一章、旅立ち(3)
セワの大樹から射す陽に目を細め、かさねは男の背を見上げた。
「イチ」
数歩先を歩くイチの足取りは澱みない。草木の繁茂する山道をかさねなどお構いなしにさっさと歩いていく。この三年で足腰を鍛えてなければ、とっくに置いていかれていただろう。
「イチ。……いち。いーち。おい、イチ。聞いてるのか、イ! チ!」
前に回り、男の顔を真正面からのぞきこんだところでようやく足が止まった。その眉間に深く刻まれた皺を見て、「なんなのだ、そなたは!」とかさねは口を尖らせる。
「孔雀姫に会うてから、そのような不機嫌面ばかりして。言いたいことがあるなら、言えい」
「なら、言わせてもらうが」
もとより剣のある美貌をさらに鋭くして、イチはかさねに向き直った。
「孔雀姫の申し出を何故断らなかった」
「そのはなしはもうしただろう。天帝の花嫁となる乙女を保護する必要があるのじゃ」
「けど、あんたがそれをする必要はないだろ。アルキ巫女にさせておけばいい」
「幾人も失踪したと孔雀姫が言うたではないか」
「だとしても、あんたには関係ないことだ」
「イチ」
この議論は最初からさっぱりイチと噛み合わない。歯がゆくなって、かさねはイチを仰いだ。セワの作る緑陰のした、目を眇めるイチの面は冷ややかだ。確かにイチが愛していたのは壱烏ただひとりであるので、ほかの天の一族にしもべのごとく扱われるのは腹立たしいことなのかもしれない。
「そんなに孔雀姫の頼みごとを聞くのは嫌か」
「……あんたこそ、その馬鹿のつくお人好しをどうにかしろ。そのうち身を滅ぼすぞ」
「ば、馬鹿とはなんじゃ! 馬鹿とは!」
「そのままの意味」
吐き捨て、イチは肩にかけたずた袋を担ぎ直した。前方を塞ぐ草木を短刀で薙ぎ払いながら、再びくだり始める。馬鹿だあほうだと悪態をつきつつも、結局イチはかさねを見離さず、こうして道を作ってくれている。憮然とした面持ちのまま、かさねは息を吐いた。孔雀姫から預かった口琴はイチに受け取られることなく、未だにかさねの首にかかっている。
(そもそもこやつは何故かさねについてきてくれるのであろ)
そなたが選ぶ道はふたつきり。
ここでかさねに盗まれるか、今すぐ恋に落ちるかじゃ。
突きつけた問いへの明確な答えはまだもらっていない。
「……むう」
口をへの字に曲げて、かさねはイチの隣に並んだ。
「のう、イチ? そなた実はかさねが心配でたまらず怒ってくれているのだとか」
「ついに頭が沸いたのか、お姫さま」
「……もうよいわ」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。イチのほうもそれ以上何かを言い募ってきたりはしなかったので、あとの道中はたいした会話もしないまま歩いた。夜、露よけの上着にくるまって目を閉じながら、何故こうもうまくいかんのか、とかさねはしょんぼりとする。イチの根っこにある情の深さをかさねはもう知っているし、わかりづらくて面倒くさい性格も含めて好ましく思っている。けれど、イチの心がちらとも自分に向けられないようなのはやっぱりさみしい。
(壱烏に向けてるぶんのほんのひとかけでも、かさねに回してくれたらのう)
衣の下にしまった口琴を握り締め、かさねはひとり憂鬱な息をついた。
しょぼくれた気持ちに反して、翌日の道のりは順調だった。アルキ巫女の失踪の噂が広まっているのか、六海へ向かう旅人の数は少なかったが、道がすいていることが幸いして、昼前には六海の玄関口である海下にたどりつくことができた。
「潮のにおいがするのう」
切り通しを抜けると、一気に視界が開けた。岩に砕ける灰色の海を見渡し、かさねは風になぶられる白銀の髪を押さえた。六海に入るまでは穏やかな陽が射していた空はみるみる暗くなり、今は厚く雲が垂れこめている。旅の商人に話を聞くと、六海では数年前からこのような天候が続いているらしい。
「このあとはどうするんだ」
およそ半日ぶりにイチのほうから口を利いた。かさねはもともと長く腹を立てている性格でもないので、「そうよのう」とうなずいて腕を組む。
「まずは六海の領主家に向かうつもりじゃ。孔雀姫から預かった書状もあるしな。乙女の心当たりがあればそれでよいし、なければ探す。アルキ巫女の失踪についても一緒に調べられればよいのだが」
「その乙女とかいう奴の特徴はあるのか?」
「夢告げ巫女によれば、身体に花を宿す、という話らしい」
「はっきりしねえな」
「それはかさねも同感じゃ」
六海は地都ほどの広さはないものの、かさねの故郷である莵道の里に比べればよほど大きい。その中からたったひとりのおなごを見つけ出すのは骨が折れそうだ。考えながら海沿いの道を歩いていると、あらぶる海に揺らめく一筋の――長い黒髪が見えた。
「かさね?」
思わず足を止めたかさねをいぶかしげにイチが呼ぶ。
「ひとがおる」
「なんだって?」
信じられない、という顔でイチは海へ目を向ける。悪天候のせいで澱んだ海は荒波がぶつかっては砕け、とてもひとが泳げる様子ではない。しかし、するすると人魚のように波間を泳ぐ人影が確かに目の前をよぎった。若い女。水面から飛沫を上げて現れた横顔は、かさねとそう歳の変わらない少女のものに見える。
「そなた、六海の者か!」
波音に負けないようにかさねは声を張った。
「おい」
海際の岩場へ下ろうとしたかさねの首根っこをイチがつかむ。獰猛な波は岩場にも押し寄せ、絡まった海藻を飲み込んでいく。かさねをひょいと担ぎ上げたイチが代わりにひときわ高い岩のひとつに立った。
「だれ?」
海面から顔を出した少女がかさねとイチをうかがう。イチを見るなり、少女は驚いたように「金目……」と呟いた。それで少し興味を惹かれたらしく、陸のほうへ向かってくる。足に人魚のひれでも生えているのではないかというほど、泳ぎがうまい。たどりついた岩のひとつに揚がった少女は、わずらわしげに濡れた黒髪をかきやる。裸だった。つんとした白い乳房や引き締まった腰は煽情的で、それなのに容易に近づけぬ美しさがある。孔雀姫にどこか似た――清冽という言葉がふさわしい少女だった。何よりも目を惹いたのが、少女の胸にある七色の鱗だ。円を描いたそれは花のかたちをしていた。
「花のしるしを持つ乙女……?」
孔雀姫の諳んじた巫女のお告げが脳裏をよぎり、かさねは呟く。海から揚がった少女は近くに生えた松から衣を取って、かさねとイチの前に立った。海を思わせる碧眼はまっすぐイチを見つめている。
「ようこそ、龍神の総べる六海の地へ。わたしは六海領主の娘、紗弓」
潮騒にも似た声が紡がれ、少女の両手がイチの空いているほうの手を取った。まるで永年、焦がれたものを見つけたかのように。
「お待ちしておりました、金烏の君よ」




