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白兎と金烏  作者:
終幕 天帝花嫁編
134/164

四章 泥の道(3)

 たどりついた人家はもぬけのからだった。

 近くの山が噴火したときに家を捨てたのだろう。比較的小さな集落には、家財を残したまま、ひとの暮らす気配が途絶えた茅葺屋根の家が点在していた。ひとつひとつ見て回ったが、ひとはおろか、獣一匹見当たらない。

 しかたなく地神を祀る社に挨拶だけを済ませて、家のひとつに上がらせてもらう。雨水を吸った衣と切袴を着替えると、火の絶えた囲炉裏の前で、かさねは葛籠から米と塩、出汁取り用の海藻を取り出した。どれも樹木星医が持たせてくれたものだ。年季の入った大鍋を拝借し、根菜を少し入れただけの雑炊を作る。


「ほれ、かさね手製の雑炊だぞ。たーんと召し上がれ」


 お猪口にイチのぶんの雑炊をよそって差し出すと、床にひらいていた地図から小鳥が頭を上げた。


「何を見ていたのじゃ?」

「このあたり一帯について記した地図だ。山側より平野を行くのがたぶんいいな。この地形なら、川が氾濫する危険も少ない」


 イチは小さな足でてしてしと平らかな野を示した。確かにあまり起伏がなく、体力のないかさねにも歩きやすそうだ。山から離れれば、噴火に伴う落石や獣たちに襲われる危険も減る。


「順調にいけば、十日はかからない。燐圭は地都のそばにとどまって、天都討伐のための兵を集めていると聞く。おそらく追いつけるはずだ」

「しかし正面きって名乗りをあげるのは、さすがに難しいかもしれんのう」

「そのときは俺が中に探りを入れてみる。カムラの居場所さえわかれば、どうにかできるかもしれないだろ」


 何でもないことのように言うイチに、むぅ、とかさねはしかめ面をする。


「なんだよ」


 嘴を突っ込んで雑炊を啄み始めたイチを睨み、「そなたは頼りがいがありすぎてつまらぬ」と唇を尖らせる。動かせるほうの左手で自分のぶんの椀を手に取ると、かさねも汁気の多い雑炊をかきこんだ。


「小さいくせに、結局そなたのほうがかさねを守っているではないか」

「そんなの、いつものことだろ」

「かもしれぬが、ときにはかさねにもそなたを守らせよ。頼りがいのあるかさねを見せつけて、平素との落差とやらで惚れ直させたいではないか!」

「小刀を扱うにも手間取っていた奴がよく言えたな……」


 呆れた風につぶやいたあと、イチは椀に突っ込んでいた嘴を上げる。しばらくためらうようなそぶりを見せてから、なあ、と床にただ力なく置かれているだけのかさねの右手に身体を寄せて問いかける。


「これはもう……治らないのか」

「あぁ……」


 右肩から腕にかけてに目を向け、かさねは苦笑する。


「どうであろ。かさねの身体は一部が女神に転じ始めているそうじゃ。転じた部分は何も感じなくなる。まあ、もしかしたら花嫁の誓約を破棄したら、もとに戻るかもしれない」

「痛むのか」

「今は痛まない。……大丈夫じゃ、イチ。まだ右腕と右目だけだし、ぜんぶが転じてしまうまでには時間がかかる」


 そうか、と呟いたきり、イチは黙ってしまう。

 そうじゃ、と微笑んで、かさねは二杯目の雑炊をよそった。

 イチが沈黙の中で考えていることが、かさねにはわかるような、わからないような気がした。なくしたものについてあれこれ考えてもしかたなかろうに、とかさねは思う。かさねの右腕も右目もなくなってしまったけど、イチは戻ってきたし、両足と左腕はまだきちんとかさねの言うとおりに動く。問題ない、当面は。けれど、イチのほうはあまりそう思えていないようだった。


「今日はかさねとともに寝るか? そのふわふわの身体を抱きしめてやろうか?」


 雛鳥の首のあたりをていていといじっていると、「おまえ前に俺を潰しただろ」とすげない返事が戻ってきた。確かに蝶の姿だったときのイチを潰してぺしゃんこにしたのはかさねなので、言い返せない。


「ふん、あとで泣いても褥に入れてやらんからな。――かさねは外の井戸でちょっと身体を洗ってくる。のぞくでないぞ」

「誰がのぞくかよ」


 憮然とした様子の雛鳥ににんまり笑い、かさねは軒先に立てかけてあった傘を借りて外に出る。灰まじりの雨はまだ降り続いていた。少し離れた場所に、共用井戸が屋根つきでしつらえられている。


「灰のせいで身体がべとべとじゃ……」


 井戸のつるべを使ってくみ上げた水を桶に移す。

 衣をひらき、水に浸した布で身体を拭いていると、微かな地揺れが再び大地を襲った。遠方にある山の頂上付近から黒い煙が噴き上がる。夜闇であっても、なお黒く重々しい噴煙だった。

 

 ――うらめしい。


 先ほど聞こえたのと同じ声が、今度は身体の内側から生じた気がして、かさねは息を詰めた。ほかに音がないからか、さっきよりもずっと鮮明にその声はかさねのうちに反響する。まるでかさね自身の言葉のように。


 ――うらめしや、天帝。

 ――この身を千年、つめたい地の底へ……


「うらめしい……」


 ――う、ら、め、し、い……!!


 布を浸していた桶の水がぶちまけられる。桶を蹴倒してしまったことには、地面に倒れる最中に気付いた。ぬかるみに顔をぶつけてしまい、ふぐ、と呻く。

 膚の表面に浮かび上がった薄紅の痣がぞわぞわと蠢きだし、右の肩口からまた金の粒子がこぼれて舞い始めた。押さえようにも次から次へとこぼれ、それは足元に生えていた草花をどろん、と溶かす。

 まずい、と思った。

 朧を傷つけたときと同じことが起きている。

 このままだと、たぶんまた――……壊す。壊してしまう。

 かさねの意志に反して、女神の力がそこらじゅうを手あたり次第。

 首裏を撫ぜられるような冷たい予感が兆して、かさねは自由が利くほうの手でこぶしを握った。まだだ、と緩くかぶりを振る。まだ、あきらめるな。何かが起きる前からあきらめて、心の手綱を別のものに渡してはならない。


(あのときはどうやって止めた? どうやっておさめたのだったか)


 動く左腕だけを使って地を這っていると、火掻き棒で身体のなかをかき回されるようなあの激痛が襲ってきた。口から血なのか、体液なのかわからないものが吐き出される。腕をついたまま噎せ込んでいると、つと袖端を何か弱い力に引っ張られた。薄く目をあける。小さな雛鳥が袖端を咥えていた。黒い羽が暗闇にぼんやり浮かんで見えた。


「……よいか、イチ」


 引き寄せそうになった手でこぶしを作り、かさねは口端をあげた。


「か、かさねから離れていよ。だいじょうぶ。少し経てば、もどどおりになるから……」


 触れたら、この小鳥も朧のようにどろん、と溶けてしまうだろう。そうしたら、かさねは消えたくなる。自分のぜんぶを女神に投げ捨てたくなってしまう。だから離れていてほしかった。本当にそうしていてほしいのだ。別にかさねは死ぬわけじゃない。どちらかというと、ひとならざるものになるだけだ。

「な?」となんとか笑みを作って、よろけながら立ち上がる。

 水、ということを思い出したのだ。

 朧を傷つけたあの晩も、泉の水を浴びたときに身体の異変はおさまった。とにかく今はこの状態を何とかすることのほうが大事だった。井戸のつるべを引き上げるだけの力はもう残ってないが、少し歩いた場所に確か川が流れていたはずだ。

 たいした距離でもなかったが、何度もつんのめったり、しとど吐いたりしながら、水のにおいがする方向をめざす。かさねが歩いた端から地面は歪み、草木がどろん、と腐り落ちる。泣きたくなってしまって、かさねはかぶりを振った。


 ――もうやめたらどうかえ。

 

 甘い囁きが耳奥でして、かさねは思わず引き攣ったように足を止める。

 

 ――抗うのはやめたらどうかえ。


 それは黄泉で出会った慈悲なき女神の声だった。

 ひよりのなれのはて。そして、ともしたらかさねの。


 ――女神になる。

 ――悠久を生きる。


 無音と常闇だけが広がる地の果て。

 ころころと足元に転がった首をふたつみっつ腕に抱いて、黄泉の女神は口端を吊り上げる。白い布で隠されているせいで顔は見えない。されど、おぞましく残忍だとわかる笑みだった。


 ――恋しいなら、その男も連れていけばよい。

 ――男の首がひとつ。

 ――ひとつ増えるだけ。簡単なこと。


 くすくすくすと羽虫がさざめくような笑い声が耳裏を撫ぜた。

 見えぬはずの赤い唇が吐息をひとつ漏らす。


 ――男のほうだって、それを望んでいる。


「ええい、だまれ! しずまれ!」


 そう深くはない川の水に分け入り、かさねは叫んだ。


「かさねはそなたの言うことは聞かぬ! 聞かぬ!!」


 がむしゃらにこぶしを振り回して、何度も繰り返す。

 そなたの言うことは聞かない。去ね。かさねの前から去ね!!


 ――おや、そうかえ。


 伸び上がった影はあっさり誘惑をやめて、夜気に霧散する。

 ぜい、と息を吐いて、かさねは糸が切れたように浅瀬に座り込んだ。川の水は冷たいはずなのに、しとど汗をかいていた。肩を上下させているうちに、身体の中で蠢いていたものがだいぶしずまっていることに気付く。ただ、もう立ち上がるだけの気力はなかった。岸辺に上半身だけをもたせて横たわる。


(今のは……)

(大地女神……だったのか?)


 女神の声をここまで鮮明に聞いたのははじめてだった。

 これも身体の一部が女神に転じ始めているからだろうか。


(かさねはもうだいぶ、かさねではなくなっている……)


 重たくなった瞼を閉じて、打ち寄せる水の音を聞いていると、指先にぬくい何かが触れたことに気付いた。視線だけをのろのろと動かす。逃したはずの小鳥がかさねの指先にひっそりと身を寄せていた。


「はなれていよというたのに……」


 渇いた咽喉でぼんやり呟いて、かさねはふいに、それまでおぼろげにしか理解できなかったこの小鳥のかなしみに触れてしまう。かさねを見つめる目にかゆらぐかなしみの芯に。決して言葉にはされない心の切れ端に。


(そなたはかさねに壱烏をかさねているのだな)

(そなたの前で弱っていった壱烏を)


 たったひとり、愛した片割れを目の前で失っていくのはいったいどれほどの恐怖だっただろう。かさねだったら耐えられない。けれど、たぶんイチは耐えられないとは言わない。……なぜだろう。男のかなしみの芯に触れたと思ったとき、かさねはずっとずっと、言葉を尽くさねばわからなかった、あまりにも生まれも育ちもちがうこの男の、魂の端に触れた気がした。言葉にはしがたい感情の奔流が駆けめぐり、涙があふれだす。

 それは、見失いかけたかさねの魂の輪郭を伝えてくるような、あたたかな涙だった。

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