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白兎と金烏  作者:
一幕 六海龍神編
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五章、豊饒の海(3)

「おとうさま!」

 ぬばたまの黒髪が翻った。太刀の前に紗弓が身体を投げ出す。大地将軍の太刀は紗弓の身体を――斬らなかった。紗弓を守るようにもたげた龍神の額を正確に貫いていた。血を頭から浴びた紗弓のおもてが悲痛に歪む。

「いや……おとうさま。いや」

「紗弓。わたしの、むすめ」

 息を吐き、龍神がゆるゆるとかぶりを横たえる。舌打ちした燐圭が額から太刀を引き抜いた。それが今度は咽喉を狙ったのに気付いて、「やめよ!」とかさねは叫んだ。鱗痣の広がった腕を天に向けて差し出す。

 ――ならぬ。

 耳奥に、天都で話したときの孔雀姫の声がよぎった。

 ――莵道を再びひらいては、ならぬ。

「ここじゃ」

 深く息を吸って、かさねは天を見据えた。

「かさねはここじゃ! 莵道よ、あるなら、ひらけええええい!!!」

 呼ばうと、ほとばしる光の奔流がかさねの身体を貫いた。視界がひととき金に染まり、何も見えなくなる。再び目を開いたとき、かさねは見覚えのある玉の敷かれたうつくしき道の上に龍神とともにいた。

「まったく奇矯なおなごよの。そなたは……」

「龍神!」

 荒い息まじりに呟いた龍神の身体にすがりつく。そのかいなに抱かれるようにして、紗弓が目を瞑っていた。驚いて顔をのぞいたが、息はある。

「莵道がひらいたときに気を失ったようだ。よもや千年ぶりにこの道を見ようとはの」

「そなた、平気か。すまぬ、あのような……。かさねの声もまるで……」

 まるで届かなかった。

 俯いたかさねに、龍神はくつくつと咽喉を鳴らして笑った。

「すべて老いたる私の身から出た錆よ。しかしなかなか悪くないものであった。よもや最後に、娘をかいなに抱けるとは。感謝するぞ、かさね」

「最後などと言うでない……」

 剥げた鱗からとめどなく体液を流す龍の身体をかさねはさすった。

「ここで身体を癒し、戻ればよいではないか。のう? かさねが皆を説得するから。今度は必ずやってみせる。約束する」

「心配には及ばぬ、ひとの子よ。矢など受けずとも、もとよりうつつに今一度降り立てば、滅びる身であった。それだけのこと」

 ふう、と龍神が息を吐き出すと、またぽろぽろと鱗が剥がれ、身体が白く透き通っていく。龍神、とかさねは呻いた。

「消えるでない。消えてはならん。力がないなら、かさねの血をやる。ぜんぶはだめだが、少しなら……喰うてもよいぞ。だから、消えるなどと言うでない。のう?」

 尖った鱗のひとつを拾って、かさねはそれを手首に突き立てる。

「さゆに」

 龍神は金のまなこを弓なりに細めた。

「さゆに、さちが、おおいことを」

「りゅう――、」

 溢れ出した血を龍神の口元に押し当てる。されど、その血を龍神が飲み下すことはなかった。息絶えていた。ゆるゆると首を振って、かさねは開いたままのまなこのふちに額をくっつける。白い身体は見る間に透け入り、潮の香りを残して消え去った。

「……いやじゃ」

 その場にひとりしゃがみこんだまま、かさねは何度もかぶりを振る。

「いやじゃ。こんなのはいやじゃ。いやじゃあああああああああ!!!」


 青銀の龍が海にかえっていく幻影をイチは見た。口琴を吹き終えたあと、気付けばイチは砂浜に投げ出されていた。あれほどの龍神をしずめるには、やはり不相応だったらしく、四肢がうまく動かない。ゆっくりと海原に横たわる龍が消えるや、ひらひらと黄金の粒子が舞い、曇天がさっと晴れた。久方ぶりにのぞいた日輪が六海の海へと穏やかに射す。鈍色だった海はあたたかな緑を取り戻していた。

「……龍神は消えたのか」

 海上では、大地将軍を乗せた船から勝どきが上がっている。

 こうなることをイチは半ば予期していた。あのとき、かさねを取り戻す代わりに、イチは龍神を切り捨て、大地将軍に取引を持ちかけたのだから。それでも、やるせなさともつかない気持ちが胸に広がって、イチは苦い息をつく。そのとき、どこからともなく微かな泣き声が聞こえた。

「かさね?」

 泣き声は途切れ途切れに、潮騒のあいまから聞こえてくる。使われなかった銛が残った浜に、かゆらぐように泣き喘ぐ少女の姿が見えた。

 ここではない向こう側。異界に取り残された少女はひとり天を仰いで泣いている。そのがむしゃらな泣き方はひどくイチの胸をかき乱した。知らず立ち上がり、そちらに向かって手を伸ばしている。つかんだ、と思ったとたん、まぼろしは晴れて、生身の少女がこちら側に戻ってくる。かさねはやっぱり泣いていた。自分が泣いていることにも、イチに腕をつかまれたことにも、何もかも、気付かない様子で泣いていた。普段はあんなにうるさいくせに。甘えたのくせに。肝心なときに呼びもしない少女に歯噛みする。

(こいつはいつもそうだ)

 たいした力もないのに、ほかのものに向かって懸命に手を差し出しては、いつも自分がいちばん傷ついている。イチはこの娘の、そういうすべてにいつも苛立った。嫌だった。この娘を傷つけられるのも。損なわれるのも。ほかのものは傷ついても損なわれてもかまわないのに、この娘だけはどうしても、理解しがたいほどに嫌だった。

「……なくな」

 ようやく息を吐き出して、ちいさな頭を引き寄せる。

「あんたは泣くな」

 腕の中におさまったぬくもりは、痺れるような痛みと安堵をイチの胸にもたらした。少女を抱き締めたまま目を瞑る。雲ひとつない青空の下、勝ちどきと小さな少女の泣き声はいつまでも、いつまでも途切れることがなかった。

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