二章、森の古老(2)
小川のそばにある薪小屋に、煮炊き用の木は積んであった。雨のせいで少し湿っていたが、使えないことはなさそうだ。
持ってきた鍋と火熾しの道具を使って、水を火にかける。樹木星医は、なかなかかさねを呼ばなかった。樹のうちからしていたイチの呻き声はやがて切れ切れになって、しまいには何も聞こえなくなってしまう。
ふつふつと気泡を上げる鍋を眺め、かさねはおもむろに髪を結んでいた組紐をほどいた。旅に出るとき、乳母の亜子が持たせてくれた組紐は、かさねの道中を願って亜子自ら編んでくれたものだ。その力がどうかイチのことも守ってほしい、と祈るようにかさねは思った。
「終わったよ、お嬢さん」
もう何度目になるかわからない水を汲んでいると、ひょいと樹の根のあいだから樹木星医が顔を出した。「風呂でもできそうだね……」と呆れた様子で呟く樹木星医に、ぶつかる勢いでかさねは飛びつく。
「イチ……! イチはどうなった!?」
「傷はまあ塞いだよ。あとはあいつが自分でどうにかするだろ」
いてもたってもいられず、かさねはきびすを返した。転がるように木の根を下り、中の部屋で寝台に横たわるイチを見つける。おずおず頬に触れると、あたたかい。息をしていた。心臓も動いている。ひく、と咽喉を震わせ、かさねは安堵から腰を抜かしそうになった。
「ううー……」
涙ともつかないものがぼたぼた溢れてくる。腕で顔をこすっていると、見かねたらしい樹木星医が手巾を渡した。
「よかっ……た……ああ……よかったあー……」
「そうかい」
えづくのを繰り返しているかさねに、樹木星医は苦笑を滲ませて、まくっていた袖を下す。鳥の巣状のぼさぼさ頭からひらりと離れた蝶が、イチの包帯を巻かれた肩に移って羽を休めた。樹木星医が止めなかったので、かさねはもう一度寝台に近付き、男のむきだしになった腕に触れた。手を取り上げて、額をくっつける。しばらくそうしていると、イチが薄く目を開けて身じろぎした。
「……なんか、すげー……あちこちが、痛い」
「当たり前じゃ。そなたが死ぬかと、かさねは思うたわ……」
すんと鼻を鳴らしていると、額に触れていた手が動いて、かさねの頬を引っ張った。左の頬肉をつまんでぐいぐいと引っ張ってから、呆けるかさねをよそに、右も同じようにする。
「な、なにをすりゅ……、」
「無事だな」
イチはそっと愁眉をひらいて、息をついた。
「どこも、けがはないな」
「あほう。ひとの心配をしている場合じゃ……」
言っているさなかに声が震えて乱れかけたので、かさねは口を引き結んだ。
さすがに気力が尽きたようだ。頬に触れたまま寝入ってしまった男の手をかさねは握った。傷だらけの手だった。表面に細かな切り傷がたくさんついて、固まった血が冷たくなっている。その手を抱き締めたきり、かさねは顔を上げることができない。歯を食い縛っていなければ、泣いてしまいそうだった。
「大丈夫かね、お嬢さん」
うなだれたまま動かなくなったかさねを不審に思ったのだろう。着替えを済ませた樹木星医が声をかけた。
「大丈夫、ではない」
「そうか」
「――……イチは、おかしい」
腹の底からこみあげたものを飲み下し、かさねはきつく眉根を寄せた。
「おかしい。こんな……、こやつは自分をなんだと思っておるのだ? こんなむちゃくちゃな身体の使い方をしていたら、そのうち、ほんにこわれてしまう。か、かさねが無事なら、自分は死にかけてもよいのか? そんなの、おかしいであろ!?」
「ずいぶんな言い草だねえ。ぜんぶあんたを守るために負った傷だろうに」
考えないようにしていた言葉を樹木星医は口にした。みるみる蒼白になったかさねの肩に手を置いて、「とりあえず片づけを手伝っておくれよ」と苦笑する。部屋の中には、血や体液で汚れた布が山と積まれている。自分が思ったよりも取り乱していたことに気付いて、かさねはゆるゆると目を伏せた。
「……すまぬ。手伝わせてくれ」
*
樹木星医が住むこの場所は、道と道のあわいに存在するらしい。道を外れるのとはちがう。正確には道のうちなのだが、ぎりぎり端にあるため、外の者が容易にたどりつけないのだという。透明な蜘蛛の巣のように、樹のあいだを張り巡らされた帳をかさねは仰ぐ。樹木星医が「守り」と呼ぶ透明な帳は、外界からこちら側を見えづらくしているそうだ。
「お嬢さん。茶が入ったよ」
木と木の間に張った麻縄に、川の水で洗いざらした布たちをかける。汚れていた布たちは、清らかな水のおかげでもとの色を取り戻し、風にはためいていた。空にした籠を抱え、かさねは手招きをする樹木星医を振り返る。
「夜通し追いかけ回されて、お嬢さんも疲れたろう。饅頭をふかしたから、お食べ」
「まんじゅう……! かたじけない」
木を切り出してこさえた円卓には、ふかしたての大きな饅頭がいくつも盛ってあった。琥珀色をした茶がやさしく薫る。そういえば、朝餉も昼餉もすっかり忘れていた。かさねは両手でつかんでもあまりある饅頭を、はむ、とかじる。食欲など失せた気がしていたけれど、いざ食物を口にすると、胃がねじれるほど飢えていたことに気付いた。ひとつふたつと腹におさめ、三つ目を手にする。
「ふぁふぁひ!」
「食べながらしゃべると、咽喉を詰まらせるよ」
「むむうー……。うまい。中に入っているのは木の実か?」
「メグの実を砂糖で煮詰めたものだ。滋養があるし、疲れを癒してくれる」
「樹木星医は物知りよのう」
「まあ、それなりに長生きしているからねえ。ほら、茶もお飲み」
木の椀からくゆった薬草の香りを吸い込むと、不思議と肩のこわばりが解けていく気がした。ひと心地ついて、かさねは改めて対面に座す樹木星医を見つめた。
「あの……、イチのこと、ありがとう」
居住まいを正して、頭を下げる。
樹木星医はからからと笑い声を立てた。
「礼には及ばんよ。あたしは樹木星医。傷ついたものを癒すのがなりわいさ。ひとでも、獣でも、虫や樹木でもね」
「そなたはイチの?」
「ただの知り合いさ。昔、あいつがハナのツテであたしを訪ねてきた。莵道の継承者を探してね」
さらりと明かされた事実にかさねは目を瞠る。昔、知を司る古老を訪ねて、イチは莵道の里の存在を知ったと言っていた。その古老こそが、目の前のぼさぼさ髪の小男らしい。指先に留まった蝶をいとしげに撫ぜ、「あんたもいろいろ訳ありのようだ」と樹木星医は眉尻を下げた。
「聞いてもいいかい? なんだって、あんたらはここに来たんだ? 見たかんじ、あの追手は天都の者だね」
どんぐり目の奥には、叡知の鋭い輝きがある。初対面の男にどこまでを明かしてよいのか。ためらったものの、かさねは天帝の花嫁や大地女神といった詳細は避けて、樹木老神と対面した帰り道に、訳あって天都の者から追われる身になったことを話した。
「なるほどねえ」
かさねの曖昧な説明から、おおかたを察した顔つきで樹木星医はうなずいた。
「……かさねのせいじゃ」
話していると、それまでこらえていた涙がまたぶり返してきた。赤くなった鼻を鳴らして、かさねは目元に手を押し当てる。
「イチひとりなら、たやすく逃げられた。か、かさねがいたから。かさねを守っていたから。あのときだって、かさねがいたから……っ」
最初に鳥の一族から攻撃を受けたとき、イチは矢をつがえた弓が自分に向けられるのに気付いていたのに、よけなかった。よけられなかったのだ。離れた場所にかさねがいたから。イチがよければ、かさねにあたるとわかっていたから。
「ひどい怪我をイチに負わせてしまった。痕は、残ってしまうだろうか」
か細い息をつくと、円卓の上でことりと茶碗を置く音が聞こえた。
「『陰の者』について、お嬢さんは聞いているかね?」
「……少しだけだが」
唐突な水の向け方に眉をひそめて、かさねはうなずく。円卓に集まりだした蝶に微笑み、樹木星医は茶器からお代わりを注いだ。
「あたしに言わせれば、お嬢さんが気に病む必要なんかないよ。だってこれは、あいつの性分のようなものだもの。主人に降りかかるあらゆる災厄を退け、身代わる天の奴隷――『陰の者』ってのは、我が身は気にかけないように育てられるから、いつまでたっても、そういう考え方をするもんなんだよ」
「だが、今のままではいつかイチはほんに死んでしまう……」
「そうさね」
膝小僧を握り締め、呟いたかさねに、樹木星医は首をすくめた。どこか感情が酷薄に見えた面に、つかの間人間らしい感情が乗ったように見えたのは気のせいだろうか。ゆっくり茶を味わって、樹木星医は両手に包んだ茶器を置いた。
「だから、そうなりたくないなら、あんたが守ってやらなければ」
「刀も握ったことがないかさねぞ? いったい何ができると?」
「剣を取り、戦うことだけが道ではなかろうに」
かさねの胸のうちを見透かした様子で、樹木星医は口端を上げた。
「武器の本質は使い方にこそある。いつ、どこでその力をふるうか。見極めることのできる人間が『強き者』なのだとあたしは思うが」
「それは……」
口ごもるかさねの前で、ひらりと蝶が舞う。円卓の上を回り、樹木星医の額に接吻をしてからそれは庵のうちを去った。目を伏せた樹木星医が鱗粉の残る円卓を指でなぞる。
「どちらにせよ、この先もあの男はお嬢さんに降りかかる災厄を身代わり続けるよ。命ある限り……それが『陰の者』の想い方だからね」




