第十五話 不穏な噂と、洗濯屋の迷い
最初は、噂だった。
「聞いたか?」
「魔王討伐軍が……負けたらしいぞ」
王都の市場。
洗濯物を受け取りに来た商人たちが、声を潜めて話している。
「魔王軍との決戦で、大敗だって」
「勇者も、歯が立たなかったって……」
「騎士団も、相当やられたらしい」
私は、手を止めずに聞いていた。
噂というものは、
だいたい、大げさで、尾ひれがつく。
誰かの不安が、
別の誰かの恐怖になって、
最後には“真実っぽい嘘”になる。
だから最初は、
ふうん、ぐらいの感覚だった。
(どうせ、誇張でしょ)
王都は、いつだってそうだ。
戦争の噂も、疫病の話も、
大抵は“遠くの出来事”として消えていく。
――そう、思っていた。
けれど。
「王都に、攻め込んでくるって話だ」
「もう時間の問題だとか……」
その言葉が出始めてから、
空気が、はっきりと変わった。
街がざわついている。
笑い声が減り、
人々の歩幅が早くなり、
馬車の往来が、明らかに増えた。
貴族街では、
昼間から屋敷の扉が閉ざされ、
裏口に荷車が横付けされている。
――荷造りだ。
実際、このところドレスの洗濯量も減っていた。
華やかな刺繍より、
旅用の丈夫な衣類が増えている。
舞踏会が減っている。
人々が、“未来を祝う服”を洗わなくなっている。
「……確かに」
私は、ふと思い出す。
少し前に来た、勇者と騎士。
二人とも、笑ってはいたけれど。
鎧の内側は傷だらけで、
疲労が骨の奥まで染み込んでいるようだった。
冗談も言っていたし、
前向きな言葉も口にしていた。
でも――
あれは、“負けたあとの顔”だったのかもしれない。
「……あれ、負けた直後だったのかな」
ぽつりと、独り言が落ちる。
隣で、ポチが低く鳴いた。
私は、彼の首元をもふっと撫でる。
温かい。
生きている。
今、ここにある現実。
「きっと、大丈夫だよ」
誰に向けた言葉かも分からないまま、
私はそう言った。
「関係ない」
私は、洗濯屋だ。
聖女は、もうやめた。
世界を救うとか、
魔王と戦うとか、
運命を背負うとか。
そういう役目は、
王都の城で、
綺麗な言葉と一緒に、全部置いてきた。
「……ね?」
ポチは、何も言わない。
ただ、柔らかな毛並みと、
きらきら光る鱗をここに残している。
それだけで、十分だ。
――十分、なはずだった。
私は、再び洗濯物に向き直る。
布は正直だ。
汚れは、洗えば落ちる。
疲れも、ちゃんと手をかければ、戻る。
人も、そうだったらいいのに。
(……私は、洗濯屋)
そう、心の中で繰り返す。
洗濯屋は、
世界の行く末なんて考えない。
洗濯屋は、
目の前の布を、きれいにするだけ。
なのに――
胸の奥に、
小さく、嫌な引っかかりが残ったままだった。
それが何なのか、
まだ、私は認めたくなかった。
***
「景気はどうだい?――なんて、野暮だね」
店の裏口から聞こえた、聞き慣れた声。
振り向くと、
王都の石畳には似合わない、素朴な外套姿の二人が立っていた。
「……マルタさん。マイクさん」
思わず、顔がほころぶ。
「うん。少し暇が増えた……かな」
私がそう答えると、
マルタさんは小さく肩をすくめた。
「やっぱりね」
それだけで、全部わかっている顔だった。
「王都の女たち、今はね。
綺麗になるより、“生き残る準備”をしてる」
胸に、すとんと言葉が落ちる。
「舞踏会用のドレスは減って、
旅装や防寒具が増えてるでしょう?」
……当たっていた。
私は何も言えず、布を畳む手を止めた。
「洗濯屋ってのはね」
マルタさんは続ける。
「一番最初に“世の中の空気”が変わったのに気付く商売なんだよ」
村でも、そうだった。
不作の前。
疫病の前。
戦争の前。
いつだって、洗濯物が変わった。
「……噂、ですけど」
私は、言い訳みたいに口にする。
「噂は、だいたい盛られるし……」
そのとき。
「噂じゃねえ」
低く、はっきりとした声。
マイクさんだった。
彼は壁にもたれ、腕を組んでいる。
視線は、私じゃなく、通りの向こう。
「……魔王討伐軍は、負けた」
断定だった。
「勇者も、騎士団も、生きてはいる。
だが――勝てる目算は、崩れた」
私は、息を飲む。
「王都がすぐ落ちる、って話じゃねえ」
彼は続ける。
「だがな。
“勝つ未来”が見えなくなった時点で、
街はもう、”次の準備”を始める」
マルタさんが、静かに頷く。
「逃げる準備をする人。
蓄える人。
閉じこもる人。
……そして」
一拍置いて、私を見る。
「誰かが、なんとかしてくれるって、祈る人」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……私」
私は、思わず笑ってしまう。
「洗濯屋ですよ?
世界とか、魔王とか……
そういうの、専門外です」
マイクさんが、ゆっくりこちらを見る。
責める目じゃない。
期待する目でもない。
ただ――“逃げ道を残す”目。
「そうだな」
彼は、あっさり言った。
「きらり。お前は洗濯屋だ」
少し間を置いて、続ける。
「だが――
お前の洗濯で、立ち直った奴らがいる」
勇者。
騎士。
王都の兵。
名もない人々。
私の頭に、次々と顔が浮かぶ。
「洗濯屋が世界を救う必要はねえ」
マイクさんの声は、静かだった。
「だがな。
洗濯屋が“目を逸らす”かどうかは、
お前自身が決めることだ」
私は、何も言えなかった。
マルタさんが、ふっと笑う。
「安心しな」
ぽん、と私の肩を叩く。
「今すぐ決めろなんて、誰も言ってないよ」
「そうそう」
マイクさんも軽く頷く。
「俺たちは、来ただけだ。
顔を見て、話して、
……知らせに来ただけ」
知らせ。
噂が、現実になりつつあること。
そして――
洗濯屋でも、もう“無関係”ではいられない場所に来ていること。
私は、ゆっくり息を吐いた。
「……今日は、泊まっていきます?」
「もちろん」
「洗濯物も溜まってるしね」
マルタさんが、にやりと笑う。
私は、少しだけ笑い返した。
でも。
胸の奥の引っかかりは、
もう“形”になっていた。
――洗濯屋。
それは、何もしない免罪符じゃない。
“汚れに気付いてしまう仕事”なのだ。
私はまだ、答えを出せない。
けれど――
もう、見ないふりはできない場所まで、
来てしまったのかもしれなかった。




