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白兎と金烏  作者:
三幕 漂流旅神編
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二章、森の古老(1)

「これはまた、派手にやったねえ……」


 イチを一瞥した樹木星医は、苦笑気味にぼさぼさ頭をかいた。髪にうずもれるように羽を休めていた蝶が緩やかに離れ、また別の蝶がやってきて頭頂部のあたりで羽を畳む。緑褐色をした彼の頭は、蝶たちの憩い場となっているようだ。

 歩くたびにそばを舞う蝶には気を止めた風もなく、樹木星医はイチの身体を引きずり起こして、肩に腕を回した。そのまま、重さを感じさせない足取りで運んでいくので、かさねは慌てて立ち上がる。


「そなたは何じゃ? い、イチに危害を加えるわけではあるまいな?」


 鞘におさまった刀を抱いて、ぴょこぴょこと樹木星医の周りにまとわりつく。前方への注意が薄れていたせいで、たたらを踏んだはずみにセワの幹に思いきり頭をぶつけた。


「ぴいぴいとせわしないお嬢さんだねえ」


 うう、と頭を抱えてしゃがみこんだかさねには嘆息しただけで、樹木星医は持っていた杖でセワの樹を軽く叩いた。応えるように根っこが二股に分かれ、生じた空間に身を滑り込ませる。


「おい、イチをどこへ――っ!?」


 小柄な背中を追って飛び出し、かさねは目を瞬かせた。

 セワの根をくぐった先にあったのは、机や寝台、棚などの調度が整えられた一室だった。入口は狭かったが、中は存外広い。セワの木肌のやさしい香りに包まれた室内には、乾燥した草花や根が所狭しと吊るされていた。


「ここは」

「あたしは医者だと言ったろう」


 寝台の上にイチを下ろすと、樹木星医はぼろ布のような袖をまくった。そばにあった水瓶で手を洗う男をかさねは呆けた顔で見つめる。


「イチをたすけてくれるのか……?」


 先ほどの口ぶりから察するに、この男はイチの知り合いらしい。期待をこめた眼差しを向けると、「さあね」と樹木星医はすげなく肩をすくめた。


「あたしにできるのは、傷を縫って塞ぐだけ。並の医者に比すれば、腕前はすこぶるよいほうだがね。ああ、お嬢さん。手が空いているなら、そいつの腕と足を縛っておいておくれよ。暴れられると困るから」

「し、縛るとは」


 ちょっと荷物を縛っておくれよ、という調子で言われて、かさねはまごつく。樹木星医の視線の先には、吊るされた薬草たちと一緒に麻縄が無造作にかけてあった。


「ふつうの奴なら、ころりと寝かせてやるんだがねえ。あいにくこいつはそういう薬も効かない。あたしはこのとおり、非力な小男だからさ。暴れられて殺されちゃ、たまったもんじゃねえもの」


 かさねが持ってきた麻縄を取り上げて、樹木星医はイチの手足と寝台とを固定した。まるで獣か何かにするように四肢を縛っていくので、かさねのほうが不安になってしまう。濡らした手巾で固まり始めた血を拭った樹木星医は、かさねに気付いて手を振った。


「お嬢さんが見るもんじゃないよ。終わるまで外で待ってなさい」

「だが……」

「それとも、やめるかい?」


 樹木星医は一度手を止めて、感情のうかがえないどんぐり目をかさねに向けた。


「お嬢さんがこいつをあたしに任せられないっていうんなら、やめるよ。こいつはこのとおり気絶しちまってて、いいも悪いも言えないし、お嬢さんはこいつが命を賭けて守るくらい、大事な存在のようだ。なら、あんたが決めなさい」


 かたわらに置いていた杖を取って、その先端で男はイチの肩を小突いた。いつもなら決して許さない扱いだろうに、イチは固く目を閉ざしたまま微動だにしない。力なく落ちた手の色が蝋のようで、恐ろしかった。


「こいつをすくうのか、すくわないのか。あたしにそれを任せるのか、任せないのか。まちがって死んじまっても、それで恨みっこなしだよ」

「そんな」


 意地の悪い物言いに、かさねは言葉を失くしてしまう。

 すくうか、すくわないのか。

 絶対にすくいたいに決まっている。

 けれど、いましがた出会ったばかりのこの男にそれを任せてよいのか、かさねにはわからない。樹木星医と名乗ったこの男が本当に医者なのかすら確かではないのだ。ただ、鳥の一族のように出会いがしらに襲いはしなかった、それだけだ。


「ほぅら、早く決めないと。あんたが悩むその一瞬に、この男は死に近づいていくよ」

「うう……」


 歯噛みして、かさねは憎々しげに樹木星医を睨む。何故、こんな状況でかような選択をかさねに迫るのか、理不尽に思えてならなかった。医者であるなら、イチをすくうと、ただそう言ってくれればよいのに。

 かさねはイチの血の気が失せた顔を見た。


(イチがただやみくもに逃げていたとは思えない)


 あの様子だと、イチはあらかじめ天都の動きを予期して、木道を選んでいた。鳥の一族が現れたときもさほど動じていなかったし、はじめから樹木星医のもとをめざしていた可能性が高い。少なくとも、傷を負った状態で転がり込むくらいには、信用に足る存在だったのだろう。


(そう考えたイチを信じるしかない)


 息を吐き出すと、かさねは寝台に近づいて、眠る男のこめかみに唇を触れさせた。汗と血と、雪のようなきよらな香りがくゆって消えた。


「イチのこと、頼む。――死なせないでくれ」

「善処はするさ」


 その言葉に樹木星医なりの誠実さを感じ取り、かさねはうなずく。


「外で湯でも沸かしていておくれ。水は近くの小川から汲み取れる」

「わかった」


 一度イチの顔を見つめてから腹をくくって、かさねは部屋を離れた。刀を背にかけると、手桶を持ってセワの樹の裏側にある小川に向かう。重なった落ち葉の間をさらさらと流れる澄んだ水は冷たい。流れのほうへ手桶を傾けていると、樹のうちから細い呻き声が聞こえた。震え始めた肩を手で擦って、かさねはしおれたように俯く。イチはめったなことでは、声を上げない。それがこんな風になるなんて、よっぽどなのだ。


(間違えたのでは)

 

 かさねの首筋をひやりとしたものが撫ぜた。


(任せてしまって、ほんによかった?)

(かさねが選択を誤ったせいで、もしイチが)

(死んでしまったら)


 水面に映った自分が不安そうにこちらを見上げる。

 追い詰められた気分になり、かさねは水に手を打ちつけた。


「……大丈夫」


 荒く息をつき、ゆるりと首を振る。

 

「そうイチが言ったではないか……」


 涙が滲みそうになった目に濡れた手を押し当てる。かゆらぐ水面に映る自分の顔はさんざんだった。

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