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白兎と金烏  作者:
二幕 大地女神編
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五章、黄泉路(1)

 さらさらと、さらさらと。とめどなく流れる水の音が聞こえる。大地に這う水の脈動だ。命のにおい。死のにおい……。額に触れる雫の冷たさに、かさねは目を開いた。

「う……」

 とたん押し寄せた何かが腐りかけたようなにおいに眉根を寄せる。身じろぎをしようとすると、背中に回っていた手が身体を起こすのを手伝ってくれた。

「起きたか」

「ここはどこじゃ?」

「――黄泉……戻ってきたんだ」

 暗がりを見渡し、イチが言った。あたりは相変わらず澱んだ湿気に満ちている。岩の向こうで微かな話し声が聞こえて、かさねはそちらへ耳をそばだてた。

「では――……太刀を……」

 燐圭が差し出した太刀に女神が加護の口付けを落とす。ぬるりと妖しく太刀が輝いた。

「そなたらも目を覚ましたか」

 こちらに気付いた燐圭が薄く笑い、鞘におさめた太刀を肩に担ぐ。瘴気を帯びた太刀は今や禍々しいまでに黒ずんでいる。ひとつの生き物のように脈動を始めた太刀に、かさねは顔を強張らせた。

「将軍。『それ』はなんだ……?」

「女神の加護を受けた太刀さ。以前天都へのぼったときは、あちらの力で太刀のほうが暴走したが、今や天帝すら斬れるまでの力を持った。黄泉くんだりまで下りた甲斐があったというものさ」

「……天帝を」

 燐圭が女神に執着した理由をかさねはようやく悟った。この地から神々を追放する野心を、燐圭はいまだ捨てていない。

「ではな、子うさぎさん。無事に戻れたら、また」

「待て、大地将軍!」

「私に構う暇があるのか? 口琴を持ち帰れなかったそなたらに、女神はたいそう憤っていたぞ?」

 岩影にゆらりとたたずむ女神を見やり、燐圭は肩をすくめた。青藍の衣を翻して、黄泉路をのぼっていく。燐圭の太刀は暗がりでも淡い光を放ち、道しるべとなっているようだ。恐ろしい太刀が世に出ることを案じはしたが、確かに今は燐圭を追う余裕はない。何しろ、かさねとイチは女神の示した条件を果たすことができなかったのだから。

「おかえり、娘に男よ。千年の旅はいかがであったかの」

 振り返った大地女神は、白布越しにうっすら嗤った。半月にひらいた口からのぞくのは底知れない闇だ。

「約束の口琴はどこかえ?」

「……それは」

「はやく差し出し。男の心臓を返してほしいのであろ?」

 すぅっと冷たい汗がうなじを伝う。答えようとしたイチをかさねは制した。イチももう気付いているはずだ。この女神の正体に。口琴を持ち帰れなかったかさねたちが賭けるのはもはやそこしかない。

「その前に聞かせてくれ」

 覚悟を決めて、かさねは両手を伸ばし、女神の面にかかった白布に触れた。

「そなたの名を」

 息を吐き出し、白布を一気に取り払う。

「――ひよりどの」

 現れた女を見て、かさねは危うく悲鳴を上げかけた。見知った女の顔はすでにそこになかった。腐り落ちていた。がらんどうの目には蛆が湧き、頬はそげて、虫が食い荒らした痕がある。頭部に残った褪せた白銀の髪だけがひよりをひよりたらしめる唯一の証左だった。

「あ……あぁ……」

 浅く呼吸を繰り返し、あとずさる。一時意識を飛ばしたのかもしれない。よろめいたかさねをイチが受け止めた。先ほど飲み下した口琴がじくじくと腹の中で暴れている。吐いてしまいそうだ。

「ふ、ふふ、ふふ……」

 口を半月のかたちに歪めて、女神は急に笑い始めた。

「なつかしい。なつかしい。なつかしいのう。『ひと』だった頃のわたくしの名を呼ぶ者がおるとは。ふふふふ、なんと愉快な」

「ひよりどの……かさねを覚えて……?」

「覚えて? さてな。千年に及ぶ孤独と絶望。ひよりという女の自我は最初の百年ほどで消失したわ。あとには憎き天帝にこの地へ落とされた記憶が残っただけ。黒髪金目のそなたによう似たな」

 何故、女神がイチの容姿に執着したのか。それはひよりをおとなった天帝の姿がそれだったからにほかならない。意味をなさない喘ぎを漏らすばかりのかさねへ女神が腐りかけた手を伸ばす。それをイチの腕がはばんだ。

「通行料は俺の心臓だって言っただろ」

「気が変わった」

 吐き捨てる女神は冷淡だった。その面影に、柔らかく微笑むひよりの姿はない。

「そこの娘はわたくしの顔を明かすという大罪を犯した。裁いて当然であろ。せっかくだ、そなたの前で目、鼻、口、耳、ひとつずつもいでやろう。そなたのその美しく忌々しい顔が歪むさま、少しは愉快であろうからのう!」

 高らかな哄笑が響き渡る。イチの腕がきつく引き寄せてきたが、かさねは茫然と変わり果てたひよりを見つめることしかできない。黄色く変じた爪がかさねの頬をかすめる。その瞬間だった。

「――っああああああああ!」

 女神の咽喉から悲鳴がほとばしった。強い光がぱんと弾ける。暗がりをひととき照らした光が消えると、苦痛に呻きながら目を押さえてよろめく女神の姿が残った。

(今のうちです、急いで!)

 覚えのある声が『内側』から聞こえて、かさねは瞬きをする。

「そなたは……」

(はやく!)

 切迫した声に促され、イチが動いた。かさねの身体をひょいと担ぎ上げると、声の導く方角へ走り出す。暗闇にゆらめく白い少女は見まごうはずもない、ひよりである。

「ひよりどの。何故?」

 尋ねたかさねに、ひよりはふるりと首を振った。

(そなたが持ち帰った口琴には、ひとであった頃のひよりの魂の残滓がよりついていました。もはや壊れて……、女神とは完全に分かたれてしまいましたが)

「女神は『ひと』としての魂を取り戻そうと、かさねたちに口琴を持ち帰るように頼んだのか? ならば、何故……」

 口琴を破壊せよ、などと異なる願いを大地将軍に託したのだろう。

(『ひと』としての魂を捨て去ろうとしていたのもわたくし。捨て去れずにいたのもわたくし。女神の中ではふたつの異なるわたくしが同居していのです。であるので、異なる願いをあなたがたに託したのでしょう)

 ひよりが説明する間も、先の見えない薄暗がりの道をイチは疾走している。いったいどれくらい走ったのか。次第に荒くなる呼吸を案じて、「イチ」とかさねは汗ばんだ肩を揺すった。

「下ろせ、かさねも走れるゆえ」

「おまえの鈍足だと女神に追い付かれる。ったく、なんでこんなに重いんだ。肥えたのかあんた」

「肥えてなどおらん! ……んん?」

 言い返しながら、かさねは天帝からもらった果実をいくつか袂に忍ばせていたことを思い出す。こぶし大のまるい果実が三つほど。確かにそれなりの重さがありそうだ。す、捨てるべきだろうか……と果実を見つめていると、遠くのほうでざわざわと蠢く影の気配を感じた。

「い、イチ……! 何か妙なものが追ってきておる!」

「はあ?」

(女神の眷属たちです。かさねさま、その手の中のものを投げて)

「投げ……? いいのか?」

(それは天に属する果実。女神の力とは相反するものです。ちょうど女神の加護を受けた太刀が天帝を射抜く力を得たように。天の力は黄泉に属するものにとっては毒と同じ)

「ようわからんが、実を投げればよいのだな?」

 ふむ、とうなずき、かさねは手の中の実を勢いをつけて蠢くものたちへ投じた。

「おおっ」

 しかし力が入り過ぎたためか、実は影たちのはるか頭上を通り過ぎ、後方へすっ飛んでいってしまう。今一度、と思って二つ目を投げると、今度はへろへろと緩やかな弧を描いてずっと手前で落ちた。

「……おい。ちゃんと当たってるんだろうな」

「もちろん! 真正面を射抜いたところじゃ!」

(今からな!)

 息を整えて、三投目を打つ。今度は高すぎてまるで当たらない。が、直後蠢くものたちがつんのめって転び出した。先ほど落ちた実に足が当たったらしい。さらに天井を跳ね返った実が鋭く脳天を叩いた。

「ほれ見てみい! さすがかさね!」

 むん、とこぶしを握ると、前方にまばゆい光が射しこんだ。

(あと少しで、あなたがたがもといた世界です。よくがんばりましたね)

「ひよりもともに行くのであろ?」

 少女の口ぶりに不穏なものを感じて、かさねは尋ねる。淡く透けるひよりの姿は光があたると、ふっとかゆらいだ。

(ひよりはすでに異界に落ちた身。ただ……)

 かさねの頬にかすめるような口付けを落とし、ひよりは囁いた。

(わたくしを見つけ出したあなたのために、しばしあなたの胎で眠りましょう。来たるべきときのために。かさね。決して諦めないで)

 千年後の『わたし』よ。あなたはくじけないでね――。

 『ひと』の身であったときと似た言葉をひよりは口にした。やがて白い光に飲み込まれるようにしてひよりが消える。身体と魂とが引き離される奇妙な浮遊感があり、気付けばかさねはイチとともに地面に転がっていた。

「かさねさま……! イチ!」

 視界にぴょんと飛び込んできた少年の姿を、かさねはまぶしげに見上げる。

「……碧?」

「小鳥です。寝ぼけてるんですか、かさねさま」

 いつもながらの容赦ない応酬を返し、小鳥はかさねを抱き起こした。

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