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白兎と金烏  作者:
終幕 天帝花嫁編
133/164

四章 泥の道(2)

 短い眠りから目を覚ますと、雨は小降りになっていた。

 日が明るいうちに山をくだろう、とイチが言う。


「ふもとまでおまえの足でもそうかからない。燐圭たちの軍は、ふたつ山を越えた先にいるそうだ」

「そなた、いつのまに……?」

「おまえが寝ているあいだに、ここいらの鳥に聞いた」


 相変わらずこの小鳥ときたら、よく働く。

 さすがよのう、と口端を上げ、かさねはイチを抱え上げて懐に入れた。まだ生乾きだが、しばらく火にあてていたおかげで煤けた衣も先ほどよりはぬくまっていた。編み笠をかぶり、かさねはしとしとと冷たい霧雨がそぼる山道を歩きだす。


「左の道を進もう。そちらのほうが高い樹木が多いおかげで、雨よけになってる」

「それも鳥に聞いたのか」

「ここら一帯を狩場にしているそうだ。あいつらの話だと、十日ほど前から大地に異変が起きているらしい。山が次々噴火して地揺れも続いている。天帝がめざめたことで、地下に住まう大地女神があらぶっているのだと言っていた」

「それほどか……」


 ならば、燐圭が持つ女神の太刀はいったいどうなってしまっているのだろうと、かさねは身震いする。天帝を弑すための力を与えられた太刀は、そばに寄るだけでも、異様な瘴気をまとっていた。今はどれほど醜悪なかたちに転じているのか。

 半日ほどかけてふもとに下りると、里の入り口を示す古鳥居が現れた。

 その先に広がる光景を目にして、これは、とかさねは呻く。人里があったはずの土地は大部分が焼けて、焦土と化していた。


「北側の山のひとつが噴いたんだ。火の河が流れ込んだ」

「さ、里のひとびとは……」

「かさね」


 おそらく数日にわたり火が上がっていただろう田畑は、今は鎮火していた。

 だからこそ、かえって壊れた家屋や灰に埋もれた井戸といったものが目についてしまう。泥濘と化した黒い土の下に何が埋もれているのか、考えると背筋にぞっと悪寒が走った。


「この様子だと、山が噴いたのはもう何日も前だ。おまえが土をひっくり返したって救えない。気になるなら、見ないようにして通り過ぎろ」

「だが、もしかしたらひとが……」

「生きている人間はいない。おまえだってわかってるだろ、かさね」


 イチの言葉に半ば押されるようにして、かさねは焦土と化した田畑を足早に歩く。雨がだいぶ洗い流していたが、ときどき何かが焦げるようなにおいが鼻についた。右目が使えなくなっていてよかったとはじめて思った。両目で見渡すにはあまりにつらい光景である。

 これが大地女神の力だ。

 かさねにも一部が流れ込みつつある力。

 あらぶれば、ひとの命をたやすく奪い、天地を破壊する……。


「かさね」


 知らず足が止まっていたらしい。

 唇を噛んだまま、かさねは震えるこぶしを握って足元を見つめていた。身体から体温が抜け落ちて、蒼褪めているらしいことが自分でもわかる。かさね、ともう一度呼んでから小さく息をついて、雛鳥はかさねに頬ずりした。


「あんたの故郷にドジョウが跳ねる妙な踊りがあるだろ」

「……ドジョウ? ええと、あ、ドジョウな。ドジョウ?」

「ここを通り抜けたら踊ってやるから、余計なことを考えずに、左足と右足を動かせ。できるよな」


 妙なことをイチが言うので、逆に視界を覆っていた重い霧のようなものが、ふっと晴れた。神妙になって顎を引くと、よし、と相手はうなずき返した。


「いや、でもそなた、よく莵道のドジョウ踊りを知っておったな」

「デイキ島でおまえが何度も踊っていたから、覚えた」

「あれは実は子づくりの妙技を秘めていてだな」

「おまえの故郷はそういうものばっかりだな……」


 呆れた風につぶやいていたイチはふと、かさね、と声を鋭くした。


「口に手をあてて息を止めろ。それから、近くの川に飛び込め」

「川? なにゆえ、」

「はやく!」


 ぴしゃりと鞭打つように急かされ、かさねはわけもわからぬまま、なだらかな斜面となった河原を滑り降りる。ひとときためらったすえ、折れた樹や灰の浮かんだ浅瀬に一息に飛び込んだ。冬の川の水は、息が止まるほど冷たい。ひう、と息を詰めて寒さをこらえていると、ちょうどかさねがいたあたりの畦道を何頭かの黒い影が駆けていくのが見えた。

 大きく目を瞠らせ、かさねは口にあてた手に力をこめる。

 数頭の山犬だった。

 灰色の毛並みは汚れ、痩せた身体は骨のかたちが浮き出ている。どうやら土に埋もれた死肉をあさっているようだ。山犬たちの食事の音が響く間、川の中でかさねは息を殺し続ける。山犬たちが「何」を食べているかはあまり考えたくなかった。

 食事を終えた山犬は一声上げると、その場から連なって走り去っていく。ほっと息をつきかけたのもつかの間、最後の一頭がかさねのほうに尖った鼻面を向けた。


(こ、こちらを見るでない……!)


 イチが川に入れと言ったのは、においを断つためだったのだと気づく。

 赤黒く染まった口で舌なめずりをした山犬は、すんすんと鼻をひくつかせたが、やがて何事もなかったかのように仲間を追って駆けていった。


「びっくりした……」


 詰めていた息を吐き出すなり、かさねは河原にへたりこんだ。


「たぶん、樹木星医がつけていためくらましも効いたんだろ。運がよかった」


 かさねの肩によじのぼり、イチは厚く立ち込めた暗雲を見上げる。


「もうすぐ日が落ちる。先を急ごう。せめて人家があればいいが」

「道は平坦になったし、ここからは早く歩けるはずじゃ」


 ――……ら、め、し、い……。

 

 話しているさなかに、地を這うような声が耳を打ち、かさねは瞬きをした。気配に聡いはずのイチには聞こえていないらしい。急に顔をこわばらせたかさねを金の目が不思議そうに見つめている。


 ――ら、め、し、い。う、ら、め、し、い……。


 直後、激しい地揺れが起こり、かさねはイチを抱き締めたままよろめいた。

 遠方の山頂で赤黒い炎が噴き上がり、黒い煙が瞬く間に天を覆う。


(女神が怒っておる)


 びりびりと膚が切れるような怒気を感じて、かさねは戦慄した。


(天帝のめざめを知って……。地の底から女神が叫んでおるのだ)


 これほどの怒りをぶつけあったら、天帝と大地女神はいったいどうなってしまうのだろう。川のほとりにしゃがみこんで震えていると、唐突に地揺れが止んだ。


「かさね」


 かさねの懐から顔を出して、イチがかさねの左手をつつく。


「――……平気か?」


 気遣うような声で我に返り、かさねはすぐそばに焦点を合わせた。

 ああ、とうなずき、雛鳥を左手で包み上げる。


「すこし休むか?」


 歯がゆそうにイチが尋ねる。

 たぶんこの男は、本当は自身が盾となり、道をきりひらいてやりたいんだろう。

 今だって、いつもならかさねを俵担ぎにして運んでいるところだ。ぜんぶできなくなってしまったから、ひどくやさしい。

 ずっと一緒に旅をしていたが、こういうのは新鮮だった。かわいい、とかさねは思った。口にするとまた不機嫌になりそうだったので、こたびは黙っておいたが。


「大丈夫じゃ。行こう、イチ。日が暮れる前に」

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