六章、天都登山(1)
翌朝はよく晴れた。
夜明けにサジャが鳴くと、屯所の門番が起き出してきて、開門の鐘を鳴らす。地都の星祭りは海上に打ち上げられた花火を最後に昨晩終わった。各地を渡る芸座や行商は、次の街へといち早く旅立つため、開門前から行列を作る。
『いいわよ、あたしらもちょうど北に行くつもりだったの』
イチが日向三山を目指していることを告げると、ハナは自分たちも鹿骨の豊穣祭に間に合わせるつもりだったのだとうなずき、門を出るところまでは面倒をみてやると請け負った。くるい芸座の順番になり、あらためをしていた役人にハナがまとめて通行証を渡す。前方では足止めにあっている者もいたが、くるい芸座はそのまま門を抜けることができた。
「じゃあ、あたしらは北に向かうよ」
「ああ」
鹿骨、と書かれた道を指してハナが言った。北を目指すのはやはり芸座の者が多いようで、それぞれ見せ物を積んだ荷車をがたごと鳴らしながら、傾斜のついた坂道をのぼっていく。
「気を付けて。また行き倒れていたら拾ってあげるから、あたしを呼びなさいねえ」
「それは遠慮しとく」
すげなくイチが手を振ると、「まったくかわいげがない」とハナは鼻を鳴らした。それから、イチの背中に張り付いている荷物のほうを見て苦笑する。
「お姫さまはおやすみ中?」
「二日酔いだよ。子どもに酒のませんな」
「子どもぉ? それはどうかなあ?」
ハナは歯を見せて笑い、本人曰く「頭蓋を鋸でひかれているような」頭痛で呻いているかさねの頬をつついた。
「じゃあね、うさぎさん。元気で。また会いましょ」
「うみゅ……はにゃも」
「この馬鹿を守ってあげてね?」
どういう意味だと眉をひそめたイチの頬へかすめるような口付けをして、ハナはきびすを返した。
「さ! 行くよ、くるい芸座ぁ!」
「はい、おかしら!」
芸座の者たちが跳んだり跳ねたりしながら、ハナを追って走っていく。いちばん後ろについたフエが「じゃあね」と片目を瞑って梔子黄の衣を翻した。
「行ってしまったのう……」
くるい芸座の一団を見送ると、頭の上からしょんぼりと息が吐かれた。
「さみしいか、イチ」
「……俺が?」
「かさねが慰めてやりょうか……」
「あんたはその舌が回んないの、まずどうにかしたら」
「ふん。かわいくにゃいのう」
嘆息したかと思えば、ことんと肩に頭を乗せて急に喋らなくなる。しばらくすると穏やかな寝息が肩越しに聞こえてきたので、イチは呆れて木道をのぼり始めた。
通称「こもの道」と呼ばれる街道は日向三山をめぐり、西の六海へ抜ける山道だ。六海へは地都から船を使って出ることもできるので、歩いている人間の数は北ほど多くない。舗装された道が少し続いたが、すぐにセワの大樹が両脇に連なるだけの狭路に変わった。ここ数日雨は降っていないので、地面がぬかるんでいないのが幸いだった。かさねの足に合わせる必要もないぶん、予定していたよりもさらに先までたどりつくことができた。今のところ大地将軍の追手らしき者にも出くわしていない。
「明日からはかさねも歩けるぞ」
木の根に腰掛けたかさねは今日ほとんど使わなかった草履をほどきながら言った。イチは集めてきた枝で火をおこす。この季節は夜も凍えるほどではないし、ひとの往来が多い街道付近であれば、獣も容易には近寄ってこない。
「この調子だと、あさっての昼には日向三山につく」
イチは地都で買った餅を串刺しにして、火に立てた。餅につける胡桃味噌の壺を出していたかさねは、そうか、と神妙な顔をしてうなずく。
「セワ塚の書庫で見た地図によると、日向三山のうちひとつが莵道に接しているらしい。正しい入口を使わないと、天都へは入れない仕掛けになっている」
「莵道の者なら、ほんに道が開けるのかのう」
「天帝が言っていた『足りないもの』が何なのかが気になるな。心当たりは?」
「わからん。あのときは天帝がかさねのおでこに口付けて、これで通行料、と言うたのじゃ」
「口付け?」
つい怪訝な声で聞き返すと、かさねはしたり顔で腕を組んだ。
「まあ、かさねの美貌を前にしては天帝も骨抜きというやつかもしれんな」
「へー」
「……そなた、心の底から興味がないという顔をするでない」
憮然となって、かさねは焦げ目のついた固餅にかぶりついた。しばらく黙々と食べてから、少し気づかわしげにイチを見やる。
「のう、イチ」
「何だ?」
「日向三山へ続く門は、難なく通り抜けてしまった。追手がかかる様子もない。かさねたちをアルキ巫女に探させていた孔雀姫や大地将軍は諦めたのだろうか」
イチは知らずまじまじとかさねを見た。さらったときは、よそのことは何も知らない「お姫さん」だったが、ひと月を過ぎる道のりでずいぶん周囲に注意を払うようになったらしい。木の実が固いだの、藪蚊が嫌だので喚いていたのがずいぶん昔に思えた。
「イチ。聞いているのか」
「――大地将軍についてはわからない。けど、孔雀姫のほうはもともと壱烏を捕まえる気なんかない。あの姫は壱烏を天都に近づけたくないんだ」
おそらくは今なお胸に秘める思慕ゆえに。
面倒そうに吐き捨てると、かさねが半眼でこちらを睨んできた。
「ふううん?」
「……なんだよ」
「自分のこととなると、そなたはいつも他人事みたいな言い方をするのだな」
かさねはふたつめの餅を取り、イチのほうへ身を乗り出した。
「で? 実際のところどうなのだ」
「何のはなしだ」
「孔雀姫じゃよ。いいなずけだったんだろう。今も好いておる?」
「さあ」
「さあ! そなたはいつもそれじゃ」
とたんにかさねは不機嫌そうに唇を尖らせ、そっぽを向いた。
「……やめた。このはなしは妙に腹がしくしくしてくる」
「二日酔いで、餅を食いすぎるからだろ」
かさねが息を吹きかけていた餅を横からかすめ取ると、「かえせ!」と怒声が上がった。結局半分に割り、胡桃味噌を塗って食べる。だが夕餉を終えても、かさねはすぐには眠ろうとせず、イチの隣で炎を見ている。思案にふける少女の横顔に火影が揺らめき、頬を薄紅に染めた。
「そなた……天都に戻って平気なのか?」
「べつに、あんたが心配することじゃねえだろ」
「だが、」
「終わったら、あんたは家に帰してやるから」
畳み掛けるように言うと、かさねはもどかしげに唇を噛んだ。
「終わったら、イチはどうするのだ?」
「俺?」
「かさねにはイチはどこにも帰る気がないように見える」
思いがけなく深い色をした双眸に見つめられ、イチは口をつぐむ。痛いところをつかれた気がして黙り込んでいると、かさねは今にも泣き出しそうな顔をした。
「かさねの道案内は、帰り道まで込みゆえな。そなたは帰ることまできちんと考えるように」
「……ああ」
「約束じゃ。よいか、約束をしたからな」
一方的に言いつけ、かさねは引き寄せた膝に顔をうずめた。
「――かさね」
理由を、とこの少女は言った。
天都をめざす理由を教えること。それが莵道を開く条件だと。だけど、イチはまだ本当に大事なことをかさねに明かしていない。
「なんじゃ?」
けれど。
(必要、ないだろ)
不思議そうに瞬く眸を見ていると、脳裏で別の冷ややかな自分の声が言った。
(こいつにわかってもらう必要なんかないだろ)
そのとおりだとイチも思った。所詮はゆきずりの、この道中だけの、赤の他人である。それ以上でも以下でもない。それ以上になる日もまた来やしない。
「……なんでもない」
夜具代わりの上着を押し付けると、かさねはいぶかしがるような顔をしてから、結局受け取った上着を身体にかけた。
「イチ」
暗闇の向こうから、少女の声がぽつんと投げかけられる。
「話したいことがあるなら聞くぞ?」
「べつにねえよ」
「なら、よいが」
かさねは息を吐き出したようだった。
「……おやすみ、イチ」
「ああ」
消えかけた炎に向かって枝を何本かつぎ足す。立てた片膝に頬杖をついて、イチは首にかかった口琴を引き寄せた。
『――……いち、』
口琴を差し出す痩せ細った腕がつかの間瞼裏をよぎって、イチは目を閉じる。帰してあげなさいね、というハナの言葉がこめかみでうずいた。そうだな、とイチも胸中でうなずく。天都にたどりついたら、かさねは莵道に返してやらなければならない。本当にどこにでもいる、ただのお姫さんなのだ。……それくらいはいいだろ? なあ、『壱烏』。




