七章、くちづけ(2)
「先ぶれ……?」
聞き返したかさねに、「あぁ、そうだ」と先ぶれと名乗った男はうなずく。
「天帝のめざめを告げるもの。告げたあとの務めはもうないから、ここでこうして、昼寝などをしている」
のんびりとあくびをして、男は銀鈴を結んだ杖を持ち直すと、祭壇のきざはしに腰掛けた。男のようすはつかみどころがなく、嘘を騙っているようにも、素直に思うことを口にしているだけのようにも見える。
けれど、失ったかさねの右目が言っていた。これは人間の男ではない。旅装をして身をやつしているが、男の内側から放たれる清浄な気は神々のものだ。だからこそ、余計に思惑が見えない。
「そなたは次の大地女神だね」
眠たげな目がかさねをじっと見つめた。
「しかし天帝ではなく、器になった男のほうを愛している」
「かさねの邪魔をする気か?」
「そうぴりぴりしないでおくれ。わたしは本当に、先ぶれをするだけのものなんだ。千年に一度の役目をつつがなく終えて、ゆっくり休んでいた」
「それなら、何も言わずにかさねを通してほしい。かさねはその祭壇に鎮座しているものに用があるだけなのじゃ」
「その『鏡』に?」
男は意味深に薄い口端を上げる。
祭壇に置かれた鏡が神器であると見通している口ぶりだった。
神器たる「鏡」を盗んで、イチを映し出せば、天帝はもとのすがたをあきらかにして、イチの身体から離れ去る。イチを助けることはできるが、ひとの身でかさねと交わろうとする天帝の意には背いてしまう。止めるだろうか、と身構えたかさねに、けれど先ぶれの神はあっさりと道を譲った。
「どうぞ。好きにするといい」
肩透かしを食らった気分になり、かさねは眉をひそめる。
「そなた、よいのか?」
「先ぶれをするだけと言っただろう。わたしはね、天帝が降りる『剣』を誰よりも早く見つける。千年前もそうだった。鍛冶師の一族が、天帝が生まれたことを寿いでつくった三つの神器――『剣』『鏡』『玉』。それらは完成した瞬間に流転し、天地に散らばった。わたしはほかの誰よりも早く下界に降り立ち、『剣』が転生した男を見つけ出して、先ぶれを告げた。君も一度見ただろう。ひよりが嫁いだときに、天帝が宿っていたあの男だよ。あのときの『剣』は天帝が離れたとたん、崩れ去ってしまったね。たぶん身体はもう、とっくに耐えかねていたんだ」
「崩れ去る……」
かさねはみるみる顔を蒼白にする。
先ぶれの神は、まるでこれからイチにも同じことが起こると言いたげだ。
「つまり、鏡に映したとたん、イチの身体は……」
深刻な顔でつぶやいたかさねに、先ぶれの神はぱちくりと目を瞬かせた。
「なあに、心配することはないさ」と肩に立てかけた杖をゆっくりと振る。杖の先端に結ばれた銀の鈴が、リン、と澄んだ音を立てた。鈴の音に呼応するかのように、露に濡れた緑の木々に囲まれた社に、きよらげな風が吹き抜けていく。
「あれには、わたしがシルシをつけた」
「シルシ?」
「そう、ここにね」
己の平たい額を示して、先ぶれの神は微笑む。
「恩寵を与えた。見つけたとき、あの子どもはあろうことか、わたしに死を乞うたんだ。だから、一度ぶんは死なない恩寵を与えた。天帝が降りる前に死なれても、また見つけるのが面倒であるし……。それにあれの片割れが先にわたしを見つけて、イチを死なせないで、と頼んだから」
「何故そのような……」
あまりに軽々しく明かされた言葉の重みに、かさねのほうがおののく。
なぜ、と繰り返し、先ぶれの神は首を傾げた。
「ほかにすることがなかったからだろうか」
「いや、することって。そなたな」
「わたしをはじめて見つけて祈ったのがあの子どもだったからかもしれぬ。まあ、よいではないか。願いのひとつ。祈りのひとつ。好きに叶えてもよかろう」
何ということはない風にのたまう先ぶれの神に、かさねは呆れた。
こんな適当な神がいてよいものか、と天を仰ぎたくなるものの、よく考えると、天帝も大地女神も、森羅万象それぞれの事情などはさておいて、だいぶ好き勝手やっている気がする。
話のさなかにひとつ思い出すことがあり、「もしかして」とかさねは尋ねた。
「イチの魂を身体から引き剥がしてぽいっと捨てたのもそなたか……!?」
「あぁ。そういえば、あれはどこへやったんだろう?」
今さら思い出したような顔をする先ぶれの神を揺さぶりたい気分になり、「ここじゃ!」とかさねは自分の腹を叩いた。
「ここにおる! そなたがぽいっとそのへんに捨てたせいで見つけるのが大変だったのだからな!」
「そう言われても。引き剥がしたはいいが、どうしたらよいかわからなくなったのだ」
「……そなたに感謝をすればよいのか、怒ればいいのか、かさねにももうわからぬわ……」
かつて樹木老神・星和は、先ぶれの神のふるまいを指して、思惑も代償もわからないと評していたが、実際に話をしていると、ただ気が向いたからイチを助けただけのようにも思える。
「おもしろかったからな」
もとより細い目をさらに細めて、先ぶれの神は肩をすくめた。
「死にたいと願っていた子どもが、今度は消えたくないという。まあ、死にたいのほうは叶えなかったから、帳尻あわせというやつさ。神は、平等にふるまうものだろう?」
それがもはや平等に価するのかかさねにはわからなかったが、先ぶれの神の中では理屈が通っているのだろう。疲れたようすであくびをまたひとつすると、「話は終わりだろうか」と先ぶれの神が尋ねた。
「ああ、長く邪魔をしてわるかった。かさねは鏡を取り上げたら去るゆえ――」
話の途中で、先ぶれの神は肩をかくんと揺らした。きざはしに腰掛けたままだが、また眠り始めてしまったようだ。
「なにやら不思議な御仁でしたね」
先ぶれの神と対峙するあいだ、かさねの足に隠れるようにしていた朧が、そっと鼻づらを出してつぶやいた。「何故隠れるのじゃ」と呆れた風につぶやくと、「我々地神と天の神とでは格がちがいます」と恐ろしげに首を振られた。
「死なずの恩寵など、我々にはとても与えられるものではありません」
「死なず……か」
詳しくを語らないうちに眠りについてしまったが、おそらく言葉のとおり、一度ぶんの命を余計に与えたというだけで、老いや治癒とは関係がないのだろう。実際、イチは年を重ねていたし、傷つけば血を流す。それに。
「並の太刀ならともかく、女神の力を宿した――燐圭の太刀で斬られれば、さすがに無事ではすむまい」
「おそらくは」
「長話をしてしまった。急ごう、朧。天帝と燐圭の勝負がついてしまう前に」
眠る先ぶれの神の脇を通って祭壇をのぼり、かさねは御簾をめくった。
水を凝り固めたかのような、かさねの手のひらほどの鏡があらわれる。
万物の「まことのすがた」を映すという神器である。触れたとき、鏡は雨滴がひとつ落ちたようにまるい波紋を描いて、かさねのすがたを映した。
微かに目をみひらき、かさねは苦笑する。
「これが今のかさね……か」
かさねの手の中で、鏡は幾重もの波紋を描いて揺らめき、やがてしずまった。
胸に引き寄せたそれを懐にしまうと、「行こう、朧」とかさねは足にまとわりつく銀灰色の狐に声をかける。それから、眠る先ぶれの神の杖に留まる小鳥を振り返った。
「すまぬ、小鳥。そなたは連れていけぬ。かさねたちが向かうのは、天帝と燐圭が争う戦場ゆえな」
傷ついた小鳥を残していくのは、心配だった。
すこし考えてから、手のうえにのせた小鳥に、かさねはふっと息吹をかける。折れた片翼がみるみる治っていく。ぎこちなく翼を動かした小鳥に頬擦りして、かさねは目を伏せた。
「そなたの大事な孔雀姫をたすけることも、今はできない。そなたらはかさねをたすけてくれたのに……。すまぬな」
「いいえ。姫はかさねさまの力になるようにと言いました。その命を果たせて、誇らしく思っています」
「ありがとう。孔雀姫にもそう伝えてくれ」
手に包んだ小鳥を先ぶれの神の膝元に戻すと、かさねは立ち上がった。
背後では、巨大な山犬ほどの大きさに転じた朧がかさねを待っている。
ふいに社に灯されていた千はあろう炎が、ごう、といっせいに燃え上がった。天帝のために焚かれる灯りは、天帝自身にもつながっている。かの神の身になにか異変が起きたのだ。
(よもや、燐圭の太刀が天帝に届こうとしているのかもしれない。あるいはその逆か)
火花を散らしながら駆け抜けた風が、かさねの髪を鞭のように揺らす。風の行き先を静かに見据え、「戻るぞ、朧」とかさねはその背に飛び乗った。




