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白兎と金烏  作者:
終幕 天帝花嫁編
132/164

四章 泥の道(1)

 めざめると、頭は幾分すっきりしていた。

 かさねは上衣に切袴の旅装に着替え、口に紐を咥えて髪を結い上げる。火打石や固餅、懐紙、塩といった荷を詰めた葛籠を肩にかけ、足に草履を履く。


「お嬢さん、これも持っておいきなさい」


 樹木星医が持たせてくれたのは、天日干しにしていた丸薬を入れた巾着袋だった。症状に応じて飲めば、熱冷ましや痛み止めになるという。「かたじけない」と片手で手を合わせる仕草をしたかさねに、「せめてもの餞別だよ」と樹木星医は首をすくめた。

 しばらくの間寝起きをした庵を出て、樹木老神の神域を歩く。

 天帝に焼き払われたセワの森は、かさねがイチを呼んだときに使った大地女神の力もあってか、だいぶ息を吹き返していた。昨晩降った雨で、みどりの草木は洗われたような澄んだ気に満ちている。銀色の雫が跳ねる道を少しのぼった先に、燃えた老樹――星和の遺骸が現れた。そのそばでは、新たな樹木神となる苗木がみずみずしい葉を風によそがせている。

 木々のつくる天蓋から射した一条のひかりが、苗木を照らす姿は神々しい。まだ姿をかたどれない樹木神に代わり、星和の眷属たちが見送りにきてくれた。


「星和、ひよりどの。いってくるぞ」


 背を折って頭を下げると、さっと爽風が吹き寄せる。言祝のように吹いた風に背を押された気がして、かさねは微笑んだ。

 途中までは樹木星医が道案内をしてくれるという。杖をついて歩き始めた樹木星医の小柄な背中をかさねは追いかける。ちなみにイチは今、かさねの懐に入れてある。この雛鳥はまださして飛ぶことができないし、爪の力が弱くてかさねの肩に留まっていてもころころとよく落ちてしまうので、その場所に落ち着いた。当人はいまだにたいへん不服そうであるが。


「天帝のめざめに気付いた大地女神があらぶるせいで、大地が蠢動している。加えて、樹木神の代替わりで、木道にもだいぶ綻びが出ているようでね。大地将軍が率いる兵のすぐそばまで、ということはできないよ。なるべく近くまでは連れていくが」

「ありがとう。あとはかさねのほうでどうにかする」


 みどりの蔓と木々が覆った細道を樹木星医についてしばらく歩く。本来北の果てにある緑嶺から、燐圭がいる南西の地にはふた月か三月かかる道のりだ。けれど、樹木星医が使う神域の道は樹木のあいだを風のように駆け、遠方と遠方をつないでしまう。

 

「ここから先は、ひとの世だ。どんな状況かは出てみないとわからない。心しておいき」

「うむ。そなたも元気で」


 礼を言ったかさねの額に、樹木星医は樹で作った杖の先をかざした。先端から草の蔓がするすると生まれ、かさねに吸い込まれるようにして消える。瞬きをしたかさねに「ちょっとしためくらましさ」と樹木星医が口端を上げた。


「獣やひとの目からあんたを遠ざけてくれる。道中無事で。お嬢さん、イチ」

「また会おう。次こそは土産を持っていくゆえ、おいしい茶を淹れてくれ」


 使えるほうの左手で樹木星医の手を一度握ると、かさねは足を返した。

 空にかかっていた蜘蛛の巣状の守りがはらはらとほどけていく。懐におさまったイチの首をつついて、「そなたは挨拶をせんでよかったのか」と尋ねる。必要ない、とでも言いたげにイチは首を振り、かさねの懐から這い出た。


「それよりも、道中のほうが心配だ。女神があらぶっていると樹木星医は言っていたな」

「うーん、見たところ、まだ晴天が広がっているが……」


 木々がつくった天蓋から垣間見えるのは、雲ひとつない青空だ。だが、守りがほどけていくにつれ、空がかき曇り、ひかりが途絶え、様相が変わる。

 神域の外に足を踏み出したとたん、滝のように降り出した雨にかさねは驚いた。

 頭上を覆った厚い雲のなかを青白い稲妻が走る。まるで天と呼応するかのように、大地もまた震動を繰り返していた。見れば、遠方の山々の頂から巨大な黒い煙が吐き出されている。雨だと思ったものにも、黒い灰が混じっており、数歩もいかないうちにかさねは濡れ鼠になってしまった。身体に張りつくような重たい雨である。


「これは思った以上にひどい……」


 樹の生え方から考えるに、かさねたちが出たのはどこかの山の中腹らしい。あたりに人里らしきものは見当たらず、ぬかるんだ道が煙雨の向こうにほっそり続いているだけだ。いったいどのあたりにつながったのか見当がつかず、かさねはさっそく途方に暮れた。


「道に生えた草に踏みならされた跡がある。ときどき誰かが通ってるんだ。このままいったん下ってみよう。うまくいけば、山小屋があるかもしれないし、ふもとまで下りられれば、現在地も確かめられる」


 小鳥姿になっても、イチはこういうところは頼りがいがある。

 うむ、とうなずき、かさねはイチを懐にしまい直した。幸い、鬱蒼と樹々が茂っているおかげで、雨風からは守ってもらえる。行く手を遮る草木をかき分けつつ、のろのろと進んでいると、左腕に鋭い痛みが走った。どうやら棘のある枝が混じっていたようだ。


「携帯用の小刀があっただろ。それで太い枝とか棘があるやつは切って進んだほうがいい」

「あぁ、そういえば、そなたはいつもそうしてくれていたものな」


 帯に挿していた懐刀を抜き、左手で「えいっ」と勢いよく枝に振り下ろす。だが、うまく切れない。「えいえいっ」と何度か繰り返していると、ようやく道がひらけた。おお、と歓声を上げる。懐から肩によじのぼったイチの冷たい視線に気付いて、「なんじゃ」とかさねは顔をしかめた。


「……いや。十七のお姫さんにそれを求めてもしかたないってことは、よくわかってる」

「か、かさねとて今ははじめてだったから……! それに利き手ではないし、雨で枝が濡れて滑るし……」


 何やら言い訳めいたことをごにょごにょ口にしていると、イチはわかったとでもいうようにかさねの肩を足で叩いた。


「俺が前を見てる。で、よけられそうだったらよける。よけられないときだけ小刀を使う。それは鞘にしまっておけ。そのうち、あんた自分の手を切りそうで怖い」

「さすがにそこまではせぬ!」


 うぬぬぬ、とかさねは悔しさから呻く。

 とはいえ、イチの言が現状では最善だった。おとなしく従うことにして、かさねは小刀を鞘にしまった。気を取り直し、ぬかるんだ山道をゆっくりくだる。ほうぼうに伸びた草や枝だけでなく、足元でも太い木の根がのたうち、気を付けていないと、足を取られて転びそうになる。

 これまでの旅は、イチが歩きやすい道を選んだり、行く手を切り開いたりといったすべてやってくれていた。かさねはイチについて、きちんと歩けていればよかったのだ。それだって、莵道からかどわかされた当初はまるでできなかったので、かさねとしてはだいぶ進歩した気でいたのだが。


「俺と会う前にひとりで旅をしていたときはどうしてたんだ?」

「あれはまあなんというか、朧が結構助けてくれてな……」

「あいつ、なんだかんだ面倒見がいいからな」

「早く溶けた鼻面が治ってくれるとよいが……」


 樹木星医のもとで治療している銀灰色の狐神に想いを馳せ、かさねは息をつく。……あのように周りを傷つけるような力の使い方は、もう決してしてはいけない。次、同じことを繰り返せば、切っ先は必ず近くにいるイチに向かうのだから。

 赤い痣が浮かんだ己の手のあたりに目を向けていると、「かさね?」とイチが声をひそめて尋ねた。それでかさねは我にかえる。


「あぁ、いや。さすがに冷えてきたなあと思うて。そなたは平気か?」


 歩き始めてずいぶん経つが、山小屋らしきものは一向に現れない。

 雨と灰でしとど濡れた衣は膚に張り付き、体温をじわじわ奪っていく。蒼褪めた膚をさすりながら、樹下で一休みをしていると、イチがかさねの懐からぽてんと地面に下りた。

 飛ぶというよりは、跳ねるようにその場から離れたあと、ほどなく戻ってくる。こっちだ、と嘴でかさねの袖を軽く引っ張り、案内してくれる。山小屋ではなかったが、岩のあいだにできた小さな洞穴を見つけたらしい。


「雨が上がるまでここで少し休もう。……上がるといいが」


 身をかがめなければ、入れないくらいの狭さだが、かさねと今のイチなら十分だ。湿った小枝のせいで火を点けるのに手間取っていると、イチが洞穴の奥に転がっていた枝を引っ張ってきて、火打ち石を壁に打ち付けた。見る間に小さな種火が生まれたので、かさねはそれを使って火をおこす。


「そなたって……」

「なんだよ」

「雛鳥になっても、ものすごく有能じゃな……」

「おまえがいつまでたっても下手なんだ」


 悪態をつき、小鳥はかさねにぷいと背を向けた。道中、しとど濡れてしまった衣をかさねは乾かす必要がある。それを律義に気遣ったのだとわかって、かさねはにんまり口端を上げた。

 

「そなたはほんに、かわゆいのう」

「姿かたちでひとをかわいいって連呼するのはやめろ」

「そうでもないぞ。そなたはひとの姿でも、愛らしい。かさねが知る誰よりもな」


 灰と雨水を吸った上衣を絞って、火の近くに広げておき、襦袢一枚になると、「おいで」と雛鳥を後ろから抱え上げる。


「そなたはかさねが温めてやるぞー。ほれほれ」

「だから、くっつくな」

「ちゅうしたらひとに戻らんかのう。やってみるか?」

「そんなに簡単に戻るかよ」


 しばらくイチは暴れていたが、そのうち諦めたらしくかさねの手の中におさまった。静かになると、比して外の雨音が大きくなった。膝を抱えて、降りしきる灰まじりの黒雨を眺める。洞穴の出入り口を雨滴がとめどなく伝う。やむかのう、と呟いたかさねに、さあな、とイチが声を返した。


「この雨が大地女神によるものなら、止まないかもしれない」

「まずは燐圭の率いる軍勢に追いつかねばな」

「どうやって近づくかは考えたのか?」

「それはのう……追いついたら考えることにする!」


 どうにかなるだろう、という心持ちで胸を張ると、イチは呆れたらしく息をついた。それから、かさねの髪を引っ張って、すこし眠っていいぞ、と囁く。


「何かあったら起こしてやるから」

「でも、そなたともう少し話していたいしのう……」

「起きてからいいだろ。どうせまだ長い道のりなんだ」

「うーむ、まあ、そうか」


 正直に言うと、身体のほうは疲れ果てていたので、イチの言葉はありがたかった。うとうとと膝のうえに頭をのせて目を瞑ったかさねに、あたたかな羽毛がくっつく。幼い頃、かさねがうまく寝つけないときに添い寝をしてくれた亜子みたいだ。こんなに小さいのに、イチはやっぱりかさねを守ってくれているのだと思ったら、胸がぎゅっと締め付けられてしまって、かさねはすんと鼻を鳴らして目を閉じた。

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