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白兎と金烏  作者:
一幕 六海龍神編
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五章、豊穣の海(2)

 ――そなたのための道をひらこう。

 と、そのひとは言った。

 ――そなたのための、そなただけが通れる道です。天と地と海でかようにうつくしい道はきっとない。きっとそなたも喜んでくれるはず。

 いとしげに髪をくしけずりながら、そのひとは子どものように頬を染めて語った。翼に転じた腕が振られ、大地に玉の敷き詰められたうつくしい道が現れる。それは山を通り、海をめぐり、天都へと続いていた。すごい、とかさねは目を丸くして、そのひとを振り返る。

 ――すごいのう。ほんとうに? あれは***の道なのか?

 ――もちろんですよ。そなたにあげる。そなたのものになる。だから……


 額に触れた雫の冷たさに、かさねはうっすら眸を開いた。

「ううー……ん」

 眉根を寄せて、ぱさついた眦のあたりをこする。潮のにおいのする水辺にかさねは横たえられていた。ひたひたと寄せては返す波の穏やかさに目を細める。波のあいまで踊るようにこぼれる黄金の光が見えた。莵道だ、とかさねは思う。莵道がそばに接している。

「ことほぎが溢れてやまん。まったく奇怪なおなごよ」

 笑う声が聞こえて頭を少し動かすと、すぐ下に鱗にびっしり覆われた胴が見えた。

「うおっ」

 半身を起こそうとして鱗の上を滑る。頭から塩水を浴びてしまい、かさねは呻いた。笑い声が激しくなる。どうやらかさねは龍の巨大な身体の端で眠りこけていたらしい。濡れた頭を振って仰ぐと、龍神が思慮深い眸でかさねを見つめていた。

「そなた……六海の龍神か?」

「しかり。しるしを持つ乙女よ」

 顎を引き、龍神はかさねの前にするすると頭を横たえた。それでようやく目線を合わせられるようになる。まるでひとつの島のように大きな龍神の身体には、藻や貝がくっつき、動くと大地が揺れるかんじがする。

「そなたに喰われたかと思うた……」

「しるしを持つ乙女に無体な真似はせんよ」

「しるし?」

「そなたの身体には天帝の与えたしるしがあるではないか」

 かさねの腕から胸にかけて広がる薄紅の鱗痣を示して、龍神が言った。莵道の継承を示す印のことか、かさねはうなずく。

「ともあれ、喰われないのならよかった。莵道かさねじゃ。そなたと話がしとうて参った」

「なるほど、莵道の。道理でにおいに覚えがあるわけだ」

「そなたがかさねを呼んでくれたのだろう?」

「否。贄のことなら、紗弓のしわざだ。私は溺れかけたそなたを拾ったまでのこと」

 かむりをゆるりと振って、龍神はこたえた。

「紗弓どのは、そなたの娘御……か?」

「しかり。人間の女との間に作った、ひとり娘よ。紗雪が陸に戻すというから、あかしを与え、十八の日に迎えに行くと約束をした」

「紗弓どのも、そなたを大切に思うているようだった」

「あれは憐れな娘なのだ。実の母親の顔を知らぬ。その身はひととも神ともつかぬ。さみしさから、よく海を渡ってこちらまで来ておった。私のほかに、胸を打ち明ける者がいなかったのだろう」

「天帝のお告げのことは知っておるかのう。紗弓どのは、天帝の花嫁となる乙女のようなのだ。花嫁を失えば、天は乱れる。海に迎えるという件、諦めてはくれぬかの……」

 紗弓の親である龍神にそれを乞うのは胸が痛んだが、こらえてかさねは尋ねた。龍神はしばらくの間、金の眸を細めてかさねを見ていた。

「……げに奇怪なことを言う」

「龍神?」

「さりとて、紗雪を喪い、贄を拒んだ私には、もはやさしたる力も残ってはいまい。私は老いた。この身に比すれば、流星のごとき生だとて、まだ若いあの子のそばに長くいてやることはできないだろう。紗弓が陸に残りたいというなら、好きにさせる。この海にかえることだけが私の最後の望み」

 息をひとつ吐いて、龍神が頭をもたげる。藻や貝が鈴なりになって落ちるのと一緒に、剥げた鱗がぱらぱらと散った。以前見たとき、青銀をしていたはずの身体は白く透け入り、触れると乾いていた。

 ――老いた。

 龍神の記録を調べていた折、イチが呟いていた言葉を思い出す。この曇天もあらぶる海も、であれば龍神の怒りではなく、ただ力を失ったゆえだというのか。

「待て、龍神よ」

「――かさね嬢!」

 呼び止めようとしたかさねの足元から、ぬっと海坊主がごとき頭が現れる。危うく踏みかけて、「そなた!」とかさねは声を上げた。

「新月山の朧! 何故ここに」

「かさね嬢を見つけることにかけては、この朧、大得意でございます。はようこちらへ。あのいけ好かない将軍とやらが向かっています」

「いけ好かない……? 大地将軍のことか」

「左様。あの者は、六海領主と手を組み、龍神どのを狩る気です」

「まさか」

 顔を強張らせたかさねの横で、くつくつと龍神が咽喉を鳴らす。

「まったくひととは奇矯なものよの。かような老いぼれをわざわざ狩ろうとは」

「龍神よ。笑いごとではない。あやつは神斬りの太刀を持っておる」

 並の呪具では龍神ほどの神を弑すことは難しいが、大地将軍の持つ太刀は数多の地神を斬ってきたせいで強力な呪を帯びている。とはいえ、ここは神道だ。ひとの身たる大地将軍が入ってくることはできない。

「かさねが行って話してくる。そなたはまずはここに隠れて……」

「紗弓」

 不意に龍神のまとう気が張りつめた。金のまなこが忌々しげに細まり、「あのにんげん」と呟く。

「どうした? 何かあったのか?」

「船の上であのいけ好かない男が、龍神どのの娘御を立たせて太刀を向けています。斬るつもりらしい」

「紗弓」

 説明する朧とかさねを振り落とし、龍神がかぶりを振った。

「ならぬ。紗弓」

 黄金の光が閃いて、神道がひらく。かさねはとっさに龍神の爪にしがみついた。朧が慌てた様子でかさねのふところにもぐりこんでくる。激しい水流が身体を叩きつけた。大海を割り、龍神がうつつの世に出でる。激しい咆哮を上げると、曇天にみるみる暗雲がたちこめ、雷が鳴った。海が渦巻き、波がどうと砕ける。

「海があらぶっておる……」

 これまでの荒波など、まるで戯れだ。大地将軍を乗せた船はかさねの目から見ても大きなものだったが、龍神の怒りに支配された海はそれすらもたやすく海底に沈めてしまおうとする。

 ――わたしのむすめ。

 天に向かって龍神が吼えた。

 ――わたしのむすめをかえせ。

 船の帆先に縛りつけられた紗弓が龍神の姿を見つけて、何かを呟き、首を振る。

 ――わたしの……

 きぃぃぃぃぃぃん……

 さなか、覚えのある澄んだ笛音が大海に響き渡った。

 ――いまいましい! 天の一族め!

 龍神が吐き捨て、身をよじる。雷が落ち、笛の音がふと途切れた。

「イチ!」

 龍神の爪にかろうじて取りすがるかさねには、イチがどこにいるのか見つけることができない。吹きすさぶ風に目を細めていると、再び口琴の音が鳴った。澄んだその音は、天を貫き、風のように、波のように、六海の地に響き渡った。龍神の動きが止まる。

「かさね嬢!」

 口琴の鳴る間、神域に避難していたらしい朧がふところから顔を出す。

「こちらへ! これから十ののち、将軍の攻撃が始まります」

「ならん」

「かさね嬢!?」

「ならんと言うたらならん!」

 かぶりを振って、かさねは墜落を始めた龍神の爪をよじのぼった。ぐんぐんと海へ吸い込まれていく身体になんとかしがみつき、声を張る。

「聞けい、大地将軍! 攻撃をやめよ!」

 五。

「六海の龍神にひとを害する意図はない! 紗弓どのを離せ!」

 四、三。

「それだけでこの嵐は――」

 二、一――

「この嵐は止む!!!」

 直後、龍神の身体が海に激突し、大量の水飛沫が舞った。同時に笛の音も途切れ、しんとした静寂が天と海に降りる。龍神の腹のあたりで守られていたおかげで、かさね自身は濡れ鼠になるだけで済んだ。はずみに飲んだ海水で咳き込みながら、海面から浮き出た龍の背へ這いのぼる。帆先に捕えられた紗弓の縄を解いて抱き締める上善の姿が見えた。

「上善どの……」

 ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、上善が顎を引き、一斉に矢が放たれる。力なく海面を漂う龍神に無数の矢と銛が刺さった。

「なぜ……なぜじゃ? なぜ、攻撃をやめぬ?」

 龍神の乾いた鱗がぽろぽろと剥がれ落ち、血肉があらわになる。かさねの小さな身体ではとても庇いきれない。恐ろしく緩やかに、十の時が過ぎ去った。しかし、身体の戒めが解ける頃には、傷ついた龍神の身には網がかけられていた。

「何故攻撃をやめぬか。それはな、子うさぎさん」

 気付けば、大地将軍の船が眼前にまで近づいていた。神斬りの太刀を掲げて、燐圭は厳然と言い放つ。

「ひとには恐怖という感情があるからさ」

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