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白兎と金烏  作者:
後日譚 わだつみの宝石
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わだつみの宝石(3)

「それであんたに花嫁をやれってどういうことよ」


 不愉快そうにつぶやいた紗弓に「あくまで儀式上のじゃ」とかさねは言い返す。

 ウネが言うには、近くウネは成人の儀を迎えることになったらしい。方法は簡単で、満月の晩に人魚たちのひみつの海の道をまっすぐ進む。道の終わりまでたどりつくことができれば、儀式は成功だ。水流をうまく操るウネならば、たぶんたやすい。だが、このとき必要となるのが成人する人魚の伴侶となる乙女なのである。


「ウネも言っておったぞ。昔はほんにそこで成婚とあいなったらしいが、今では儀礼上の役柄で、幼馴染や姉妹がやることも多いのだと」

「なら、姉妹にやらせればいいじゃない。あんた、またあの水魔に騙されているんじゃないの?」

「ウネはもうひとを騙したりしない」

「ふうーん?」


 夜の庵には、魚の油を使った灯りがひとつ灯っている。陰影が映った壁の外から、寄せては返す波音が絶え間なく聞こえる。それに水分を含んだすこし重い潮風の音、大ぶりの葉が擦れる気配。胎動にも似た波音は、疲れた耳に心地よい。

 流を寝かしつけながら、紗弓とかさねは昼間の顛末について囁き声で言い合っていた。手狭な紗弓の庵にさすがに大人三人は入れないので、イチは近くの空き家を借りている。紗弓の横に筵を敷き、夜着の代わりに上着をかけて、かさねは横になっていた。


「儀式は三日後の満月の晩だったわね」

「うむ。それまでここに置いてもらってもよいだろうか、紗弓どの」

「わたしはべつにいいけど」


 さなかにうとうとしていた流が、けふん、と咳をしはじめた。ちいさな背中を紗弓の手がやさしく叩いてあやす。流の咳がおさまるまで待って、「昼も咳をしておったな」とかさねはつぶやいた。


「身体があまり強くないのよこの子」


 苦笑し、紗弓は流に夜着をかけなおした。


「生まれたときはちがったんだけどね。ひとでありながら神でもある生というのは、存在すること自体が思いのほか難しいのかもしれないわ」

「……かさねに命を分け与えたからだろうか」


 女神に転じたかさねの身体は、一度人間としての死を迎えた。命を分け与えてくれたのは、漂流旅神たる流である。ぽつりとつぶやくと、「与えると決めたのは漂流旅神よ」と紗弓は言った。


「べつにあんたのせいではないでしょう。そもそも、デイキ島で漂流旅神を助けたのはあんただしね。理由を求めはじめたらきりがないわ」

「うむ……」


 そこまで割り切れるわけではなかったけれど、これ以上紗弓に言い募るのは失礼な気がした。のろのろと顎を引き、かさねは身体にかけた上着を引き寄せる。


「ところで、さっきから気になってたんだけど」

「なんじゃ?」

「あんた、なんであたりまえのようにわたしの横で寝ているわけ?」

「なぜって……」


 口をひらいてから、かさねは眉根を寄せる。


「そういえば、なぜじゃ?」


 普段の癖で、庵がふたつあったから男女で分かれて寝ていた。


「昼にああだのこうだの言ってたんだから、旦那のところで寝なさいよ……」

「でも、イチはなんだか不機嫌なのだ……」

「あんたが不機嫌にさせてるんでしょ」


 もちろんかさねもわかっている。

 人魚の涙にまつわるごたごたのせいである。


「ううう……なぜこんなことに。かさねはイチといちゃいちゃしたいだけなのに」

「あんたは誰にでもやさしすぎるのよ」


 いままでのからかうような言い方とすこしちがう真摯な声が返ってくる。

 目を上げると、紗弓は灯りの灯芯のあたりをじっと見つめていた。青みがかった眸に揺れる炎が映っている。


「あんたは誰のためでもおなじくらい一生懸命になれるしょう? それってすごいことだけど、あんたの隣にいるひとはいつもきっと、すこしさびしいの。――あんたと父上ってちょっと似ているわ。みんなをしあわせにして、よかったねってわらって自分はいなくなってしまうのよ。遺されるこちらのさびしさは考えてくれない……」

「……紗弓どの」

「眠くなってきちゃった。灯りは消していってね」


 ひらりと手を振って、紗弓は長い睫毛を伏せた。



 ――さびしい。

 さびしいという言葉は思いのほか、かさねの胸に深く突き刺さってしまった。

 なぜなら、かさねもほんとうに一度、イチを置いて死んでしまったので。そうする、女神になる、という意味のことを告げたときにイチが一度だけ見せたのがさびしそうな表情だったので。あのあと、イチはどういう風に自分と折り合いをつけてかさねのまえに現れたのだろう。訊いたことがないからわからない。


(といっても、今さらウネに嫌だとも言えんし……)


 重い息をついて、庵の戸をひらく。

 てっきり起きているかと思ったら、イチは横になって寝ていた。


(なんだ)


 かさねにしてはめずらしくいろいろとまじめに考えていたのに。

 そっと戸を閉めて、足音を立てないように部屋を横切り、背を向ける男のそばに腰を下ろす。あらためて考えると、かさねが行きたいというのにつきあって碧水まで来てくれたのに、庵にひとりで放ってしまってちょっとかわいそうだった気がする。挙句の果てに重婚である。確かにイチを不機嫌にさせているのは、だいたいかさねのふるまいとか言動だ。


(ウネには断ったほうがよかったのか?)


 かさねは自分がしてほしいことやしたいことをよく訴えるけれど、イチは昔からそういうことをほとんど口にしないので、よくわからないときがある。それであとになって、男の表情だとか反応を見て、ああこの男はこんなことに腹を立てていたのかとか、こんなにささいなものが欲しかったのかと、はっとさせられるのである。

 かさねが真名をあげたとき、イチはうれしそうだった。真名をやるのはささいなことではないが――でも所詮はただの名である。かさねはあのとき、イチはこんなものが欲しかったのだと、欲しかったけれど決してそう訴えることはできなかったのだときづいて、驚いて、いとしくてたまらなくなったのである。

 思い返すと、いろんなものがあふれそうになったので、かさねは背中からイチをぎゅうっと抱きしめた。顔を押しつけてじたばたしていると、「いきなりなんだ」と低い声で言われた。


「旦那さまを急に抱きしめたくなったのだ」

「へーえ?」


 イチはなんだか機嫌がわるそうである。

 いや、はじめから機嫌はわるいのだった。紗弓がさびしいだのなんだのいうから、しおらしく見えていたけれど、それはかさねの勝手な想像で、庵に戻る前からゆがみなく機嫌がわるい。しかも発端はかさねである。


「おまえのその、やましいことがあると甘えてくるのは天然なのか計算なのか」

「ええっ、かさねはさように悪女ではないぞ!」


 乙女なのでいちおういろいろ考えてはいるが。

 イチはなんだかんだでだいたいゆるしてくれるし。やさしいので。


「イチはだいたいなんでもゆるしてくれるし。……あっ」


 思うだけのつもりだったのにぽろっと口に出してしまった。

 イチが呆れるような沈黙を返したので、かさねはもうひらきなおって、「イチはかさねが何をしても、何を言っても、だいたいかわいいからしかたないなって思ってゆるしてくれるし!」と大きな声で言った。


「おまえな」


 さすがに怒られそうである。ゆるしてくれなさそうである。

 うう、と呻いて、かさねはイチの背にひっついた。


「離縁はいやじゃあ……」


 さっきまでもうすこしまじめに、イチのしたいことや望んでいることを尊重しなければ、と思っていたのに、結局かさねは自分の望みを訴えている。なかなか性格は変えられない。

 イチの背に顔を押しつけたまますこし泣きそうになっていると、息をつく気配がした。身体の向きを変えたイチが上掛けをひらいて腕のなかにかさねを抱き込む。急にほしかったぬくもりに包まれたのでびっくりした。イチとかさねは大人と子どものように身長も体格もちがうので、すっぽりと腕のなかにおさまってしまう。

 瞬きを繰り返したあと、かさねは口の端を上げた。


「今、かわいいからしかたないなって思っただろう」

「おまえがあんまり好き勝手言ってるから、意地を張っているのが馬鹿らしくなったんだ」

「ふふん、素直でよいことじゃ」


 ころころわらっていると、こめかみのあたりにくちづけが落ちた。髪にも唇が触れる気配がして、顎をうずめられる。くすぐったい。かさねはこういうとき、自分が持っているものならなんでもイチにあげたいし、できることならなんでもしてあげたくなる。

 紗弓はかさねをやさしいと言ってくれたけれど、かさねがほんとうになんでもしてあげたいと思えるのはイチだけなのである。そう思いつつ、次の瞬間にもし困っているひとが現れたら、かさねはぽいとイチを放ってそのひとを助けたくなるかもしれないけれど、でも、あすもあさっても、ずっとなんでもしてあげたいのはイチなのだ。この男が満たされていると、かさねはこめかみが痛くなるくらいしあわせな気持ちになれるので。

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