五章、地都の星祭り(3)
芸座にいるまじない師にかさねをみせると、ただの過労とのことだった。それと若干言いづらそうに、月のものも、と呟く。
「……ああ」
納得して、イチは首を掻いた。すっかり忘れていたが、かさねはもう婚姻ができるおなごだった。莵道から出てきた当初に比べ、近頃ではぐずることも減っていたが、あれで山を越える間はずっと気を張っていたのだろうか。
「十四のお姫さまに菟道から地都まで旅させるあんたもどうかと思うわよ。ついてくるお姫さまもお姫さまだけど」
呆れた様子でハナが言い、今は眠っているかさねの額に濡れた手ぬぐいを乗せた。こういうのは女に任せてしまったほうがよいだろうと思い、イチは芸座の者たちが雑魚寝をする大部屋から外に出る。海が近いからか、髪を撫でる風は潮の香りがした。
街道に並ぶ茶屋は祭りの時期に入ると、空き部屋を開き、やってきた旅人や芸座の者に安銭で貸すようになる。時には野宿も辞さないくるい芸座であるものの、地都に入った初日である今日は景気づけの意味もあって、ハナが宿を取った。かさねが体調を崩したので、イチも一日だけくるい芸座の世話になっている。
「ああ、いた。あんたも変わんないわねえ。いっつも、ふらっといなくなって隅っこでうずくまってんの」
波の音を聞きながら口琴を吹いていると、ハナが出てきて徳利を突き出した。
「付き合いなさいな。あいつらには内緒よ」
「……あんたも変わんねえな」
「そうかなあ。じゃあ、再会にかんぱーい」
飯をよそう椀に豪快に注がれるのは、乳白色の濁り酒だ。口に含むと、舌が痺れるくらい強い。イチでも顔をしかめるそれをハナは水のように飲み干して、二杯目を手酌で注いだ。
丸い月が海に架かっている。地都は海港部が扇状に開けた平地で、また、三方が山で囲まれているため坂道が多い。坂の途中にある宿からは海が一望できた。
「あんたがいたときも、こんな風にときどき飲んだわねえ。あっ、あたし子どもができた」
「……誰の?」
「フエの」
「またえらい年下の旦那だな」
「いいのよ。あたしは気持ちが若いから」
胸を張って、ハナはうなじにかかったほつれ毛をかき上げた。もう四十近いはずだが、からりと笑うさまはなるほど若々しい女のそれだ。歳を重ねると、次第に内側のたましいが面に透けてくる。くるい芸座を率いるハナの顔は、艶やかな女であると同時に母親だった。だから、芸座を出てもなんとなく頭が上がらない。
二年前、道に死体のように転がっていたイチを拾ったのはハナだ。ハナが見つけなければ、死んでいたと思う。投げやりな喧嘩ばかりを繰り返し、このまま野垂れ死んだっていいや、もうどうだっていいや、と思っていた時期がイチにはあった。
「それで? あんた、まだ天都をめざしてんの?」
天候を聞くような気軽さで、ハナが尋ねた。
くるい芸座を去るときに、ハナには訳を話した。静かな面持ちで話を聞いていたハナは、知り合いにあらゆる知に通じた古老がいる、と山奥の隠れ里をイチに教えてくれた。その古老から「菟道」のことを教わり、イチはかさねに出会ったのだった。
「たどりつける勝算は?」
「あるよ」
「無事に?」
「……多分」
顎を引いたイチに、「嘘よ」とハナは不意に真顔になって首を振った。
「無事になんて、はなから頭にない。あんたってそういう奴だもの。――でもね、イチ。お姫さんはちゃんと返してあげなさいね。普通の女の子なんだから、あんたの事情で変な道に引っ張り込んじゃだめよ」
「ふうん」
「何よ」
「あんたでも、まともなこと言うんだなって。母親になるとちがうもんなのかな」
「あら、失礼ー。あたしはいつだってまともですってよ。この慈愛の深さでいったい何人の男を救ってきたと思ってんの」
豊かな胸を見せびらかすように突き出して、ハナが鼻を鳴らす。てだまに取ったのまちがいじゃねえの、と苦笑し、イチは残った酒を飲み干した。痺れるような味わいにやっぱり顔をしかめる。
「大地将軍のもとに現れた『壱烏皇子』ね。わりと好き放題やっているみたい」
「……そうか」
「ふたりの『壱烏』なんて、あちらからすれば、目障りでしかないわ。イチ。捕まるんじゃないわよ。絶対に」
「逃げ足の速さはあんたに教わったろ」
肩をすくめ、イチは夜の港町を見下ろす。かさねには悪いが、明日には早々に地都を発つ必要がありそうだ。大地将軍の膝元に長く滞在する気はない。それに地都を抜け、日向三山に入れば、天都までの道は天の一族が管理する「天道」と「莵道」のふたつに限られる。天都はもう間近に迫っていた。
ハナは胸から二枚の紙切れを取り出した。
「あたしら芸座の通行証。関所を越えるときに使いなさいな」
「わるい」
「何てことないわ。けど、せっかくだから代わりに一個、教えてくれない?」
腰掛け代わりにしていた木箱から降りたイチに、ハナが尋ねた。
「あんたにそうまでさせるひとって、どんなひとだったの?」
「どんな?」
「今も愛してる?」
その質問にはこたえず、イチは視線をよそへやった。
「……馬鹿やろうだよ」
「は?」
「天都一の、大馬鹿もの」
瞬きをしたハナが、それはそれは、と首をすくめる。
「あたしに言わせれば、あんたもだいぶ大馬鹿ものだけどねえ」
「だいぶってなんだよ」
ひらひらと手を振ったハナに半眼を寄越し、イチは空にした椀を片付けた。ひとり階段をのぼって大部屋に戻ると、奥の布団が何やら不自然に盛り上がっている。
「おい」
嘆息して、イチは夜具を摘まみ上げる。案の定、中から蓑虫のようにうずくまったかさねが顔を出した。頬の赤みは引いていたが、何故か不機嫌そうに唇を尖らせている。
「……い、イチが悪いのじゃ。かさねが起きても近くにおらんし、かさねが唸っているのに兄さまたちのように背をさすってもくれんし。それで何をしているのかと思えば、なんぞ夜陰でお胸様と乳繰り合いおって……、ふしだらじゃ!」
「あんた、ふしだらの意味わかって使ってんのかよ」
「ばっ、馬鹿にするでない! かさねは子どもではないぞ!」
「ううー……ん」
フエが顔をしかめて寝返りを打った。しぶしぶといった様子でかさねは黙り込む。
「さっさと寝ろ。あんたにげえげえ吐かれると、始末がめんどくさい」
手の甲で軽く額を押すと、むぅと唸ったものの、かさねはおとなしく布団に入り直した。唇を尖らせたまま、白銀の睫毛を下ろす。不意に、ああ、ほんとうに普通のお姫さんを連れてきてしまったんだな、と思った。世間知らずで、口ばかり達者な、普通の。
イチは「お姫さま」というものをよくは知らないが、それでも、もしかしたら普通の「お姫さま」よりは根性があるのかもしれない。セワ塚からの道中、かさねは幾度も弱音を吐いたが、前のようにへたりこんで動かなくなってしまうことはなかった。それに普通の「お姫さま」なら、山犬の首を目の前で斬られて、血をぶっかけられたところで卒倒しているだろう。思うところはあるようだったが、かさねはあのときも唇を引き結ぶと、自らの足で歩き出した。……ぜんぶ、こんな小さな娘に覚えさせることではなかったとわかってはいる。
「のう、イチ」
深刻そうな顔でかさねが見上げてくるので、イチはなんとはなしに身構えた。
「かさねはずっと気になっておったのだが……」
「何だよ」
「殿方というものは、やはりああいった胸がでっかいおなごが好きなのか……?」
真剣そのものの目で見つめられ、「……むね?」とイチは首を捻った。間を置いて、ああハナのことか、と考える。かさねは何やら恥らうそぶりで頬を染め、夜具を引き上げた。
「思えば、リンとかいうアルキ巫女もそうであったし……、いざりの兄さまめ。かさねとて大きゅうなるぞ。将来は。すごいんだぞ」
「何言ってんだあんたは」
ときどき素っ頓狂なことを言う娘だが、今晩は程度が著しい。呆れて息をつくと、「あ」とかさねが何かに気付いた様子で目を瞬かせた。
「わらっ……」
「何?」
眉根を寄せたとたん、「ああー」とかさねは残念そうな声を上げる。けれど、しょぼくれていたのは少しの間で、すぐにしたり顔で「ふふん」と笑った。
「だから、何だよ」
「ひーみーつーじゃ。今のはのう、かさねだけの発見なのだ」
ささめきごとをするように口に手を当てて、かさねは満足げに鼻を鳴らす。
「おやすみ、イチ」
「……おやすみ」
横になると、すぐに背中のほうからのびやかな寝息が立った。瞼を閉じ、つかの間のまどろみに身を委ねる。ほんのつかの間。それは忘れていた安寧をイチにもたらした。




