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白兎と金烏  作者:
終幕 天帝花嫁編
158/164

十章 白兎と金烏(6)

 こらえきれずに飛びついてきたかさねをイチが受け止める。男のあたたかな体温と懐かしいにおいに包まれると、胸がぎゅっと痛んだ。でも、でも、とかさねはイチにしがみついたまま、ぐすぐすとしゃくり上げる。


「かさねはもうだめだもの。う、蛆がわいて、肉も腐り落ちて……」

「それはさっき見たし、もう済ませた」

「済ませた? というか見た!? 見たのか、かさねのあのすがたを!?」

「おまえ、自分の息吹を口琴に残していっただろう。あれに漂流旅神が命を分けてくれた。それをさっき口移しで――」

「くちうつし……」


 想像しただけで、かさねはひっと呻いた。

 まさか腐乱死体というべきものに成り果てた自分にくちづけたというのだろうか、この男は。くちづけたというか、口移しというか、それはつまり、もっとひどい。蒼白になって、かさねはぶんぶんと首を振った。


「無理じゃ……ぜ、ぜ、ぜ、ぜったい無理じゃ……ありえぬ……」

「別にそうたいしたものでもなかったぞ」

「そなた、かさねが好きすぎて頭がおかしくなったのでは?」


 真顔で詰め寄ると、イチは不服げに頬を歪めて、かさねの額を手で押し返した。やったと言ったからには、本当に何のためらいもなくやっていそうで、かさねはいたたまれないような、恥ずかしいような、複雑な気持ちでいっぱいになる。


「それよりも」

「かさねにとっては、それよりも重要なことなどないが」

「死体だろうがなんだろうがぜんぶおまえだろ。それよりも」


 どこから突っ込んだらよいかわからない雑なくくり方をして、イチはかさねと目を合わせた。


「おまえの身体はよみがえった。ただ、女神の力のほうを手放さなければ意味がない。やり方を聞いたんだ、漂流旅神に」

「そんなことができるのか?」

「あぁ。鍵は最後の神器――『玉』だ」

「玉……」


 繰り返したかさねに、「それは大地女神が所有するという」とイチが意味深に告げる。かさねは眉間にしわを寄せた。


「女神と言うても、かさねに心当たりはないぞ」

「いや、おまえが持っているはずだ。正確にいえば、おまえの体内にまだあるはずなんだ」

「た、体内?」


 ますます訳がわからなくなり、かさねは己の身体に目を向ける。


「前に女神に言われて、口琴を探しにいったことがあっただろう」

「千年前の世界に飛ばされたときのことか? 燐圭と奪い合いになった……」


 あのときはイチの心臓を賭けて、燐圭とやりあった。そして粉々にされた口琴をかさねは燐圭に奪われまいと――。


「食べただろう、おまえ、あれを」

「まさかあの口琴が神器? 『玉』だったとでもいうのか!?」

「そのまさかだ。口琴はひとだった頃のひよりの魂が依りついたもの。あれが女神の持つ『玉』だったんだ。そして、唯一、女神の力を移すことができるとくべつな神器だと聞いた」


 なぜそのような大事なものを軽率に食べてしまったのだろう、とかさねは頭を抱えた。あのときはこれだけは絶対に燐圭に奪われてはならないと必死だったのだが、取り返しのつかないことになってしまった。


「もう消化されてしまったろうか……」

「いや、仮にも神器だから、おまえの体内にとどまっていると思う。たぶん」

「ならば、吐き出せばよいのか?」


 尋ねたかさねに、いや、とイチは首を振る。


「――流転を」


 かさねの両肩に手を置いて、イチは言った。


「『玉』に新たなかたちを与えて、力を譲り渡せ。女神なんだろう、おまえは。そういうことができるはずだ」

「そなた、簡単そうに言ってくれるが……」

「かさね。俺はここにいる。おまえができるまで待ってる」


 こちらを信じきるような眼差しで告げられ、かさねは唇を尖らせる。

 そんな風に言われたら、やるしかなくなってしまう。あまり長引くと、今度はイチが老人になってしまいそうだが。それでも、この男は待っていると言ったら待ってそうであるし。

 ふぅ、と息をつき、「わかった」とかさねはうなずく。


「やってみる。かさねのなかにあるはずの『玉』を切り離せばよいのだな」


 肩に触れるイチの手を感じながら、かさねは祈るように両手を組み合わせた。ぐっと腹に力を入れて目を伏せる。淡いひかりがふつ、ふつ、とかさねの足元から生まれ、草木が急速に芽吹いては花ひらき、散り去って、枯れ衰えるのを繰り返す。

 女神の力は、破壊と再生、命の円環であり、つらなりだ。

 かさねの周囲で命の円環を繰り返していた草木は、ふっと吐息に力をこめると、黄泉の死地を一瞬にして草原に変え、また花を散らせた。

 異変にきづいたらしい、前の大地女神の残滓である影たちが、花の下から、ぽこ、ぽこ、と蛇の頭を出す。


『あれれ、あれ』

『なにやらほどけてしまう』

『ほどけてしまう。これは異じゃ』

『これは異』


 はじめにかさねが見つけたときよりも、だいぶ影が薄くなっていた蛇たちは、次々咲く花にまぎれ、散らばり、ついには花そのものに転じてしまう。

 手を組み合わせたかさねの額に、玉の汗が浮かびだす。イチの言うとおり、新たな器に己の力を流し込もうとしているのだが、力はかさねのうちからあふれてあふれて、とどまることがない。そのうちあっという間に器がいっぱいになって壊れてしまい、また作り直すのを繰り返す。

 湧き上がる熱の奔流をとどめておけなくなり、かさねは思わずかぶりを振った。瞬間、編み上げていたものが耐えきれなくなったように弾ける。


「で、できぬ……」


 焦りと不安で涙がこみあげてくる。

 すん、としゃくりあげるかさねの手をイチはそっと両手で包んだ。静かに目を閉じて、イチは祈っている、ようだった。かさねとはちがって、いまは何の力も持たないただびとでしかないけれど、それでもイチはかさねのために祈ってくれている。それは常闇に生まれた灯火のように、かさねの胸のうちを照らしていった。

 

(はんぶん)


 ふいに、そんな言葉がかさねの胸をよぎる。

 ずっと、はんぶんをイチは抱えてくれた。

 かさねのはんぶん。苦しいこともかなしいことも。

 

(イチはすごい)


 長い旅のあいだ、イチが抱えてくれたはんぶんは、どれほどかさねをすくっただろう。天帝の花嫁のさだめを知ったとき。ひよりの末路をまのあたりにして、震えることしかできなかったとき。ひととしての身体をじょじょに失っていったさいごの旅の途中。進むべき道に迷い、途方に暮れそうなるかさねに、イチはいつも灯火を掲げ続けてくれた。そしていまも。

 かさねはイチの手に額をくっつけて目を瞑った。

 かさねの足元から緑があふれて、あふれて、噎せかえるようにあふれていく。千も万もの花がひらいては散り去り、また芽吹いてひらく。何千、何万回も命の円環を繰り返したのち、あふれる力の奔流がひとつに収束していくのを感じた。

 ひよ、ひよ、とつたない足取りが聞こえてきて、かさねは薄く目をひらく。


「――……んん?」

 

 このふわふわの羽毛を持つ、頬ずりをしたくなるような可憐なすがたには見覚えがある。かさねは目の前にいる男と足元の雛を見比べ、「んんん?」と顔をしかめた。


「何やら思ったよりもかわいいものが生まれてしまった気が……」


 つぶやいたかさねに、遅れて目をひらいたイチが「なんだこれ」と眉根を寄せる。


「『玉』がなんで雛になってるんだ」

「生み出すとき、イチのことを考えていたら! 何やらあのときの雛になってしもうた……」

「本当に、これが女神の依り代なんだろうな……?」


 かさねは、ひよ、ひよ、とこちらに近づいてくる雛鳥の頭にそっと指を置く。刹那、ふるっと身をふるわせた雛のすがたがかゆらぎ、無数のひかりの羽が舞った。

 ひとひらひとひらに女神の力を宿した羽は、四方に散らばるや、黄泉の地に吸い込まれていく。まるで、ひかりの雨だった。羽の乱舞を呆けた顔で見上げていたかさねに、再び地中から頭を出した半透明の蛇たちが「はよ行け」「女神、はよ行け」と口々に繰り返す。


「ふりむいてはならん」

「ふりむいてはならんぞ」

「ふりむくと、道を見失うゆえな」

「はよ行け。……ついぞ」


「ついぞ、ここから出られなかったわたくしの代わりに」


 かさね、と先に立ち上がったイチが、かさねの腕をつかんで引き立たせる。

 口々に何かを言い合いながらかさねを見つめていた蛇たちは、ひかりの雨に打たれると、端から霧のように消えていった。それをさいごまで見届けるまえに、「走るぞ」とイチが言う。


「おまえは女神の力を手放した。俺たちはこの場所からすると、ただの『よそもの』になったってことだ。道が完全に閉じて取りこまれる前に出るぞ」

「う、うむ!」


 閉じていた帳がめくれるように、暗闇に細長く伸びる道が現れる。

 大小の鍾乳石が上からも下からも突き出た道は、岩壁の凹凸に青い炎が宿っているおかげで、足元がうかがえる程度にはあかるい。断続的な地揺れを起こし始めた道を、イチに手を引かれながら走る。

 確か以前にもこんなことがあった。黄泉に引きずりこまれたとき、女神の眷属に追いかけられながら、イチとこの道を逃げたのだ。イチがあのときと同じようにかさねを肩に抱え上げようとしたので、「待て待て!」とあわててかさねは身をよじった。


「いつものように俵担ぎをするでない! 蛇どもにも振り向いてはならんと言われたであろ! 肩に担がれると、かさねがいま来たほうを見てしまう!」

「なら、目を瞑っていればいいだろうが」

「いや、そういうものではない気がする。かさねも走る。そなたと走る。だから、そなたも……っすこし、速度を……っ」


 両脚を必死に動かしながらなんとか訴えたかさねに、「おまえはなんでそんなに足が遅いんだ」とイチがじれた風につぶやく。


「そなたがはやすぎるのでは!?」

「これくらい、ふつうだろ」

「地上から天都まで駆け上がれる男をふつうとは言わん」


 言い返していると、小さく息をつき、イチがかさねの手をつかんだ。そのまま引っ張られるようにして、果てしなく続く出口の見えない道を走る。

 前のように追いかける者こそいなかったが、黄泉路は小刻みに震動を繰り返し、上下から伸びた鍾乳石が折れたり、崩れたりするせいで、足元がおぼつかない。危うく転びかけたかさねの腕をイチが引き上げた。礼を言う代わりに、ふふん、とかさねは笑みを返してやる。


「こんなところまでやってくるなんて、そなた、かさねが大っ好きよのう!」

「おまえが女神なんかになったせいで、俺がどれだけ苦労したと思ってるんだ。あれだけ女神にならないと言っていたくせに、最後の最後で手のひら返しやがって」

「そうじゃな。……かさねがいなくなって泣いてしまった?」

「おまえが鼻水垂らしたほどじゃない」

「ふん。そなたなど、別れ際にはかさねにぎゅっとしがみついて、ほんにかわいらしかった!」

「眠っている間は、おまえもだいぶしおらしかったぞ」

「ええい、死体の話をするでない! そなたがかように馬鹿な真似をするとは思わなかったのだ」

「あいたかったからな」


 ふいにやわく打ち返された応酬にかさねは瞬きをした。

 はずみに足がもつれ、イチを巻きこんで倒れこむ。倒れた先に、ひかりが近づく。ひかり。日輪のひかり――……


 吐き出されるように洞穴から転がり出ると、草を食んでいた野うさぎたちが驚いて、木立の裏に逃げ去った。セワの生い茂った葉がつくる天蓋から、穏やかな春のひかりが射している。白い花が咲く草原の、まだらに落ちた陽だまりのうえに、イチとかさねは転がっていた。


「外に出られた、のか?」


 背に回されていたイチの腕から抜け出し、かさねはつぶやく。

 もうずいぶん長いこと、外の世界から切り離されていた気がする。

 木々のざわめき。土のにおい。風のそよぐ音。なつかしいものたちに目を細めて、かさねは深く息を吸いこんだ。同じように身を起こしたイチを振り返り、「さんざんな旅だったな」と苦笑する。


「天都に海に孤島、最後は黄泉ときたか。そなたとかさねは、どこでもだいたい命がけよのう」

「今回ばかりはさすがに疲れた。莵道ウジまではのんびり帰るか」


 話しているさなかに、金の粒子がイチの目元から舞う。かゆらぎ、大気に消えゆく。

 まるで役目を終えたかのように、その両目から恩寵の金は消えていた。

 生来の色である灰の眸にこちらのすがたを映して、かさね、とイチが呼ぶ。やさしい声だった。かしこまった心地でイチのまえにすとんと腰を下ろすと、イチの手がかさねの両手を取り上げて包む。額と額がこつんとあたったので、かさねはそのぬくもりをたどるように目を伏せた。


かさね


 ひらり、と閉じた瞼の裏にひかりが射す。

 

「あのときの答えを言っていいか」


 旅のはじまりは、北果ての地だった。

 雪のちらつき始めた墓の前で、見つけ出した男を捕まえてかさねは迫った。

 ――そなたが選ぶ道はふたつきり。

 ここでかさねに盗まれるか、今すぐ恋に落ちるかだ。

 そのときのことを思い出して、かさねは微笑む。

 

「『どうする、イチ?』」

「隣にいてくれ、ずっと」


 短く告げられた言葉の熱を噛みしめる。

 あと少しこらえていようと思ったけれど、もう我慢できなかった。男の胸に勢いよく飛びこんで、かさねは相好を崩す。


「もちろんだとも!!!」



 ・

 ・



 ――こういうわけで、黄泉にはいま、女神はおらぬ。

 女神に恋した人間の男が盗み出してしまったゆえな。


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