十章 白兎と金烏(2)
かつてデイキ島で漂流旅神を見つけ出し、口づけをして力を分け与えたかさねに、かの神は言った。いつか、もっとも非力なすがたで地上に転生した自分のまえに神器を持ってやってこい。さすれば必ずそなたをすくってやろうと。
神とひとが交わした約束は強い力を持つ。覚えていないとは言わせない。
「あんたは言った。神器は神の力を宿せるとくべつな依り代で、それを用いれば、花嫁の力を移すこともできるのだと」
「移すって、でもあんた、あの子はもう……」
紗弓は複雑そうな表情で、足元に目を落とす。
大地女神に転じ、かさねは黄泉に落ちた。たとえ神器があっても、かさねがいなければ、力の移しようがない。
「確かに、それは難しかろう」
厳かな声が紗弓が腕に抱いた産着のなかから上がる。
あどけない顔立ちをした赤子はぱっちり目をひらき、イチを見つめていた。銀色をしたその目には、赤子らしからぬ思慮深さが宿っている。デイキ島でつかの間まみえた神とおなじ眸の色だった。紗弓の胎を借り、転生を果たした漂流旅神。
「かつてまみえたとき、かの乙女はまだ女神に転じるまえの人身だった。しかしいまや、大地女神の力すべてを継承してしまっている。すべてを移すのは、ただの神器では難しかろう。それに女神として転じたときには、乙女はひととしての死を迎えてしまっていたのだよ」
「あいつの息吹ならここにある」
イチは胸にしまっていた口琴の紐をたぐり寄せた。それは別れるまぎわにかさねから御守りとして渡されたもので、自分の息吹をこめたと言っていた。いまだ微かな熱を残したそれを手のうえにのせると、雪花にも似た白銀の粒子がはらはらと舞う。
「何か方法はないのか」
まだ赤子の神に、イチはそれでもすがった。
天帝が降り立ち、イチの魂が身体から弾き出されてしまったとき、かさねはあきらめないで手を伸ばし続けてくれた。本当はあのとき途切れるはずだったイチの道を、かさねの手がたぐりよせて、つないでくれたのだ。
イチはさいごに見たかさねの泣き顔が目に焼きついて離れない。子どものように泣きじゃくりながら、さいごは途方に暮れた顔でわらった。抱きしめたかったのに、あと一歩、手が届かなかった。どうしてあのまま終わりにできるだろう。
「天のすえの子よ」
漂流旅神はおごそかにイチに呼びかけた。
「すくうべき乙女はここにはもういない。代わりにそなたの望みを訊こう。わたしに何を願う?」
ねがい。
イチのねがい。
ずっと壱烏というひかりに隠れて見えなかった、ただのイチ自身の。
「俺はあいつに会いたい。もう一度」
漂流旅神は銀の眸をぱちりと閉じた。
「そなたの『ねがい』、確かに聞いた」
赤子の小さな両手が、イチの手を握りしめる。イチの手のなかにあった口琴が銀のひかりを帯びて輝きはじめた。
「わたしの命数を分けてやった。その息吹は確かに乙女の命となるだろう。――そして、もうひとつ」
何かに想いをめぐらせるように、赤子は間をとる。
「神器についてだ。一度死して、黄泉を旅していて、きづいたことがある。大地女神が持つはずの最後の神器『玉』。……しかし、黄泉のどこにもなかったのだ、『玉』は」
「ない……?」
「より正確に言えば、女神が落としてしまったというべきか。『玉』は女神の宝。女神が執着し続けたひとの心――ひよりの魂を宿している。そなたはその行方に心当たりがあるのではないか?」
漂流旅神の言葉に、イチは軽く目を瞠らせる。
かつて、大地女神が治める黄泉へと迷い込んだとき、イチとかさねは千年前の世界に飛ばされ、女神の宝を探す旅をした。ひよりから一度は譲り受けたものの、途中で大地将軍・燐圭に奪われ、そして――……。
「まさか、あれが『玉』だったとでもいうのか?」
「そなたとて、神器のひとつだろう。あれは流転し、移ろいゆくもの。何もおかしくはない。――よいか、天のすえの子よ。『玉』だ。『玉』を見つけて、女神の力を譲り渡せ。ほかの神器では叶わない、女神が心を分けた『玉』だけが女神の力のとくべつな依り代となりうるのだ」
わかった、とイチは顎を引く。
漂流旅神のはなしは思いがけないものではあったが、暗い海を照らす灯台のように、イチの道行きにひかりを灯してくれた。
「そなたらが再びまみえることを祈っておるぞ。ひとの子らよ……」
イチの手を握っていたちいさな五指が急に力を失う。両手を下ろしてしまうと、赤子は紗弓の腕にことんと頭を預けて眠り始めた。寝息を立てる赤子を抱き直しながら、「まだ身体のほうは赤子なのよね」と紗弓は肩をすくめる。
「話せる時間が限られているの。もうすこし大きくなったら、ちがうんでしょうけど……」
「己の命数を分けた、と言っていたな」
つぶやいたイチに、「心配することじゃないわ」とあっけらかんと紗弓が笑う。
「龍の胎から生まれた子よ。ひとよりもだいぶ寿命が長いわ。すこしくらい分け与えたところで何てことはない。それよりも、あんたは自分の心配をしなさいよ。この子、言うだけ言って眠っちゃったけど、そもそも黄泉に行く方法なんてあるの?」
「それについては問題ない」
イチは口琴を胸元にしまいなおして、地都のある方角を見つめる。
「先達がいるはずだ」
*
漂流旅神と紗弓を見送って早々、旅支度をはじめたイチを、ヒトたちは快く手伝ってくれた。ヒトをはじめとした子どもたちはデイキ島の一件で旅をともにした数が預かっており、イチもまた碧水に訪れてからは数の家に居候として置かせてもらっていた。一日の大半を海が見える樹上で過ごして紗弓の来訪を待っていたので、実際にあてがわれた部屋を使ったことはほとんどなかったが。
「き、気を付けてね、イチ……。断崖絶壁を見ても、飛び込むんじゃないよ……」
世を儚んで身投げしたうえ、デイキ島にたどりついた数からは、やたらと実感がこもった忠言が寄せられる。草鞋の紐を結ぶイチのまわりに集まった童たちが、にぎりめしや数の部屋から勝手に拝借した金品を持たせてくれた。
「しっかりね」
「またお熱を出すまで走っちゃだめよ」
「イチ」
最後にヒトが布切れを縫い合わせてつくった小さな袋を差し出した。
「御守り。うさぎの姫さまと無事に帰ってこれますように」
「ありがとう、ヒト」
くしゃくしゃとヒトの頭をかきまわすと、フタとミィも頭をつき出してきたので、まとめて撫でてやった。草鞋を結び終えると、大小の振り分け行李を肩にかけ、護身用の太刀を腰にさす。
「世話になった。じゃあな」
家の外まで見送りに出てきたヒトたちと数が「気をつけて!」と手を振る。道が折れるまでずっと手を振り続けていたヒトたちに軽く笑い、イチはうす紅に染まった春の山々を見渡して、また歩き出す。
旅に出る。イチがひとりでする、これがさいごの旅だ。




