六章、天都登山(3)
――イチ。
――ぼくは君をイチってよぶことにします。
絹糸にも似た柔らかな声が耳を撫ぜる。目を瞬かせた『**』をのぞきこむと、『そいつ』はにっこりと屈託のない顔で微笑み返した。『そいつ』に出会うまで、『**』に名はなかった。生きるために必要な呼び名なら与えられている。けれど、まごうことなきじぶんを、じぶんだけを指す名前が『**』にはなかったのだ。だから、『そいつ』が呟いた二音は新鮮な驚きと不思議な面映ゆさをもって、『**』には受け止められた。緊張しながら、おそるおそる繰り返してみる。
――い、ち。
――そう、イチ。いちばんめのイチ。はじめてできた、ともだちだから。
そう言って頬に触れられたとき、急に涙がこみ上げた。音もなく落ちた大粒の涙に、『そいつ』以上に『**』が面食らってしまった。知らなかった。ひとに名前を呼ばれることが、こんなにもうれしいことだったなんて。こんなに俺の世界をぜんぶ、揺るがすようなすごいことだなんて。『そいつ』に出会うまで、俺は知らずにいたんだ。
「……チ、イチ。イチ!」
腕を引っ張られて、ぼんやりしていた意識を取り戻す。足元がぐにゃりと曲がって均衡を失いかけ、イチは壁に手をついた。荒く息をつく。いつの間にかかさねのほうが月苔石を掲げて先導していた。さほど歩いたようには思えないが、身体が泥濘にはまったように重たく、一歩進むだけでひどく体力を消耗する。
「イチ?」
かさねが心配そうに顔をのぞきこみ、少し背伸びをしてイチの首筋に触れた。ひんやりした手のひらが添い、ぱっと飛びのく。
「そ、そなた、熱いぞ。熱があるのでは」
「……たぶん、毒。さっきの鏃に塗ってあった」
「毒?」
かさねが急に泣き出しそうな顔をしたので、ひとまず壁に背を預け、肩のほうへ月苔をかざす。傷口はすでに赤黒く変色していた。
「だって、だって、そなた毒は効かぬと」
「言っただろ、ぜんぶじゃないって」
おそらくこれは、地都産の海のものだ。
「どうすればよい? かさねはどうしたらよい?」
「さっき血を抜いたし、そう強いものじゃないから、どうにかなる」
「どうにかなどと……」
毒に耐性があるのは嘘ではないので、放っておけば、そのうち身体のほうがねじ伏せるだろう。だが、ここで時間が取られるのは痛い。月苔石をかさねに返して歩きだそうとすると、「イチ!」とかさねが悲壮な声を上げた。伸ばされた腕に頭を引き寄せられる。本当にまるでたやすく、抗うこともできずに、イチはかさねの腕におさまった。
「だいじょうぶじゃ」
かさねの声は震えていた。震えていることをひた隠しにするような、むこうみずな強さのある声だった。
「連れていくから。イチはかさねが守るから。だいじょうぶ」
――だいじょうぶ。
ひんやりした薄闇の中で、かさねの声が別の声に重なる。
――だいじょうぶですよ。イチ。
どうしてだろう。あいつとかさねは、まったく別のものだ。似てもいない。だから、重ねるのはおかしい。おかしいはずなのに。
――だからどうか、泣かないで。
「だいじょうぶじゃ」
やさしい腕のつくる暗がりの中で、こごった息をぜんぶ吐き出したくなる。
*
「イチ? しっかりせい。イチ!」
引き寄せた男の身体が自分の肩にもたれかかってくる。浅く吐き出される息は苦しげで、かさねはどうしたらいいかわからなくなった。
(このままイチは死んでしまうのではないか)
恐ろしい予感がよぎって血の気が引く。嗚咽がこみ上げてきたのを無理やり飲み下して、ひとまずイチの身体を浅瀬に横たえる。肩口の矢傷は赤黒く腫れ、触れるととても熱かった。
「げどく……解毒できる草は……」
けれど、あたりは無数の鍾乳石が垂れるばかりの洞である。うすぐらい水面が広がる以外は、何の気配も感じられない。かさねはこぶしを握って、水面をかき分ける。
「道……道はないのか。莵道は……」
天都に通るという莵道を見つけることができれば、イチを外に出してやれる。先ほどは開けることができたのだ、今度だって。えんえんと鍾乳石の続く洞をがむしゃらに歩き回って、見える光景の変わらなさに「何故じゃ!」と癇癪を起こす。
「何故、莵道は現れぬ! 何故……!」
もし天帝というものがいるのなら、なんて慈悲がないのだろうとかさねは思った。天に仕える一族の皇子が命を失いかけているのに、ちらともこたえない。
「こたえよ」
このままではイチが死んでしまう。
「イチを死なせとうない……」
しゃくり上げ、かさねは天を仰いだ。
「死なせとうないのだ……!」
つづらかさねのかさねみち
つづれてつづれて かさねみち
微かな歌声が洞にこだまして、かさねは濡れた睫毛を震わせた。水上でふわりと深緑の水干が翻る。薄衣を頭にかけた人影はかさねとそう年の変わらない少年に見えた。
さあはなもて かさをもて
はなよめごぜんを あないせよ
「つづれてつづれてかさねみち……」
莵道に伝わる花嫁御寮の案内歌である。すがるような気持ちで少年を追いかけたかさねはいつの間にかイチのもとに戻っていたことに気付いた。
「あれは……」
少年の影がかゆらいで消えた、と思った瞬間、暗がりからじっとこちらを見つめるふたつの眸が光った。目を合わせただけで、身体が動かなくなる。うつくしい、金色の双眸だ。水のような静謐と、炎のような苛烈さと、慈愛と残忍さ、異なるふたつのものがないまぜになった色合い。
「あ……」
かろうじて紡いだ声はからからに乾いていた。
「あなた、は、」
(天帝)
かさねを見つめる双眸がきゅうと細まる。深い息が吐き出されたのがわかった。
(また迷い込んだのですか、莵道のすえの娘よ)
「なりゆきじゃ。かさねはそなたを探していた」
(わたしを?)
「この場所から出るために、莵道を開きたい。あなたは前に道を開くには足りぬものがあると言うたな? 足りぬものとはなんだ? 何をすれば、莵道を開ける?」
(酔狂な)
さざめきわらう声が聞こえて、かさねは瞬きをする。そよ風にも似た吐息がふっとかさねの頬を撫ぜた。
(道が欲しいなら)
(その身と引き換えです)
「この身と?」
(捧げよ)
(その身をわたしに捧げよ)
(狐神にそうしたように)
静かに語りかける声は、人間らしい感情が欠落している。背筋に冷たいものが走り、かさねはあとずさった。その身を捧げる――つまり莵道を開くには、かさねが贄となる必要があるというのか。
「……そんな」
あんまりだと思った。狐に喰われかけて逃げてきたというのに、たどりついた天都では天帝もまた同じことをかさねに求める。同時に理解する。今までどうしても莵道が開かなかったのは。開けなかったのは。
(かさねという贄が足りなかったからか)
つづらかさねのかさねみち
つづれてつづれてかさねみち
さあはなもて かさをもて
はなよめごぜんをあないせよ
天帝へ嫁いだとされる莵道の姫君の案内歌。
あれはほかならぬ、天帝へ差し出された贄を意味していた。
「――……かさね?」
背にかすれた声がかかり、かさねはイチを振り返る。いったいそのときの自分はどんな顔をしていたのだろう。失意に暮れた顔か、悲壮に歪んだ顔か。熱に浮かされた金眸に見つめられた瞬間、けれど悲嘆や絶望を薙ぎ払う強い感情が湧き上がって、かさねは口を引き結んだ。
「……わかった」
(贄なんぞまっぴらごめんじゃ)
こちらをうかがっている天帝の双眸を見据え、手を差し出す。
(だが、このまま何もできず、イチが死ぬのを待つほうが)
(もっとごめんだ!)
「莵道をひらく。かさねを食え!!!」
とたんに金目がかっと見開かれ、暗がりの向こうから何かがずるりと這い出た。
――鳥。
おおきな、うつくしい鳥だ。それがかさねに向かって一直線に飛んでくる。腹をやぶられた、と思った直後、あたりの景色がかゆらぎ、襞をめくるようにして玉石を敷き詰めたげにきらびやかな道が現れた。




