四章、大地将軍(3)
商隊の護衛は大地将軍の一隊が引き継ぐことになった。死者こそ出さずに済んだものの、山犬様の襲撃で怪我をした者が多かったし、将軍自身が「どうせ、俺の屋敷に運ぶものだから」と気安く請け負ったためだ。結局半分の銀五粒を報酬にもらって、かさねとイチは商隊を離れることになった。
「イチ」
朝靄の中、細くたなびく煙を仰ぎ、かさねはその前に立つ青年を呼んだ。死んだ山犬たちはぞんざいに積まれて、大地将軍の兵によって火にかけられた。火は長いことくすぶっていたが、そのうち消えて、今はもう焦げた骨がいくつか残るばかりだ。山犬の毛皮は大地将軍の兵士たちがへずって持ち去り、櫃とともに地都に運ばれるらしい。
契りを違えたひとへの報復に、山犬は牙を剥いた。ひとは山犬の首を狩ることでその場をおさめた。
(悪いのはいったいどちらだったのだろう……)
晴れない靄は、かさねの胸にかかったままだ。
「イチ?」
かがんだイチが何かを唱えて、焼いたセワの木片を置く。立ち上がると、イチは何も言わずにきびすを返してしまったので、かさねはひとり折り重なった山犬たちの骸を見た。
――セワの木片から作る香には、魂を天上に運ぶ効能があるらしい。
昔亜子に教えてもらったことを思い出して、かさねは瞬きをする。
(イチは弔いをしていた)
思い当たったとたん、せつなさにも似た気持ちが胸を突き上げた。
(弔いを、していた)
まるでわからなかった男の輪郭をその一瞬だけはつかめた気がした。かさねの都合のよい勘違いかもしれないけれど、イチは次もその次も自分のために刀を抜くのだろうけれど、それでも。イチと同様に、黒焦げた骨の前でひとしきり祈りを捧げ、かさねは身を翻す。
「――そういえば、『こ』がいなくなってしまったのじゃ」
前を歩くイチの袖を引いて、かさねは呟く。あのとき、背に庇っていたはずの『こ』はいつの間にか消え失せ、残った人足や護衛たちの間を探しても、その姿はついぞ見つからなかった。『こ』が父親だと指差した男に尋ねてみたが、当惑気味に童子などは連れて来なかったと首を振る。かさねにしてみれば、狐につままれた気分だ。
「ああ、あの蚕」
「かいこ?」
「蚕神だよ、あれは。織の里の古い守り神だ。里からついてきたんだろ」
「えええええっ」
あの喋るのが得意でない童子がか、とかさねは目を丸くする。ただの童子だと思って、抱きついたり引っ張ったり、好き勝手やってしまった。むうと唸って、かさねは山犬が斬られたあのとき、背後からかぶせられた白絹の衣に目を落とす。絹の衣は血の瘴気からつかの間かさねを守ってくれた。
「そうか。……そうか、そなた」
呟いて、かさねは衣を抱き締める。遠目に、樹の間をひらりと翻る桑の葉色の水干が見えた。されど、次の瞬間にはそれはうたかたのごとく消え、ただ近くの樹にしがみつく薄緑をした繭だけが今は風に揺れている。
*
「戻ったぞ」
ふた月に渡る東征から戻ると、地都はすっかり夏の装いだった。ヒルガオの開いた庭を横目に大股で屋敷の廊下を渡り、大地将軍・燐圭は腰にぶら下げた刀を外して置いた。
「おかえりなさいませ」
迎えた女が冷や水を差し出す。山犬の血で火照った身体に清涼な水が沁み渡る。燐圭は深く息をついて、椅子の背に身体をもたせた。
「かの君がお呼びのようですが、どうされますか」
「すぐ行く。私も報告する旨があるゆえな」
長旅で疲れているはずなのに、燐圭の頭は冴えている。戦場での興奮がなせる業だろう。風通しのよい木綿の単に着替えて、燐圭は屋敷の離れにひとり向かった。
「今戻りました。わが君に置かれましては、ご機嫌うるわしゅう」
香を焚き染めた室内には、若竹を編んだ御簾がかかっている。昼夜問わず灯された蜜蝋にほのかに浮かび上がった男の面は女人のように端正だ。
「壱烏殿下」
呼ばうと、男は品よく顎を引き、扇を開いた。
「そなたも健勝のようで何よりです」
さやかに漏れる声は玲瓏たる鈴の音のようだ。清浄の地で生まれ育った壱烏にとって、地上の空気とは毒にも等しいものらしい。血の瘴気を纏う燐圭は特に不得手であるらしく、話すときは決まって御簾越しであったし、開いた扇で口元を覆うようにした。
燐圭が壱烏皇子と出会ったのは一年前。東の遠征時に本陣に訪ねる者があり、天都から追放された皇子・壱烏であると語った。愉快に思って話を聞けば、壱烏は自分を追放した天都をひどく恨んでおり、大地将軍を見込んで話を持ちかけたと言った。
『わたしはわたしを地に落とした天都に復讐がしたい』
壱烏の望みは、いずれ天帝を弑し、すべての地神を駆逐しようと目論む燐圭の野心と合致した。加えて、天帝を戴き、地神狩りにたびたび口を挟む天都は、燐圭にとっては目の上のたんこぶのような存在で、排する機会を以前から狙っていたのだ。燐圭は東征から戻るや壱烏皇子の名のもとに、天都の機能をすべて地都に譲り渡すよう求めた。挑発である。天都が攻撃でも仕掛けてくれば、うち滅ぼすつもりであったが、どうしてなかなか動かない。こう着状態のまま、一年が過ぎた。
「東の大蛇の討伐ご苦労さまでした。帰路では山犬も斬って捨てたのだとか」
「わたしの荷に卑しく食らいついたのでね。さておき、その折に妙な男に会いました」
「妙な男?」
「夜闇でよく顔は見えなかったが……、黒髪に金目の」
金目、と告げたとたん、御簾越しの相手の空気があからさまに強張った。
「それはまことに?」
「ええ」
「名は名乗っていましたか」
「いえ。すぐに別れてしまいましたので」
答えながら、やはりな、と燐圭は確信する。
この国にまします、あらゆる神々を総べる天帝。天帝に近く、愛されるものほど、その身体は金色を帯びる。天の一族は千年前、天帝が莵道の娘を后に迎えて産み落とさせた子どもの血を引いている。ゆえ、その眸の虹彩は必ず金を帯びるのだという。大地母神と誓いを交わした燐圭だからこそ、知りうる事実である。
天都から地上に降りた天の一族は、壱烏のひとりきり。
そしてこの男は――金のまなこを有さない。
「かの男、ここに連れて参りましょうか」
試すようにうかがえば、懊悩の末に「壱烏皇子」は顎を引いた。




