九章 女神のねむり(1)
曇天から一条のひかりが射す。
それは天に差し出したかさねの腕を照らし、やがてかさねそのものをひかりの帳のうちへといざなう。透明な帳がたなびき、深い息吹にも似た風が吹き抜けた。しん、と研ぎ澄まされた静寂が訪れる。空に走っていた稲妻は消え、大地の咆哮もおさまる。道が、ひらかれていく。
直後、何かが切り替わったように、かさねはまっしろな地平にたたずんでいた。
さらりん、からりん、と微かに水の流れる音が聞こえる。足元には白い玉砂利が敷かれ、その隙間を縫うように水滴がくっついたり離れたりしながら流れていく。
漠々とした果てのないその場所には、澄んだ気が満ちていた。
かつて天帝がひよりの輿入れのためにひらいた花嫁の案内道。うつくしくきよらげなその道のうえで、かさねと大蛇は向かい合う。
黒い靄が凝り固まったかのような巨大な蛇身の頭部に、かさねの背丈と変わらぬ大きさの硝子質の目玉がおさまっている。がらんどうだが、何かを乞う鋭さを宿した目でもあった。
「やっとこちらを見たな」
口端を上げ、かさねは鼻先まで近づいた大蛇に両手を伸ばす。
動かせなかったはずの己の手足がなぜか自由に動くことにかさねはきづいた。ひよりと時のはざまで会話をしたときに似ていた。おそらくかさねは、いま魂だけの存在として大地女神に向き合っているのだ。
「そなたの苦しみもかなしみも、すべてかさねが引き継ごう。ねむれ、大地女神よ。あとはかさねが引き受ける」
かさねの言葉が通じたのか、大蛇ががばりと口をあけて牙を剥く。
その首に腕を伸ばして抱きしめた。黒い靄に手が触れた瞬間、巨大な大蛇の身体が砂城のように崩れ去る。散らばった大蛇の無数の欠片は白い炎に転じ、かさねの身体を燃え上がらせる。火と熱と千年の怨嗟が、かさねのちいさな身体をかけめぐった。
――ゆるさぬ、ゆるさぬ、ゆるさぬゆるさぬ、わたくしを地に落とした神! 天帝! 憎きあの神を地の底へとつきおとせ!!
「……そうじゃな、ひとりはさびしかったな」
己の身を抱きしめるようにしてつぶやいたかさねの目から、血の涙が伝う。体内をかけめぐった火と熱が内側から皮膚を突き破ったせいで、かさねの身体のあちこちが裂けて、血が流れだしていた。一度に大量の血を失った身体がつめたく重くなっていく。けれど、かさねは膝をつかなかった。
「そなたの恨みつらみは、あとでかさねが聞いてやろう。なあに、時間ならたっぷりある。安心せい。ともにいてやるから」
ぼろぼろになった己の身体に手をあて、傷を塞いでいく。すべてを自分で治してしまうと、かさねはとめどなく頬を伝っていた赤い涙を拭った。もうすこし大蛇の声に耳を傾けてやりたかったが、いまは時間がない。
おとがいを上げると、かさねは一度拍手を打った。
まっしろな空間がかき消え、隆起した大地が土煙を上げる下界へと戻る。
咽喉から胸へと抜けていく呼吸が、これまでと変わっていることにかさねはきづいた。莵道をひらくまえはほとんど動かせなくなっていた身体が軽い。四肢に力がみなぎり、ふさがっていた右目も、視界の精彩を取り戻す。かさねは後ろでくくった髪を鳥の尾羽のように振って、ぴょんと岩のうえにのぼると、山頂に留まる金の烏を見据えた。
「さぁ、話をしようぞ、天帝。ここに新しい大地女神がおるぞ!」
みたび――。
みたび莵道をひらいたことで継承は果たされ、かさねは「ひと」ではなくなった。
古き女神から新しき女神に力が譲られ、代替わりがなされたのである。
かさねが大地を踏むと、その足元から草木がみるまに芽吹いて蔓を伸ばし、ぽん、ぽんとちいさな花を咲かせる。
山頂で金の鳥が両翼を広げる。
天を切り裂く稲妻が、かさねが立つ嶺の先端に落とされた。ぶつかる寸前で右手でそれを払い、かさねはそれた稲妻があけた大穴を振り返る。もし、ただびとの身で受けたら、一瞬で丸焦げになっていただろう。
「あくまで力をぶつけるか……」
息をつき、かさねは咎めるような目をしてこちらを見つめる天帝に苦笑する。
千年前、ひよりは天の一族の祖となる赤子を産み落としたのち、大地女神に転じて地に落ちた。神の恩寵を宿す金目を持つ子どもは、神とひとの誓約のあかしでもある。
手順を踏まず、勝手に女神になったかさねに、天帝はひどく腹を立てているらしい。それはそなたが前妻である大地女神と盛大な夫婦喧嘩をしていたためなのだが、とかさねは思ったが、天帝の怒りは鎮まらない。千年も待ちわびたのに、こんな仕打ちをするなどあんまりだ、という目をしている。天帝のあらぶる心をあらわすように、厚く覆われた雲の奥では雷鳴が轟いていた。
「まあよい。天地もだいぶ、しっちゃかめっちゃかになってしもうたし、一度掃除をしよう」
独語すると、かさねは胸のまえで二度拍手を打つ。
澱みをなぎはらうようなその音に応じて、黄泉とつながっていた裂け目がパン!と閉じ、落ちかけていたひとや生きものが吐き出される。
「っと、余計なものを置き去りにしていた。やり直し」
もう一度、裂け目をこじあけると、大地にあふれかえっていた魑魅魍魎をぐんぐん吸い込んで、きれいに「掃除」をしてしまう。すべてを吸い込み終えると、「えいっ」と声をかけ、また裂け目をパタン!と閉じた。
「次はめちゃくちゃにつながってしまった四道じゃ」
かさねが透明な網をたぐり寄せるように手を引くと、綻びかけていた地道がいっせいに隆起する。だが、一部が天道、神道とまじりあっていたため、天地にひずみが生じてしまう。ううむ、と考え込んでから、かさねはたぐり寄せていた網をぱっと離した。
「繕いもののは苦手ゆえ、一度壊して生む!」
地道に行き渡らせていた女神の守りをかさねが解くと、互いに侵食しあっていた地道、天道、神道がぐるぐると混ざりはじめる。己の領分である天道と神道を勝手につくりかえられていることが不満らしい。やめよ、とばかりに山頂で天帝がひと鳴きした。無数の稲妻が天上でほとばしる。
「邪魔をするか、天帝。が、そなたの新しい妻はてごわいぞ!」
一直線に走る稲妻を、かさねはついと花の舞う風で散らす。
天と地を司る二神の力は拮抗していた。
ふたつの力がぶつかりあうたび、山々から炎が噴き上がり、川の水があふれて灰を流し、そうして幾度も幾度も、女神と天帝は果てのない攻防を繰り返す。この世界を分けていた道がほどけ、境界が敷き直されていく。
何度、衝突を果たしただろうか。
山頂から飛び立った巨大な鳥が、かさねめがけて降りてくる。
眼前に迫るひかりの塊からかさねは逃げなかった。かさねの身体をひかりの塊が貫く。異なるふたつの力がぶつかり、熱とひかりを放射しながら互いに吸い込まれていき、そしてしずまった。
金の鳥がはたりと失った片翼をたたみ、かさねもその場にくずれ落ちる。
長いあいだ、空を覆っていた厚い雲がなぎはらわれ、澄んだ青空が広がっていた。空に舞い戻った日輪が、草木が芽吹く大地を照らす。灰まじりの雨は止み、噴煙をあげていた山々は己のうちにくすぶっていた膿を出し終えたように、伸びやかに居住まいをただした。
破壊された四道の代わりに、天地にはあらたなふたつの道が生まれていた。
生まれたばかりの道には、陽のにおいのする風がさらさらと吹いている。額に浮かんだ汗を拭って、かさねは息を吐いた。
「ついに天地創造をしてしまったわ……。さすがかさね」
つぶやいて立ち上がろうとすると、太腿から下がどちらも欠損していることにきづく。道理で立てないわけだ。
「さぁ、あらためて話をしよう、天帝」
欠損した両脚を己の吐息ひとつで繕うと、かさねはそばで羽を休める金の烏に語りかけた。
「千年ぶりの誓約を結び直そうではないか」




