一章、緑嶺へ(3)
翌日、一行は地都を出て山道に入った。行商人が通ることも多い木道であるが、舗装は行き届いておらず、ところどころ崩れている箇所もある。しかし道を行くかさねの足取りは軽かった。
「いやあ、やはり山はよいのう。木々のささめき! 鳥の声! 水の気配! 心が洗われるわあー」
「おおむね同意したいところなんですけど、かさねさまの天井知らずの機嫌のよさはなんなんです……?」
「単純馬鹿なんだろ」
いぶかしげな顔をする小鳥に頬を歪めて返し、イチはかさねの首根っこを引っ張った。
「跳ねるな。あと、でかい声で叫ぶな」
「そなたはほんにいちいち、うるさいのう」
「このあたりは治安がよくない。地都に向かう商人の積み荷を狙って、野盗が横行しているって話も聞く。できるだけ目立たないほうがいい」
イチの口ぶりは厳しい。そういえば以前、織の里から地都に抜けるときには、ひとを集めて隊列を組んでいた。当時たびたび現れていた山犬や野盗から身を守るためだ。思い至って、ふうむとかさねはうなずいた。
「かさねたちの目的は樹木老神だものな。確かに途中で足止めを食らっては困る」
外の日照りに対して、こんもりと木の覆い茂った山道は清涼とした空気が流れている。地都ではぐったりしていた小鳥少年も、気持ちを取り戻した様子で、髪を撫ぜる風に目を細めた。
「だけど、意外ですね」
見つけた小川で水を補給がてら、休息を取る。両手ですくった水で咽喉を潤していたかさねに、小鳥少年が呟いた。蒼い双眸は、離れた場所で樹になった実をもぐイチを見つめている。
「あなたがたってまったくご気性がちがうので、もっと道中大変だろうと思ってました。案外、言い合いが少ないんですね」
「いい加減、付き合いが長くなってきたからのう。最初あやつにさらわれたときは、朝から晩まで言い合っておったし、かさねもかさねで逃げ出したり、それで道を外れかけたり、今から考えてもさんざんであったわ」
「イチは口が悪いですからね」
「それにすぐ人に突っかかるから困る。だが、心根はわりとやさしいのだ」
話していると、赤黒い実のなった枝をひとふり担いだ男が戻ってきた。こちらの様子にいぶかしげに眉根を寄せてから、「生でも食える」とかさねと小鳥にひとつずつ実を放る。つやつやの実は齧ると、ほのかな酸味と甘みがあった。
「しかも、意外にまめまめしくいつも働いておるだろう」
「ああ、確かに……」
「さっきから何なんだ」
顔をしかめて、イチは自分のぶんの実をもいだ。
「イチ。かさねにももうひとつ」
「残りは携帯用だ。実ばっか食ってると、あんた腹くだす――」
くどくどと説くさなか、イチは何かに気付いた様子で顔を跳ね上げた。小鳥少年もまた、道を隔てた反対側に警戒をこめた視線を向けている。
「ど、どうしたのだ?」
「ひとの叫び声が聞こえました。それに足音。おそらく、五、六人はいるかと」
「もしや野盗か?」
腰を浮かせようとすると、頭上でぎゃっと悲鳴が上がり、血を流した男が落ちてきた。先ほどまでかさねたちが水を飲んでいた浅瀬に落ちて、派手な水しぶきを上げる。
「何が、」
とっさに駆け寄ろうとしたかさねの腕を引っ張り、無駄だ、とイチが低い声で言った。
「もう死んでる」
浅瀬に半身を浸した男は肩から背にかけて刀傷が走り、首も変な方向に曲がっていた。ひっと呻いたかさねの口を手で覆い、イチは注意深く頭上を仰ぐ。乱れた足音と鍔鳴りが遅れてかさねにも聞こえてきた。上で何が起こっているかは知れないが、只事ではない。
「このままここでやり過ごせば、たぶん……」
「イチ」
口を覆う腕を叩いて抜け出すと、かさねは男の胸をつかんだ。
「たすけてやってくれ」
「なんだって?」
「このままでは他の者も皆、殺されてしまう。助けてやってくれ!」
「さっき足止めは困るって言ったのあんただろ」
「そのときはそのとき、今は今じゃ!」
必死にすがりつけば、イチは頬を歪めたあと、深々息を吐き出した。
「おまえにつきあうのは本当に心の底から面倒くさい」
かさねを小鳥少年のほうへ放ると、腰に佩いた刀を抜く。
「イチ! だ、だが、できるかぎり――」
「黙れ。俺がいいって言うまでそこから出てくるなよ」
かさねに皆まで言わせず、イチはその場から飛び出した。男の身のこなしは獣のようにすばやい。数度打ち合う音が聞こえて、その鋭さにかさねは身をすくませた。イチに頼んで助けに入らせたのは自分だが、やはり斬り合いになると身の縮む思いがする。
「かさねさま……」
「大丈夫じゃ」
不安げな顔をする小鳥に言い張って、きつくこぶしを握りこむ。悠久とも思える時間を耐えていると、ほどなくイチの声がかかった。小鳥と連れ立って丘をのぼる。散り散りに地面に伸びている男たちの中で、ひとり刀をおさめるイチを見つけ、かさねはほっと胸を撫で下ろした。見たところ、イチに怪我はなく、男たちも昏倒しているだけのようだ。
――そなたが斬ったり斬られたりするのは嫌なのだ。
以前口にした、かさねのわがままといってよい願いをイチはたぶん覚えていてくれた。
「そなた、平気か?」
腰を抜かしている行商人に駆け寄り、かさねはふらつく肩を手で支える。
「あ、ああ……」
「もう大丈夫じゃ。野盗に襲われたのか」
「いや」
蒼白を通り越して血の気を失くした男は、かさねに支えられるまま力なく首を振った。
「こいつらは俺の仲間だ……。岩に触れたとたん、急におかしくなって……」
「どの岩だ」
戻ってきたイチが問うと、男はひっと悲鳴を上げた。目の焦点は合わず、いまだ恐ろしいものがそこにあるかのように震えている。
「そ、その……、あんたの、後ろの……」
怯えた男の視線をたどり、かさねは後方に転がる巨岩を見やった。一瞥では、何の変哲もない岩に思えた。表面はでこぼこと青黒く奇形し、以前この場所に落ちたときの衝撃のためか、接する地面に深い亀裂が走っている。そこから微かに漏れ出した腐臭にかさねは顔をしかめた。
「なんだ……?」
亀裂の走った溝をのぞきこんだかさねを、「あちら側」のものもまた見返した。
(みつけた)
暗闇の向こうでふたつのまなこが妖しく輝く。
(みつけた。てんていの、はなよめ)
直後、亀裂からかさねに向かって何かが蛇のようにしなった。鼻先に届く寸前で、横から伸びたイチの手がそれをつかみ取る。
「なにものだ、おまえは」
鋭い眼差しが「向こう側」を見据え――、イチの手にいた蛇が急に四方に爆ぜた。瘴気を帯びた闇が襲いかかり、目の前が真っ暗になる。足場が音もなく崩れる幻影をかさねは見た。おちる、おちる、おちる。どこまでも落ちていく。この感覚には覚えがあった。かつて道を外れたときと同じ、果てのない暗闇……。
*
「かさねさま! イチ!」
岩の下の亀裂から突如黒い影が生じたように、小鳥少年には思えた。その影がかさねとイチを飲み込んだとたん、ふたりの姿は消え失せてしまった。
「いったいどこへ……」
おそるおそる亀裂をのぞきこんでみるが、えぐれた地肌がただ露出しているばかりだ。途方に暮れてあたりを見回した小鳥少年の背で、甲高い男の哄笑が上がった。
「大地女神に招かれたって、おかしくなる直前、あいつら言っていたぜ」
「大地……女神ですって?」
「そう――。女神の治める、黄泉の国さ……」
ひとしきり笑い続けると、男はがっくりとその場にうなだれる。まさか、と呻き、小鳥少年は木々の暗く生い茂る空を仰いだ。




