれる。
「発見」
鈴木が言った直後、フェンリルを追い回していたはずのシリンが、こちらに向かって猛スピードで飛んできた。
明らかに俺がいる場所を認識して、一直線に向かってきている。ということはだ、奇跡で拘束された俺が巫女の居場所を探し出して、巫女を仕留めにかかることも予測して、シリンを差し向けたってわけか。
「どこだよ。早く教えろ」
「兵士の一人に化けてる。兵士だらけだし、口では教えようがないから、今から魔法でマーカーをつけてあげる」
鈴木が呪文を唱え始めるが、その鈴木をゴージンが抱きすくめ、ダッシュでその場を離れる。
「ちょっ、呪文……唱えられなっ……」
鈴木の呪文は中断されたようだが、仕方がない。鈴木がいた場所の地面が腐蝕している。通常の雨に混じって、腐蝕の雨だか酸の雨を降らせたのだろう。
しかし俺を狙うのではなく、鈴木を狙うってのはどういうことだ? 俺ではなく鈴木なら、ディーグルやゴージンが察知しないと思ったのか? 察知されたけど。動けない俺を狙ったとしても、ゴージンが俺を助けに……
そうだ、この奇跡の束縛を逃れる単純な方法があった。かつてシリンと共闘した際にもやったじゃないか。
「ゴージンっ、俺の手を切断しろっ」
「無意味ゾ。敵の居場所が知レぬであレば、一時しのぎにしかなラヌ故」
言われちゃった。そういやあの時は、空を自由に飛べるシリンだからこそってのもあるな。いや……確かディーグルも飛べるはず。
「無意味じゃないっ。一度切断して拘束を解除したら、ディーグルが俺を抱えて飛翔魔法で飛びまわれ。俺の姿を布でくるんで隠せばなおいい」
「それも無意味でしょう。今度は私が奇跡の力で落下させられるだけの話です。少し落ち着いて対処しましょう。巫女自体を攻撃するしかありません。それに今は――」
言われちゃった。馬に乗ったまま、空中を飛び回るシリンを見上げるディーグル。周囲にいる葉隠軍の射撃部隊の攻撃がシリンめがけて雨あられと降り注いでいるが、今のところ巧みにかわしている模様。巫女よりも目の前の脅威が先か。
しかしこいつもどうかしている。のこのこと単身で敵陣に切り込んでくるとは。さっきのフェンリルがどうなったのか見ていなかったのか? 現に今も集中砲火に晒されているし。
ディーグルが馬から下りて、腰を落として刀に手をかける。シリンを撃墜する気のようだ。つーか珍しく動いたな、こいつ。
「鈴木、今のうちにマーカーを」
「もうやった。目がついてないの? あれが見えないの?」
鈴木が指した方を見ると、やたらと目立つピンクの光がかなり高くまで上がっている、背の低い完全武装の兵士の姿があった。いつの間に着たんだ。
「鈴木、攻撃魔法届くか?」
「殺していいならマーカーつける必要も無かったわね。この距離なら私の攻撃魔法も届く」
そう言って鈴木が呪文の詠唱に入る。
そこにシリンが突っ込んできて、己の胸の前で両の掌を向かい合わせる。シリンの両手の間に、光り輝く球体が生じる。
光球が鈴木めがけて放たれた。流石に鈴木は呪文を中断して、シリンの魔法攻撃を避ける。明らかに鈴木のことも厄介者と認識し、警戒しているな。
ディーグルが刀を振るう。飛ぶ斬撃だか気の刃だか衝撃派だか知らんが、大気すら切り裂き、雨が空中で弾かれている様が一瞬だか見える。しかしシリンはその攻撃を全てかわしている。
「あいつからやるわ。邪魔だし。それにね……今こそ要塞での借りを返せと、私の中の黒いもごもごしたものが囁いているのよ」
黒いもごもごはともかくとして、巫女を攻撃するより前に、シリンを何とかした方がいいのは確かだな。
「え?」
思わず声をあげる俺。少し目を離した隙に、ピンクのマーカーが突然消えた。発光している兵士姿の巫女ごと。
それだけじゃない。手の拘束と痛みが解かれ、自由になった。一体何が起こったんだ?
さらに驚くべき事態。暴れまくっていたバスの男の姿も無い。つまり、巫女とバスの男の二人がワープして逃亡したってことか?
いや、有り得ない。明らかに巫女とバスの男を守るために、単身でのりこんできたシリンを置いて逃げるなど。それ以前に、敵の方が優勢だったというのに、どうして今逃げる必要がある。
答えはすぐに判明した。再び俺の両手が地面に串刺しにされる。
すぐ前方に、見覚えのある二つの顔があった。未だピンクの光のマーカーがつけられ、しゃがみこんで両手を地面に剣で刺している、武装したドワーフの巫女。その隣には、おなじみ黒い法衣姿のバスの男。
よりによって俺の前に転移してきたってことは……つまり、何よりも俺の始末を優先しにかかるつもりってわけか。はっ、上等だぜ。
「くひひひ、決着をつけるとしようぜ。いや、お前は俺が直接殺すべき相手だ。お前も俺に対してそう思っているようになあ」
不敵な笑みを浮かべて、バスの男が言う。しかしその瞳は濁っていないし、表情も歪んでいない。憎悪も怨恨も無く、純粋に好敵手に対する眼差しを俺に向けてやがる。
「ああ、その通りだよ。俺の知らない所で、勝手に死なれるよりかは、俺の手で引導渡してやりたいわ」
バスの男を睨みつけて言い放つ俺だが、両手串刺しで這いつくばっているから、どうにも様にならんな……
「ぼ、僕らも長きに渡る因縁の、けけケリをつけてもいいよね? で、デッド……」
バスの男から少し離れた位置に降り立ち、シリンがディーグルの方を向いて告げる。
「いえ、どうでもいいです。私が今最も優先して行うべきは、このちんちくりんの守護ですから」
澄ました顔でぬかすディーグル。その割にはお前、俺の指示も無いのに勝手にシリンに攻撃しかけてたじゃねーかよ。
「人食い蛍」
ディーグルが短く言い放つと、三日月状の小さな光の点滅がディーグルの周辺に何十――いや、何百と出現する。ほら……やる気満々じゃん。
光の点滅は一斉に乱舞し、シリンめがけて襲いかかる。ちょっと距離が離れているから、いまいちじゃないか? 今の和風魔法は、周囲を取り囲まれていたり敵が中距離にいる際にいきなり仕掛けたりして、最も効果が発揮されるような気がするが。
案の定シリンは飛びまわって、光の蛍の群れをかわしまくっている。そのうち光は消えたが、シリンと俺らの距離が大分離れた。
「ちょっと……そいつは私の獲物。そう決めたのにまだわからないの? 人の獲物を横取りとか棒で殴って殺されても文句言えないって、誰からも教わってないの?」
鈴木が暗い声でディーグルに抗議する。
「お好きなようにしてください。私はこだわりませんので」
ディーグルがそう答え、今度はちゃんと詠唱有りの呪文を唱え始める。なんだかいつもに比べてかなり早口なような。ディーグルにワンテンポ遅れて、鈴木も詠唱を開始する。
「行くぞぉ」
バスの男が俺を見据えて不敵に笑う。おそらくは法衣の袖の中から、両腕が何十本もの肉紐へと変わり、地を這いながらあちこちにうねって伸びて向かってくる。しかも途中で肉紐は何本にも分かれて、その数を爆発的に増やしていく。
あれがここに到達する頃には何十本になっているのか……それを全て防ぐなんてできるのか?
「黒蜜蝋。噛神」
ディーグルが呪文の詠唱を終えたその時、二つの性質の異なる魔力がディーグルの身より放たれる。これはつまり……二つの呪文を交互に唱えて、魔法二つを同時に発動させたわけか?
ディーグルの目が真っ黒になる。瞳も、白目の部分も無くなって、真っ黒。キモいし怖い。リトルグレイかよ。そのうえ目から黒いドロドロとしたコールタールのようなものが大量にあふれだして、服をつたって地面にまで流れ落ちた。
黒いドロドロは地面につくと、まるで影のように平面化して、地を這い増殖してこちらに迫り来る肉紐を迎え撃つが如く、伸びていく。まるでディーグルの影が伸びていくような光景だ。
伸びる影状のものに向かって、ディーグルが指弾で礫を放つ。何を放ったかわからないし、影に着弾したのは見えたが、その瞬間消えてしまっている。
影が肉紐に触れた瞬間、肉紐が一瞬にして真っ黒になった。いや、黒光りする何かへと変化し、動きを止めた。
自身の体の先端で起こった事態に、バスの男は顔色を変える。黒く変化した部分は最早自分の意志で動かすことも増殖することもできないようで、動きが止まったままだ。影はさらに伸びて、次々と肉紐を黒く変化させて、動きを止めている。
が、ある部分まで伸びたところで影が消えた。魔法の効果時間だか効果範囲の限界って所か。
これだけでは一時凌ぎにしかならない。バスの男は自分の肉体をさらに増殖できるようだしな。しかしディーグルはもう一つ魔法を発動させていたはずだ。あの礫にも何か仕掛けがあるかもしれない。例えば毒とか。
黒くなっている部分が切り離される。また増殖を開始するのだろうと思われたその時、思いも寄らぬ変化が起こった。
地を這うように変化していた肉紐が、急に所々上へと盛り上がり、肉の一部分が割れる。文字通り、口が何十個も出現した。唇も歯もついている。
盛り上がった口達は、己の体である肉紐へと噛み付きはじめた。噛んではちぎり、吐き出し、噛んではちぎり……
「うおおおっ!」
バスの男の体にも同様のことが起こった。服がはだけ、手、肩、胸、足、あらゆる部位の肉が盛り上がり、口が生じ、そして己の体めがけて噛みちぎりにかかる。
これがディーグルのもう一つの術か……。いやはやおぞましいったらありゃしない。ディーグルのドSな性格を象徴しているというか。さっきの礫はこの術の触媒か何かなのか、それともまた別の物なのだろうか。
ディーグルの方にすっかり目を奪われていたが、鈴木もちゃんと活躍している。立て続けに雷鳴が轟き、天を覆いつくす雲から、雷が無数にシリンめがけて降り注ぐ。鈴木が指を差した方向に向かって雷が落ちていくので、シリンに照準を合わせて鈴木は指を動かしているだけ。
シリンは高速で飛翔しながらそれらをかわしていたが、とうとうかわしきれずに雷の直撃を食らい、落下していった。
「シリン様!」
「シリン様がやられたーっ!」
その光景を目の当たりにした乱す者達が騒然となった。
落下したシリンを兵士達が取り囲んでいるので、ここからじゃ奴の生死は確認できないが、少なくとも戦闘不能にはなっているようだ。つーか普通死ぬよな、あれは……。魔法で生み出された電撃ではなく、魔法で雷そのものを降らせて浴びせられたわけだし。
「あはははは、いい気味ぃ。蝿みたいに落ちてったわ。無様無様。あはははは。次はあいつよ」
舌なめずりし、バスの男に視線を向ける鈴木。おいおい、あれは俺の獲物だぞ。
バスの男はディーグルの外法によって結構苦しめられていたようだが、自分の肉体を切り離しまくって、術を解いたようだ。
そこかしこに肉片が落ち、バスの男は半裸の状態になってボロボロになり、血相を変えて荒い息をついている。
バスの男は少し場所を変えていた。おそらく口のついた自分の肉が、隣にいた巫女を襲わないようにと配慮し、離れたのであろう。
魔法の詠唱もなく、鈴木はバスの男めがけてただ指を指す。すると雷が降り、バスの男を直撃する。
悲鳴すらあがらず、バスの男は全身火傷と共に硬直していた。
ドワーフの巫女がバスの男を見る。バスの男が離れたおかげで、彼女は雷の巻き添えを食らわずに済んだようだ。ディーグルのおかげで命拾いか。
巫女の視線から外された俺は、痛み分けの奇跡の束縛から解かれ、手の自由が利くようになった。よし、うまいことトドメ刺すチャンス到来!
一方で、いつも俺の身を守っているディーグルがバスの男の方に向かって疾走していた。俺の拘束が解けたのを見て、打ち合わせどおりにやるつもりだろう。
地面に落ちたスケッチブックに手を伸ばす。すでにもう描いてあるんだ。後は発動させるだけだ。雨に濡れてぐちゃぐちゃではあるが、それでも絵は無事だ。
「くひひひ……何のこれしき……」
バスの男が強がって笑い、また肉体を増殖しはじめる。今度は肉紐を出すのではない。やせ細っていた奴の体が、風船のように膨れ上がっていく。ひょっとして脂肪を増殖させて、雷のダメージを抑えようとでもいうのか?
「馬鹿ね。馬鹿。そんなのでうまくいくと思う? 馬鹿は死ねばいい」
鈴木もその意図を看破していたようで、さらにバスの男に指を指そうとする。おいおい、やめろよー。
慌てて俺がスケッチブックを開いた時、それは起こった。
「痛っ」
鈴木が声をあげて落馬する。直後、雷鳴が轟いて雷が落ちた。
指の照準が狂ったようで、バスの男ではなく、隣で再び自分の手をナイフで地面に刺したドワーフの巫女に、雷は落ちていた。
おそらく巫女が、鈴木が雷を降らしていることを察知して、奇跡の力を用いて鈴木の動きを封じようとしたのだろうが、雷を降らす直前であったために、照準がバスの男から巫女へと向いてしまったのだろう。
「え……?」
バスの男が怪訝な声をあげ、己の巫女の方を見た。
巫女がバスの男の方を向いて微笑むのが、この位置からも俺には見えた。
俺はスケッチブックを発動するのをやめた。
巫女が着ていた甲冑がぼろぼろと崩れだす。中身が消滅したのだろう。消滅速度が個人差あるなー。脇坂は結構消えるのが遅かったのに。
バスの男の膨らんだ体がしぼむ。ふらつく足取りで、巫女がいた痕跡である、地面に落ちた甲冑へと向かう。その表情は虚ろそのものだ。
そこへディーグルが迫り、刀を抜く。先程の気色悪い和風魔法といい、雷の直撃といい、巫女を失ったショックといい、さすがのバスの男も、食らったペインが限界に近いであろう。ここでディーグルの攻撃を受ければ……
「ディーグル! やめろ!」
何の躊躇もなくバスの男を攻撃しようとしたディーグルに向かって、俺は大声で叫んだ。ディーグルの動きが止まる。
「あああ……ああ……う……うっ……うあああああああああっ!」
自分に尽くした少女の甲冑を拾い上げ、バスの男は天を仰いで身も世も無く号泣していた。




