第29話 バッド・コミュニケーション
「大和さん、私の事を見てください……」
プリクラの筐体とカーテンで区切られた半密室の空間。片腕を彼女の身体に取られてしまった俺は何も抵抗が出来ずに一緒の写真に写る事しか出来なかった。首の辺りに口づけをされ、肌の上をぬるりと滑る舌に逆らえず呻いている事しか出来ない。
「六花さん、こんなことっ」
「んっ……大和さん、好きです……」
彼女の示愛行為は俺の言葉に構わず続けられる。この機会を逃すものか、と六花さんは蛇のように絡みついて離れない。そして、そんな彼女に徐々に心が傾いてしまっている。この位なら、一度だけなら、今だけなら……
「大和さん」
「ぁっ……」
「キス、してみませんか?」
「キスって……」
六花さんの身体が俺の胸元に滑り込む。いつの間にか進んでいたアナウンスの音声で既に写真を3枚撮られていることが分かったけれど、目の前の状況が俺をすぐに現実から引き戻してしまう。
身体にぴたりとくっ付いた六花さんはほんの少し顎を上げて俺の顔を上目遣いに覗き込んでいた。背中に彼女の指がきゅっと食い込み、ふんわりとした彼女の胸がつぶれる。黒髪から漂う艶美な香りが鼻の奥で優しく広がっていく。
「口と口を合わせる、いけないキスです」
「それは、アマンダが駄目って――」
「はい」
突然、六花さんが上を向くと舌が伸びて俺の唇をちろりと舐めた。あまりに短い間の出来事だったから幻かと思ったけれど確かに唇は濡れていて、鼻には彼女の唾液が気化した扇情的な匂いが差し込んでくる。思わず口からは大きな息が漏れて、直後に心臓の鼓動がやけに速くなっていることに気が付いた。
目の前の六花さんを直視できない。
心の中で何を言い訳しても無駄だった。六花さんの言葉、身体の感覚、そして香りを思い出すだけで心がかき乱されるような気持ちになってしまう。視線は彼女の頭の上に上がっていたが、それがどんどん下に降りて来る。
目が合ってしまう。
六花さんと、見つめ合ってしまう――
「大和さん」
彼女はそう言うと、背中に回していた腕をそっと離す。
そして、それをすぐに俺の首の後ろに回し直すと、そのまま後頭部を引き寄せた。
唇が、重なった。
「――――――!?」
半開きになっていた口の中に六花さんの舌が潜り込んでくる。歯の間をこじ開けるように進んで行ったそれは舌の上を優しく撫でていった。そして、舌の裏も何度か撫で、絡みつきながら俺にも動くように訴えかける。
六花さんの舌は本当に柔らかかった。彼女の舌が引っ込むとそれが欲しくなってこちらも舌を伸ばしてしまう。ねちょねちょと互いの口液が混ざりあって甘ったるい香りを周囲にまき散らしていく。お互いに息が荒れ、貪欲に吸いあうような長いキスを終えると、まるで別人になったかのような目で六花さんは俺を見つめ続ける。それは昼食の時に見た、俺の心を試そうとしている悪い顔だった。
「あーあ、キス、しちゃいましたね」
「あっ……」
「大和さんには既にアマンダさんがいるのに」
「六花さん、それは」
「大丈夫です。分かってますよ」
アマンダの事を思い出して喉の奥が枯れた。
彼女はあんなにも俺の事を愛してくれているというのに、俺はアマンダを裏切るような行為をしてしまった。六花さんは頭を優しく撫でると耳元に近づき、やや低い声で囁く。
「これは一回だけ……そうですよね?」
「は……はい……」
「ここを出たらもう、私たちは元通りです。抱き合った事も、キスをしたことも、全部なかったことになりますから」
そんなことあるはずない、と分かっていた。
俺の心は確かに六花さんに奪われたのだ。アマンダの事も好きだけど、それと同じ位に俺は六花さんの事も好きになってしまった。身体に刻み込まれたその想いは悪魔との契約を記した紋様のようで、決して消えることは無い甘美な呪いであった。
〈撮影終了! 隣のスペースに移動してね♪〉
筐体から呑気に流れて来る女声で俺たちは完全に現実に返される。
六花さんは俺から離れるとそのまま撮影スペースから出て行った。これっきり、と言うような事を言っていたけれど、これだけでは終わらないような気がしてならなかった。
※
撮影スペースで六花さんが言った事は本当だった。
あれから落書きスペースに入った俺たちだったが、再びあのような空気になることは無くプリクラの時間は幕を下ろした。彼女の言った通り、俺たちは完全に元通りになってゲームセンターを出てきていた。
――財布の中に入った、六花さんとのキスが写された写真以外は、だったが。
「さて、アマンダさんへのプレゼントを選ばないといけませんね」
「あ、ああ、そうだったな……やっぱりあのブロックがいいかな?」
「それだったらあの雑貨売り場に戻りましょう」
再び俺たちは雑貨売り場に向かう。その間の距離感も、ここに来た時と同じように異性の友達としての距離がしっかり保たれていた。周りを歩いている人たちからすれば恋人同士に見えるかもしれないけれど、俺には彼女が「友達として」の体裁を守っていることが確かに分かる。
さっきの出来事が頭を掠めていく度に頭がグラグラと揺れるような気がしたが、彼女の方にはそのような動きは無い。リセットされていた。俺だけが、あの出来事に振り回されて相手をまともに見られなくなってしまっていた。
「大和さん、雑貨売り場はこっちですよ」
「あ……ごめん」
目的地を通り過ぎそうになった俺を六花さんが呼び止めた。
変わり果てた自分の心情に狼狽えながらもあのブロックがあった場所を思い出しながら売り場を歩き、俺はそれをレジに持って行く。プレゼント用の包装があったからそれもお願いした。そして、赤い包装紙に包まれたアマンダへのプレゼントを持って俺たちは売り場を出た。
「そろそろ時間ですね」
雑貨売り場近くのベンチに座って休んでいると、六花さんが時計を見ながら呟いた。
午後三時。雑貨売り場や衣料品売り場を見て回った時間が思ったよりも長かったらしい。
「……ん」
ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。アマンダからの電話だった。
六花さんに電話だと告げてからそれに出る。スマートフォンを持つ手が、震えていた。
「もしもし」
〈あ、ダーリンですか? こんにちはです!〉
アマンダはエミリアさんと出歩いている最中なのだろう、がやがやとした音がかかっているが、彼女の声ははっきりと聞こえてきた。
「どうした?」
〈えへへ、私は今エミリアとお出かけ中なんですよ。ダーリンは今何してますか?〉
息が、止まった。
アマンダの何気ない一言に答えられない俺は、そのままつっかえるような呼吸で何も喋ることが出来なくなってしまう。自分の身体なのに自分でどうにも出来ない。横で六花さんが心配そうな目で見ているのはかろうじて分かった。
「あ……あぁ……」
〈ダーリン? 体調悪いですか?〉
目から涙がボロボロと零れ落ちる。
胸が詰まって、アマンダへの申し訳なさで自分が潰されそうになってしまう。
「アマンダ、ごめん、ごめん……!」
〈だ、ダーリン!? なんで謝るですか? ダーリン――〉
彼女の声が耐えられなくなって俺は電話を切ってしまった。
隣で六花さんが大丈夫か、と声をかけてくれたような気がした。
「駄目だ……こんなんじゃ、駄目だ……」
身体中に鉛を下げられたように重い。アマンダの為に買ったはずのプレゼントが何故か薄汚く見えてしまう。この状況を分かってくれているはずの六花さんでさえ、今の俺は頼ることが出来なくなってしまった。




