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大河内国司退城の事其伍
九月九日、滝川左近一益に命じて、多芸の谷(現在の三重県津市)の国司の御殿を始めとして、あらゆるものを全て焼き払い、稲穂を薙ぎ払って廃棄させました。
左京は大河内城に立て籠もっている兵達を飢えさせ、落城させるつもりで陣を敷きました。
左京に取って代わろうとしている木下藤吉郎馨が進言した策です。
左京も他に良い案がないので仕方なくそれを採用したのでした。
大河内城に駆け込んだ者達の中には備えもしていない者もいたので、幾日も経たないうちに餓死する者が出て、国司の北畠父子は何種類もの詫び状を左京に送り、左京の次男の雄京に家督を譲るという誓約をして城を去りました。
十月四日、大河内城を滝川一益と津田一安の二人に明け渡し、国司父子は笠木(現在の三重県多気郡多気町)と坂内(現在の三重県松阪市)に退去しました。
左京は、田丸(現在の三重県渡合郡玉城町)の城を始めとして伊勢の国中の城を破却する事をそれぞれに命じました。




