天秤の観察者は絶望と共に想い人の姿を思い浮かべる
…………彼女の、ナタリアの眼前に展開されたのは、正しく『絶望』の二文字こそが相応しいであろう、そんな光景であった。
目の前では、少し前から変わる事無く、大袈裟な迄に痛みを訴えながらパーティーの中では有数の戦力であり『勇者』でもあったハズのシモニワが地面をのたうち回っている。
確かに、遠目に見る限りでは大きな怪我を負っていた様子ではあったが、彼処まで喚きながら転がり回る程のモノでは無い様にも見えていたし、そもそもそこまでの重傷であったのならば叫びながら転がり回る、と言う事が出来るとはとても思えない。
普段からして、自分を大きく見せる為に様々な大言を発していたが、やはりそれらは出任せであり、本当の事では無かったのだな、と頭の何処かでボンヤリと考える事となってしまう。
一方、翻って視線を自分達の方へと向けて見れば、ソコに在るのは地面へと直接膝を突き、どうにか立ち上がろうとしてもがいている自分を含めた仲間達の姿。
少し前までは『相対している』と言っても良かったかも知れない目の前の巨竜、『ミズガルドオルム』と名乗った『竜』が雰囲気を変貌させたと同時に突如として身体が重くなった様に感じられ、こうして身動きすらも碌に取る事が出来なくなってしまっていた。
恐らくは魔力圧の類いが放たれた、と言う事なのだろうが、彼女にはソレを感じ取る事が出来てはおらず、突如として身動きが取れなくなったと言う認識しか出来てはいなかったのだ。
あまりにも、ナタリアとミズガルドオルムとの間に出来た力の差が大きすぎた為に、ソレを認識する事すら出来ずにいた、と言う訳なのだ。
更に言えば、彼女らが視線を向けている先にて、少し前までは『戦っている』と言えたかも知れない相手であるミズガルドオルムが、その口腔を大きく開いて魔力を込めている姿も確認出来ている。
物理的な衝撃を伴っている、と勘違いしたくなる程に高められた魔力と存在感は最早『凄まじい』の一言に尽きており、未だに何をされた、と言う訳でも無いにしても、これから起きる事が碌でも無い事である、と言う確信だけは強く抱く事が出来てしまっていた。
…………それと同時に、その寸前まで嫌でも彼女の耳へと届いていた、人々の苦痛に喘ぐ声や断末魔の叫び、怨嗟の呻き声や敵を見事に蹴散らして見せた歓声だけでなく、時折視界に入り込んで来ていた真っ赤に染まった大地や地上を狙う上空の魔物、鉄臭く生臭い定期的に嗅いだ経験の在る異臭と言った、戦場特有のモノ、と言われる不快極まりない諸々の要因が俄に遠ざかって行く様な心持ちへとされて行く。
━━━━…………あぁ、これは、終わったな。
私は、ここで死ぬんだ……。
そんな、通常であれば唾棄すべきモノであるハズの弱音が、ナタリアの胸中だけでなく脳裏をハッキリと過ってしまう。
特に劇的な理由が在っての事では無い。
魔族側の援軍が現れたから、と言う訳でも、大規模な戦略魔法陣を展開されてしまったから、と言う訳でも無い。
ただ単に、これはもう助からないだろう、ここでもう自分の命は終わるのだろう、と言った確信を彼女が抱いてしまった、と言うだけの話なのだ。
それほどに、隔絶した実力を目の前のミズガルドオルムと名乗る『竜』から、彼女は感じ取ってしまったのだから。
絶望に澄み渡る思考と視界の端にて、何故かこちらへと向かって来るカテジナと、その背中に背負われながら引き摺られているシュワルツ将軍の姿が写っていたが、かつては妹の様に接していたハズの相手であったにも関わらず、彼女はそちらへと思考を振り分ける事も、何故そうなっているかも特に気にする素振りすら見せずに自らの胸中にて遅延している様にも感じられる時間の中、思考の海へと埋没して行く。
…………そもそもの話、現在こうして絶望の淵へと追いやられしまい、抵抗する事すらも出来なくなってしまっているのは、やはり『あの日』彼の事を繋ぎ止める事が出来なかったから、だろうか。
あの日、彼が森の奥から姿を現し、それまでの『僕』から『俺』へと雰囲気と共に一人称を変貌させた正にあの時、彼の事を信じ、直ぐ様彼の元へと駆け寄ってその傷付いた身体を支え、彼が溜め込んでいた心の毒を自身の身体を使ってでも取り除く事が出来ていれば、こんな事にはなっていなかったハズなのだ。
そうしていれば、今も彼は自身の隣に居て、こんな血まみれ泥まみれになる異臭漂う戦場で絶望する事になんて、なってはいなかっただろう。
…………もしかすると、既に彼とは婚姻を結ぶ事すらも出来ていた可能性も在ったかも知れない。
アレだけの力を得た彼が、ソレを人に向ける事無く、自分自身の為だけに振るう、と言う方向から逸らす事すらも出来ていたのならば、もしかしたら既に魔族との戦いも終わらせられていた可能性すらも在っただろう。
…………そして、そうやって絶大な力を以てして国の敵を滅ぼした彼を温かく出迎え、血と戦とに酔って得た昂りを自らの身体を以て鎮め、共に頂きへと至る事が出来たのならば、どれだけの悦楽を共にする事が出来ただろうか。
もしかすると、既に子供がこの胎内に宿る事になっていたとしても、不思議では無いと言えるハズだ。
そうなっていたとしたら、もう彼女の未来は明るく薔薇色に彩られたモノとなっていた事だろう。
アルカンシェル王国を出た時には既に多少(?)歪んでしまっていたが、彼は本来一途で几帳面でありながらも温厚な気質をしていた。
そんな彼が一度情を交わし、その上で子を宿した相手を見捨てる事は『有り得ない』と言えるだろうし、またそんな相手が傷つけられる事を見過ごす事は無いし、況してや黙認する事は世界が終わったとしても『有り得ない』事である為に、余所からの妬みや僻みと言った横槍は心配する必要が無く、存分に育児に専念出来た事だろう。
唯一珠に傷な部分が在るとするのならば、その懐の深さと情けの強さから、幾ら突き離そうがそれでも変わらずに側に居ようとする者に対しては強く出る事が出来ず、結局内輪に入れてしまう事になるだろう、と言う点だろうか。
元々、アルカンシェル王国だけでなく世界的に見ても、強者一人に対して複数の相手を宛がって、より強い血をより多く残す、と言う事に腐心している、せざるを得なくなっているが故に、理解はしている。
現に、自身の妹分であるイザベラは確定として、レティアシェル王女と血を濃くする為にカテジナを迎え入れる、と言う処迄はナタリアも納得はしていた。
…………とは言え、それも『世間的な常識によって納得している』と言うだけであり、今名前を挙げた面々にしても『良く知っているから仕方無く許可している』と言うだけの話であり、当然の様に納得はしていない。
彼を愛し、彼に愛され、彼の熱情を胎内に受けて子を宿すのは、その情熱を注がれるべきは本来一人で良いハズなのだから。
とは言え、自身も貴族家の一員として育ってきたが故に、高貴なる力持つ者の責務、と言うモノは理解しているし、男性とは時には『別の味』を口にしたがるモノである、とも理解はしている。
故に、別段他の者の処に渡る事は止めはしないし、情けと種とを譲ってやる事も吝かでも、無い。愉快な気分では勿論無いが。
だが、だとしても正妻として彼の隣に立つのは自分しか居ない、とナタリアは考えている。
かつて彼を傷付けながら未だに謝罪の一つもしていない妹分も、長く長く彼の事を傷付けていた妹も、突然現れた王女も、彼の隣に立ち、彼を支え、彼を癒す者となるには役不足だ。とても、任せられるモノでは無い。
そう、一時たりとも彼へと想いを途切れさせる事無く抱き続け、彼からも異性として、『女』として意識されていた自身こそが、彼からの贈り物を手ずから贈られた自身こそが、彼の隣を歩む者として相応しいのだ!!
………………そこまで自身の胸中にて妄想を展開していたナタリアであったが、不意に逃避していた現実へと立ち返ると、まるで自嘲するかの様な微笑みを浮かべながら自らの豊満な胸元を握り締める。
そんな、都合の良い『もしもの未来』だなんてモノが到来する事こそが有り得ないのだ、と言う事は、彼女自身が一番良く理解していた。
もし、あの時彼の事を全面的に受け入れていたら?そんな事、かつて家のしきたりや伝統に縛られていた自分に、出来るハズが無いのだから。
彼が国を出なかったら?彼があの時、想いに応えてくれていたら?
それこそ、有り得ない事だろう。なにせ、この国は彼を苦しめる一番の原因であり元凶でもあった場所なのだし、同時に彼が自身に向ける感情が、自身のソレとは違うのだ、と言う事は否応なしに理解もしていたのだから。
彼が自身の隣に居て、この戦場を平らげてくれたのなら?
それこそ、最も有り得ない事だと言える。彼が、かつて虐げられる事の要因となった自分の事を、例え赦したとしても無償で救う事は、もう無いのだから。
自身で産み出した妄想の悉くを、自身にて討ち果たして行くナタリア。
現実から目を逸らす為のモノであったとしても、そのあまりにも酷く、醜く、身勝手に過ぎるそれらを看過する事が出来ず、絶望が迫りつつある中であったとしても、最後に正気へと立ち返って自らの手で始末する必要が在る、と感じてしまった程度には、彼女の中にも羞恥心と呼ばれるモノが眠っていた、と言う訳なのだろう。
…………とは言え、既にソレも手遅れである様子。
既に遠目に、と冠する事無くとも視界へと入っておきながら、不用意にミズガルドオルムの威圧範囲内へと足を踏み入れてしまったらしいカテジナが、引き摺っていたシュワルツ将軍ごと地面へと崩れ落ちているのが写り込んでいる。
何故にこちらへと戻ってきたのか?と詰問したい気持ちで彼女の胸中はいっぱいになりつつあったが、気配の高まりから既に準備は整ってしまったのだ、と言う事が察せられてしまったが為に、恐らくは何処に居たとしても代わりは無いだろう、と溜め息と共に諦めてしまう。
…………だが、そうだったとしても、そうだとしても……
「…………せめて、最後くらいは、貴方の顔が見たかったよ。シェイド君……」
そんな呟きと共に、自らの首もとから掛けていたネックレスを握り締めたナタリアは、ミズガルドオルムが言葉と共に放った閃光の中へと、抵抗を示す事すらも出来ずに呑み込まれてしまう事となるのであった……。
「………………で、いきなり呼び出しておいて、この状況ってどうなってる訳なんだ?
最低限、説明位はして貰えるんだろうな?」
と言う訳で、この章はここまで
閑話の類いを挟む事無く、直接次の章へと向かいます




