六章、天都登山(4)
セワの大樹を踏み越え、現れた朱色の門に大地将軍は口端を上げた。
「天門か」
天都は大地から隔てられた異界の地と聞いていたため、どんなものか興味があったが、何ら変哲のない、ただの山道が続くばかりの場所だった。確かに、ひとを寄せ付けない結界がほどこされていたが、それもさして強力なものではない。連れてきた兵を率いて、セワの樹が作ったあおみどりの天蓋をくぐると、大地将軍はそれでも用心深く太刀に手を這わせた。ちりんと刀の飾りの玉が揺れる。太刀と同様、姉の遺髪を固めてつくった琥珀の硝子玉だった。
「大地将軍でしょうか」
天門の前に現れたのは、まだ十二、三の少年だった。天都の者なのか、涼しげな薄青の衣を身に着け、透明な硝子玉を連ねた首飾りをかけている。
「僕は孔雀姫の侍従で、小鳥と申します」
「……そなたが」
孔雀姫とは幾度か文を取り交わしたことがあった。文はいつも小鳥侍従の名で鳥が咥えてきたから、憶えていたのだ。
「よもや、かように若い方とは思わなかったが」
「過ぎたお役目をいただいている自覚はあります。して、将軍。天都へ何用ですか。この天門の先は、天都の内。ゆるされた者以外入ることはできません」
「天帝に拝したい」
太刀の柄を握り締めたが、小鳥少年は銀の髪を揺らしただけで、つゆとも動じない。歳は若くとも、天の一族の眷属なれば、ただの少年ではないのだろう。現に数百に近い軍勢を見ても、眸を眇めただけだ。
「ゆるされた者以外は入れぬと申しましたが」
「あくまで通さぬということか」
「あなたの望みは聞いております、将軍。天帝を弑し、大地を手中におさめる。なれど、あなたの欲する大地は天帝の身体そのもの。どうして明け渡すことができましょうか」
「天帝はもう長い間眠りについていると聞く。ならば、不在も同然ではあるまいか」
「天帝の眠りをさまたげる者を私どもは許さない」
「ほう。どのように?」
顎を引いた小鳥少年の手がすいと空を切る。何かが脇をかすめたことがわかった。とっさによけて、小回りの利く小太刀のほうで斬り捨てる。ぴゅい、と細い鳴き声が上がって、白い小鳥が落下した。その嘴には大地将軍の刀飾りが咥えられており、白い肢体が地面に叩き付けられたはずみに、琥珀の玉が割れる。
「なっ」
異変が起きたのは直後だった。手にした太刀から黒い瘴気がのぼるのが大地将軍にもはっきりと見えた。太刀を前にするたび、かさねが苦しそうに口を押さえていたことを思い出す。確かに、刺すような腐臭だった。
「この地は清浄であるため、ほかの地より、ひとの勘も多少鋭くなるのです。あなたの太刀の『しずめ』を壊しました。見えなかったものが見えて参りましたか?」
太刀の刃から最初に噴き上がったのは、山犬の赤黒い血だった。次に太い前脚が現れ、山犬が飛び出す。さらに東の大蛇。青黒い鱗がぬらりと輝き、長い尾をくねらせる。獅子。蛙。数多、斬ってきた地神たち。ついに、魚の形をした沼神が現れ、大地将軍は太刀を取り落とした。
「ぐっ」
だが、今度は太刀が手から離れぬ。
見れば、大地将軍の手と太刀は分かちがたく混ざり、柄はすでに大地将軍の血肉の一部と変わっていた。身体を内側から焼かれるような激痛が走り、大地将軍は膝を折る。小鳥少年は一部始終を能面のような無表情で見つめていた。
「この……っ」
「ひとつ教えておきましょう。あなたがたが通ったこの道は莵道ではない。まして天道ですら。天都へは繋がらない、くず道のひとつです。あない神は天都への侵入者の選別のためにいるのですよ」
くずれ落ちながら、大地将軍は少年の背にそびえる赤い門を仰ぐ。次の瞬間、それはまぼろしのようにかゆらいで消えた。舌打ちをする。おそらく天都へ至るまでの道にはこのような罠が無数に仕掛けてあるのだ。
「愛太刀に喰われるは、本望でしょう」
抗おうとする大地将軍の腕を喰らい、太刀が這いのぼる。
きぃぃぃぃぃん……
鳥の慟哭にも似た音が耳を打ったのはそのときだ。ひどく耳障りな音に、大地将軍は眉根を寄せる。腕を這う太刀が不意にしずまり、離れたのがわかった。
「将軍!」
兵のひとりが硝子玉の欠片を拾い上げて連ね直し、太刀に結ぶ。すると、それまで騒いでいた山犬や大蛇、沼主も消え去った。
「壱烏さま、ですね?」
小鳥少年が口元にわずかな困惑を乗せる。兵をかき分け現れたのは、先ほど突き落としたはずのイチとかさねだった。
*
喰われることを覚悟していた。納得したわけでも、諦めたわけでもないが、莵道を開くにはもうそれしかないと思って天帝へ手を差し出した。にもかかわらず、かさねは五体満足のまま、玉石の敷き詰められたうつくしい道の上に立っていた。
「莵道を開いたのか……?」
目を細めたイチが肩を抑えて呟く。矢傷の腫れは引き、顔色も先ほどよりはよくなっている。天帝と名乗った鳥が駆け抜けたとき、不思議な力がこの場所に働いたことは確かなようだ。
「そのようじゃ」
息を吐いて、かさねは天帝へ向けて差し出していた腕を下ろす。そして軽く瞠目した。腕に絡みつくように浮かんだ淡い朱色の痣。ちょうど鳥にある鱗のようだ。
(誓約)
風にまぎれた声が耳朶をかすめて、かさねは顔を上げる。
(誓約は交わされたり)
(かさね。ゆめゆめ忘れることのないように)
(これはその証)
「かさね?」
頬をひと撫ぜすると、風は千々に散って、声も鳥の残影も見えなくなった。あとにはしろじろと光る鍾乳石の群れが無限に広がるばかりである。
「……いや。行こう、イチ。道が開いているうちに」
「ああ」
袖を下ろして痣を隠してしまうと、かさねは立ち上がった。
そうしてたどりついた「天門」はひどいありさまだった。かさねは噎せかえるような腐臭に顔をしかめる。こんなひどいにおいは嗅いだことがない。だが、それもイチが口琴を吹いた瞬間にしずまった。
「あんたは誰だ」
「孔雀姫の侍従で小鳥と申します。あなたのことは、孔雀姫から仰せつかっています、壱烏さま」
小鳥と名乗った少年は、みずらを揺らしてこうべを垂れた。しかしその横顔には、冷ややかな疑念が浮かんでいる。
「なれど七年前、天都を追放されたあなたが何用で? よもや、大地将軍を招いたのもあなたか」
「ちがう! そやつが矢を放ち、勝手に踏み入ったのじゃ! イチはそれを止めようと……!」
とっさに反論したかさねに、小鳥少年は硝子玉に似た淡青の眸を向けた。ひとにあらざる気配を纏った少年に、気圧されそうになる。だが、引くわけにはいかない。
「あなたは?」
「菟道かさね。イチをここまで案内した莵道の者じゃ」
「莵道……天帝の后のすえの御方ですか」
「――小鳥といったか」
口琴を外して差し出し、イチは少年に向き直る。
「孔雀姫へ取り次いでほしい。壱烏が戻ったと。直に、どうしても伝えたいことがあるんだ」
「承知しました。ただし、あなたの身の潔白が証明されれば、ですが」
「証明?」
「壱烏さま。あなたは『誰』ですか?」
直後だった。かさねの目の前で、小鳥少年とは別の手が翻った。
「イ……」
木に留まっていた白い鳥が変化し、イチの背後に白髪の老人が現れる。肩を取られ、イチは見る間に地面に組み伏せられた。腕を後ろ手に押さえ、身動きが取れなくなったところに小太刀が掲げられる。
「イチ!」
不穏なものを感じ取って、かさねは老人に飛びつこうとした。それを小鳥少年にはばまれる。
「ええい、そなた! 離せ! イチに何をする気じゃ!」
「確かめるだけですよ。じじさま」
小鳥少年にうなずき、老人は小太刀でイチの衣を引き裂いた。骨の浮き出た、痩せた背中があらわになる。まず傷の多さに驚いた。赤い蚯蚓のような痣があちこちにのたうち、皮膚が盛り上がって一部は変形しているものもある。まるで鞭で幾度も叩かれたような。何より、かさねの目を引いたのは、背の中央に押された印だった。あれはトウの背にあったものと同じ……。
「生まれながらにこの印を押される者が、この国にはひとにぎりだけいます。その者たちは天の一族の奴隷。生涯天の一族に仕えることを定められている『陰の者』と呼ばれる者たちです。ですが、おかしいですね。何故、皇子であったはずの壱烏さまにこの印が?」
――天の一族の元皇子、壱烏。それが俺の名前。
「この方は『壱烏』ではない。壱烏さまの『陰の者』が皇子の名を騙っていただけです。よって、天門をくぐる資格はない」
(やめよ)
――べつに、たいしたはなしじゃない。
――ひとはひとを騙す。別の誰かのために。
(やめよ、やめよ)
――……愚かだろ?
「『イチ』はあなたも騙していたんですよ、かさねさま」
「やめよ!!!」
耐え切れなくなってかさねは叫んだ。
そのようなはずがなかった。
そのようなはずが。
(最初からすべて嘘だったとでも?)
出自も、名前も、語った過去すらも。
交わした言葉も、時折見せた果敢ない表情も。
(すべて)
天都にたどりつくまでの日々、その道のり、
かさねの腕にひとときおさまったぬくもりすら。
「ぜんぶぜんぶ、嘘だったというのかあああああ!」
俯くイチはこたえない。その肩をつかみ寄せて、なじり、問いただしたかった。けれど、伸ばした手は届かず、耳元にふわりと息を吹きかけられたのを最後に、かさねの意識は暗転した。




