第四話 道中。飛竜と満天の星空
「……お願いします」
そう言うと、おじさまは小さく頷き、
赤銅色に焼けた手を自然に差し伸べた。
「乗りな」
私は片手で裾を摘まみ、そっと彼の手を握る。
あったかくて大きい……男の人の手だ……。
彼の手にぐいと引かれ、私はえいっと荷台に乗り込む。
そしてあたたかな藁に背を預けた途端、
胸の奥が、ぎゅっと詰まったような気がした。
――あ。
私は、久しぶりに泣いた。
そう。前世でも、泣くことなんて、いつの間にか忘れていた。
ひとしきり泣いたあと、
ぼんやりと空を眺めていると、
おじさまが声をかけてくる。
「嬢ちゃん、名前は?」
「……きらり、です」
おじさまは鼻を掻いた。
「おお、いい名じゃないか。
俺はマイクだ。よろしくな」
(……モブにもちゃんと名前、あるんだ……)
おっといけない。
「はい。よろしくお願いします」
マイクは手綱を操りながら、
ちらりとこちらを振り返り、私の顔をじっと見た。
「まあ、働いたらその分、ちゃんと飯は食えるからな。
嬢ちゃん、その顔を見る限り、どこぞのお嬢様だろ?
あんまり働いてきた感じじゃないが……
働くのは、嫌いかい?」
……初めてだった。
そんなことを、聞かれたの。
前世では――
働くの、デフォだったんですけど!?
「いえ、むしろ働くの、大好きです。
つい昨日も、三日徹夜してました」
「ははは。
そりゃ死んじまうぜ」
マイクは、からからと笑う。
「そんなに気張らなくても大丈夫だ。
ここじゃ、ちゃんと休め。安心しな」
……おっしゃる通りです。
私、三徹で死にました。
でも、不思議と胸が軽くなった。
田舎でスローライフかぁ……
悪くないかも。
*
ふと、荷馬車が止まる。
「しー。
ちょっと静かに。身体を低くして」
私は慌てて、荷台に身を伏せた。
マイクは、空をじっと見上げている。
「――来たな」
つられて、私も空を見る。
雲の切れ間を横切る、黒い影。
ばさっ、と、空気を裂くような羽音。
「……竜?」
「正確には、飛竜だ」
マイクは、落ち着いた声で答えた。
「竜の中じゃ小さい方だがな。
下手に刺激すりゃ、食われる」
心臓が、きゅっと縮む。
「で、でも……」
「安心しな。
あの感じ、腹は減ってねえ」
飛竜は一度だけ大きく旋回すると、
そのまま、遠くの森へと消えていった。
「ふう……」
マイクが胸をなで下ろす。
私も、思わず同じ仕草をしていた。
「……やっぱり、モンスターとか……
普通にいる世界なんですね」
「……?
そりゃ、そうだろ」
マイクは一瞬だけ言葉を止め、
ごく当たり前のことのように言った。
*
日が傾き、夕方になった。
燃えるような夕陽が、
広い草原の向こうへ沈んでいく。
「……きれい」
思わず、見とれてしまう。
荷馬車が、再び止まった。
「今日は野宿になるが、いいかい?
村には、明日には着く」
「え、あ……もちろんです」
マイクは御者台から降りると、
荷台の奥からテントを取り出し、
慣れた手つきで野営の準備を始めた。
……私、キャンプなんてしたことない。
もじもじしていると、
マイクの穏やかな声が飛んでくる。
「はは、いつものことだからな。
すぐそこに水場がある。
水、汲んできてもらえるか?」
「はいっ!」
私は木桶を抱え、
マイクが指し示した方へ歩く。
とっぷりと日が落ちた世界――
せせらぎの音。
虫の声。
草のさざめき。
月明かりだけでも、
世界って、こんなに明るかったんだ。
ふと、空を見上げる。
満天の星空。
(すごい……落ちてきそう)
夜中の会社帰り、
ビルの谷間から見上げた夜空を思い出す。
(……ぜんぜん、違う)
そっか。
これが、私がこれから生きる世界なんだ。
そっと、小川に木桶をくぐらせる。
冷たっ!
でも――
不思議と心地よくて、
胸の奥が、じんわり温かい。
ぱちっ、と音がして振り返ると、
焚き火の灯りが揺れていた。
私はちゃぷちゃぷと水を揺らす木桶を手に、
彼のもとへ、自然と笑顔で歩いていた。
*
翌朝――。
邪魔にならないようにしながら、
私はマイクを手伝い、野営を撤収する。
昨夜は、
テントで横になった瞬間、
意識が途切れていたらしい。
マイクのスープをご馳走になり、
焚き火の爆ぜる音を聞きながら、
この世界のことを少しだけ教えてもらった。
魔王のこと。
魔物のこと。
王国のこと。
村のこと。
この世界の人たちは、逞しい。
魔王や魔物という恐ろしい存在がいても、
それでも前を向いて、生きている。
誰も、自暴自棄にならず、
それぞれの生活を、ちゃんと続けている。
おかしなことを聞く娘だと、
マイクは思ったかもしれない。
それでも、彼は何も聞かず、
私の質問に、静かに答えてくれた。
スープは、正直、味気なかったけど。
胸の奥は、いっぱいだった。
――私も、出来ることをしたい。
そう思った夜だった。
けれど。
馬車の揺れに身を任せながら、
私は心の中で、そっとため息をつく。
異世界転生といえば――
宮廷。
舞踏会。
イケメン婚約者。
あったかい貴族家庭。
きらきらした仲間。
そして――恋。
一瞬だけ、
勇者アレンと騎士レオンの顔が浮かび、
私は小さく頭を振って、それを追い払った。
そんな夢は――
どうやら、最初から存在しなかったらしい。
「……トホホ」
でも。
荷馬車は、ちゃんと前に進んでいる。
マイクさんみたいに、
手を差し伸べてくれる人も、いる。
ダメ聖女の私だけど――
きっと、出来ることはある。
そう思えただけで、
少しだけ、救われた気がした。




