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白兎と金烏  作者:
序幕 天都探索編
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三章、孔雀姫(2)

「うーん、むむ……」

 目を開けると、かさねはあたたかな褥の上に寝かせられていた。半身を起こして、思いきり腕を伸ばす。久方ぶりに、起きても身体のどこも痛くない。乱れた髪をかきやり、「亜子?」とかさねはあたりを見回した。

「亜子、かさねが起きたぞ。亜子ー?」

「おや、かさね。目を覚ましたみたいだね」

 お盆を持って部屋に入ってきた男を仰いで、かさねは瞬きをする。

「いざりのあにさま……!?」

 九年前、セワ塚の守役となるため、菟道を旅立った兄、いざり。思い出の中の面影より九年分歳を重ねた姿を目にしたとたん、直前の記憶が一気に戻った。アルキ巫女に助けを求めて里をひとり抜け出したこと。道を外れて、異界に迷い込んでしまったこと。

「では、あのときかさねに呼びかけたのは、いざりの兄さま……?」

 尋ねたかさねに、いざりはうなずいた。

「セワさまの前で日課のお祈りをしていたら、大樹のうろからかさねの声が聞こえたんだ。まさかと思って手を伸ばすと、おまえたちが現れた」

「おまえたち?」

「もうひとり若い男がいたろう。傷だらけの」

「イチ! イチも無事であったのか!」

 触れたときの血の感触が蘇って、かさねはいざりに取りすがる。

「今は眠っているけどね。会うかい?」

「うむ」

 いざりについて隣の部屋をのぞくと、褥に横たわるイチの姿が目に入った。見ただけでも頬や額にたくさんの擦り傷がある。

「ここまで自力で戻って、手当も自分でしてたんだけどね」

 不安そうに見上げたかさねに、いざりは苦笑した。

「いつの間にか部屋の隅でうずくまって力尽きてた。野生の動物みたいだよね」

「そういう……奴なのじゃ。たぶん」

 目を伏せ、かさねは膝の上に置いたこぶしを握り込む。

「おなかはすいているかい、かさね。粥を温めようか」

「……いや。もう少し、こやつのそばにおる」

「わかった。わたしは母屋にいるから、あとで詳しく話を聞かせて」

 かさねの頭を緩くかき回し、いざりは腰を浮かせた。遠ざかる足音に息を吐き、かさねはイチの額の擦り傷に軽く指で触れた。異界に落ちたあのとき、イチはあちら側のものたちからかさねを守ってくれた。イチの目的にはかさねが必要だからだろうけれど、でも、それでも、かさねが馬鹿で考え足らずだったせいであるのに、イチはかさねを見捨てたりしなかった。こめかみがきゅうと痛んで、涙がこみ上げてくる。手の甲を目に当ててこらえていると、イチがうっすら目を開いた。

「イチ……! 起きたか!?」

「……あんたか」

 頬を歪め、みず、と呟いたイチに、枕元の水差しから中身を注ぐ。その間にイチはもう半身を起こしていて、かさねの手から水を湛えた椀を取った。寝衣からのぞいた腕や肩にも包帯が見えて、かさねは目を伏せる。ひとつの怪我もない自分が阿呆のようだった。

「……すまぬ」

 ようやくそれだけを絞り出して、かさねはうなだれた。

「すまぬの……」

 返事がかえってこないので、おそるおそる目だけを上げると、イチはいぶかしがるような顔つきでかさねを見ていた。

「なんであんたが泣くんだ?」

「だ、だって、かさねのせいでイチが……、かさねのせいでっ」

 指摘されると、必死にこらえていた涙がぽろぽろと伝って止まらなくなる。

「べつにぜんぶあんたのせいじゃないだろ」

「でもイチが……っ、いちが、しななくてよかったぁあ……」

 つかんだイチの袖を顔に押し当てて、ぐすぐすと啜り上げる。軽く息をつかれる気配がしたが、イチはうるさい、とは言わなかったし、離せ、とも言わなかった。怪我のせいで悪態をつく気力がないだけかもしれないが、かさねが好きなようにしばらくさせていた。


 空っぽになった水差しを持って厨に向かうと、いざりがちょうど竈で火を焚いていた。

「イチが目を覚ました」

「そう。よかったね」

 目を赤く腫らして告げれば、いざりは優しく微笑んだ。

「ちょうど粥を温めたところなんだ。食べる?」

 尋ねられると、とたんに忘れていたはずのお腹の虫がぐぅと鳴った。目を丸くしたいざりにかさねは慌てる。

「い、今のは腹の虫ではないぞ! かさねは妙齢のおなごゆえ、腹が減ったくらいでお腹を鳴らしたりは」

 ぐぅ、とまた気の抜けたような音が鳴ったので、ええい言うことをきかぬ虫め!とかさねは怒りたくなった。そうだったね、といざりが声を立てて笑う。

「もう十四の立派なお嬢さんだったんだものね、私たちの仔うさぎさんは」

「兄さまは変わらんのう」

「セワの樹のじいさまばかりを相手にしているからね。ここは時間の流れがよそとはちがう」

 兄がセワ守になるため莵道を発ったのは、かさねがまだ五つの頃だった。セワ守とは老齢のセワの樹に仕える男巫で、これには東域の領主が代わる代わる子息を差し出していた。当時、十代だった兄も今は三十路前のはずだが、緩く結った白髪を肩に流し、目元を綻ばせる姿はあの頃とちっとも変らない。浮世離れした果敢なげなたたずまいは、異界に嫁いだ姉に少し似ていた。

「かさねをセワさまの下で見つけたときは驚いた」

「セワさまの?」

「かさねたちを見つけたのは、このあたりでも老齢のセワの下だったんだよ。百を超えたセワには魂が宿るというから、セワさまがわたしたちを引き合せてくれたのかもしれないね」

 かさねは樹木神が守護する木道から異界に転がり落ちた。ともしたら、かさねの声に樹木神が慈悲をかけてくれたのかもしれぬ。「そうか……」としみじみとうなずき、かさねはいざりが渡してくれた粥を手に取った。山菜と米を煮ただけの粥だが、疲れた身体には染み渡る。一度は引っ込んだ涙がぶり返しそうになり、かさねは鼻を啜った。

「かさね。聞いてもいいかい?」

「なんじゃ?」

「イチ、と言ったね。彼はいったい何者だ? 何故、菟道にいるはずのおまえが彼とこんな場所へ?」

「……それは」

 いざりの問いは至極当然のものだ。かさねは口ごもり、手元へ視線を落とした。

(すべてを打ち明け、兄さまに助けを求めるか?)

 国境の山奥に住まう兄には、かさねの婚姻や狐神のことはまだ耳に入っていないらしい。されど、この心の優しい兄ならば、かさねの話に耳を傾け、力になってくれる気がした。

(だが、イチはどうなるのだろう)

 一抹の迷いがふとかさねの胸によぎる。

 イチはまだ本調子ではない。今なら捕えることも、突き出すこともたやすくできるだろう。けれど。

(イチはかさねを助けてくれた)

 そうまでしてイチが天都をめざす理由を聞いてからでも遅くないのではないか。ためらった末に、かさねは息を吐いた。

「――たぬきの父上に頼まれたのじゃ」

 瞬きをしたいざりに、むんと胸を張る。

「菟道はここ数年不作が続いておってな。税を軽くする嘆願状を地都の大地将軍に届けるお役目をかさねが賜ったのよ。あやつはかさねの護衛じゃ。ひとりだが、たいそう腕が立つ」

 嘆願状の話は確かに菟道で出ていたが、小娘に過ぎないかさねが使者をつとめるなど、考えられない話である。しかし、長く世間との関わりを絶っていたいざりは、「それは大変だ」と素直に顎を引いた。ひとまず誤魔化せたらしいことに安堵したものの、一方で苦いものがじわじわと胸中に広がっていく。身を案じてくれたいざりにかさねは嘘を吐いたのだ。

「……あの、兄さま。たぬきの父上から兄さまのところへ使いが来たりなどは」

「いや? かさねが久方ぶりのお客さんだよ」

 首を振り、いざりはかたわらに置いてあったセワの木片を取った。表面をノミでくるくると削り始める。手のひら大のそれは、よく見ると部屋の隅の暗がりにいくつも置いてあった。うさぎや子ども、それから女をかたどったもの。

「神像か?」

「手なぐさみだよ」

 ときに神々の依代ともなるそれらは、普通は神像師という特殊な技能を持つ者たちが彫るものである。静かな室内で、ざりざりとセワを削るいざりのノミの音が響く。

(そうか、兄さまはここでずっとおひとりで)

 かさねは九年分の兄の孤独に想いを馳せた。

「……セワ様はよう喋るのか」

「近頃は気難しくていらっしゃるけれど。セワ塚には時折、アルキ巫女の立ち寄りがあるから、そういうときはうれしそうにしているよ。だけど、菟道の者が来たのは本当に久しぶりだから、今日ははしゃいでらした」

「そうか」

「かさねはしばらくここにいるのかい?」

「イチの怪我が治るまで……置いてもらってもよいか、兄さま」

「もちろんだよ」

 微笑み、いざりは彫りたての神像を指の腹で大事そうに撫でた。

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