第十六話 空を覆う影、そして彼は
――そう思っていた。
その日の午後。
空の色が、おかしくなった。
青かったはずの空が、
墨を流したように暗く染まっていく。
「……?」
最初に気づいたのは、洗濯屋だった。
干し場の布が、ふっと重く落ちた。
いや――落ちたというより、**“撫でられて倒れた”**みたいに、すとんと。
風が、消えたのだ。
ぱたぱたと鳴っていた布が沈黙し、
洗濯屋の指先から、温度が抜けていく。
鳥の声も、消えた。
いつもなら鳴いているはずの、
屋根の上の小鳥たちが――一羽残らず、いない。
次に、人々が気づいた。
市場のざわめきが、
潮が引くみたいに、すうっと消えていく。
代わりに聞こえるのは、
布の擦れる音と、
誰かの息を呑む音と、
自分の心臓の音。
――静かすぎる。
重たい圧が、
上から、のしかかってくる。
空気が、薄い。
耳が、きゅっと詰まる。
肌の表面がざらつく。
汗が、出ない。
「……なに、あれ」
誰かが、震える声で言った。
私も、通り側の扉に近づき、
ゆっくりと空を見上げる。
雲――ではない。
雲の“下”。
空に、浮かんでいる影。
巨大で、禍々しく、
あり得ない存在感。
城より高い。
街全体を覆うほどの影。
影なのに、輪郭がある。
輪郭があるのに、形が定まらない。
そして、はっきりと分かる。
“それ”は意思を持って、そこにいる。
――見ている。
目が合った、と思った瞬間。
背中の皮膚が、ぞわっと粟立った。
喉がきゅっと縮んで、唾が飲み込めない。
「……魔王」
誰かが、祈るみたいに呟いた。
その瞬間。
影が――呼吸した。
音もなく。
けれど確かに、空がわずかに“凹む”。
そして、遅れて来た。
ぱきん。
近くの塔の窓ガラスが、一本だけ割れた。
遅れて、ぱきぱきぱき、と連鎖する。
(……圧だけで、これ?)
理解した刹那――
世界が、割れた。
「きゃあああああ!!」
悲鳴が遅れて響くと、
市場が崩れた。
人々が駆けだした。
市民が逃げ惑い、
兵士が叫び、
鐘が鳴り始める。
がん、がん、がん、がん――
街中の鐘の音が、心臓の代わりに街を叩く。
「逃げろ!!」
「南門だ! 南門が開く!」
「違う、西門だ! 王が避難する!」
「子どもを抱えろ!」
「誰か倒れたぞ!」
「押すな!!」
「押すなって言ってるだろ!!」
叫びが連鎖する。
荷車が横転し、果物が散り、
走る足に踏まれて潰れる。
甘い匂いが、
一瞬だけ、吐き気に変わる。
転んだ人が、起き上がれない。
起き上がれない人に、群衆がぶつかる。
ぶつかった群衆が、次の群衆を押す。
混乱は、意思を持つ。
「助けて!」
「どいて!」
「触るな!」
「うちの子が! うちの子が!」
「こっちじゃない!」
「違うってば!」
「やめてぇぇ!!」
悲鳴の中に、
笑い声が混じった。
――恐怖で壊れた笑い声だ。
私は――
その場から、動けなかった。
逃げろ、という本能が
背骨を叩くように叫んでいるのに。
足が縫い付けられたように動かない。
ポチが、低く唸る。
いつもの「守る唸り」じゃない。
獣が“格”の差を悟った唸りだ。
私は、彼の頭を撫でる。
自分の手が冷たいことに気づいて、
指先に力を入れる。
「……関係ない、はずだったんだけどね」
私は、ただの洗濯屋だ。
聖女じゃない。
でも。
空に浮かぶ魔王は、
こちらを――見ていた。
まっすぐに。
まるで、
“あの日、追放された聖女”を探していたみたいに。
いや、違う。
探してるんじゃない。
見つけたんだ。
影が、わずかに“身を傾ける”。
ぞわり、と街全体が震える。
屋根瓦が鳴る。
窓ガラスが、ちり、と鳴る。
――逃げ場のない影が、王都を覆い尽くす。
遂に。
その時が、来てしまった。
***
「さてと。来ちまったみたいだね」
奥から出てきた、マルタさんの声。
いつも通りの、乾いた口調。
――なのに。
指先が、わずかに震えていた。
「荷造りするかい?」
「え? ……うん。そう、だね」
私は振り向かず、
畳んだばかりの洗濯物をぎゅっと握った。
そうだ。逃げればいい。
マルタさんも。マイクさんも一緒に。
カラル村のみんなも。
きらゴブも、きら狼も、飛竜も。
全員で、どこかへ逃げて、
世界のどこかで洗濯屋を続ければいい――
(だって私は、洗濯屋なんだから)
私は、ようやく振り向いた。
マイクさんがいた。
……鎧?
視線が落ちる。
……剣?
息が、止まった。




