三章 魂呼び(3)
寝台のうえで半身を起こしたかさねの前に、樹木星医が作った料理を並べてくれる。野菜を煮込んだ汁もの、すり潰した豆を混ぜた固餅に蜂蜜をかけたもの、山菜を炒めて塩をかけたもの。思えば、イチの魂を探している数日間、かさねは寝食をまったく取っていなかった。
さっそく膝のうえにのせた椀を匙ですくう。
かたわらで固餅をついばんでいた小鳥が何かに気付いた様子で、こちらを見上げてきた。「イチも食べるか」と匙を差し出すと、何故かそれには興味を示さず、かさねの右側に回って、力なく垂れた右手にぴっとりくっついた。右手だとなにも感じぬのだけどなあ、と少し残念に思う。
「神域は、いまは大丈夫か?」
くたくたに煮込んだ野菜を咀嚼しつつ、かさねは星医に尋ねる。
天帝が荒らした星和の神域。星和は消える前に、自分がしりぞけたから天帝はしばらく戻ってこないと言っていたが。
「天帝をしりぞけたときに、星和が守りを繕い直したからね。しばらくは大丈夫だろう。それに、大地女神が天帝のめざめに気付いた。こちらに関わる暇が、天帝にもなくなるはずだ」
樹木星医は食事をとらず、乳鉢で数種の草を擦っている。ほかの庵とたがわず、この庵にも天井から所狭しと多種多様な草の葉や茎、根が吊るされていた。彼らは草木の力を使って、ひとや神霊に効く薬をつくる。樹木星医といわれるゆえんだ。かさねも何度か熱冷ましや痛み止めをもらった。
「ひよりどのは、イチの身体を取り戻すにはどうせよと言っておった?」
食後、もらった薬を白湯でのんでいると、すり潰した薬草をこねて団子を作りながら、樹木星医が尋ねた。強烈な苦みを発する薬を無理やり飲み下してから、かさねは口を開く。
「『鏡』が必要だと言っていた。神器のひとつである『鏡』に天帝を映せば、本来の姿が暴かれ、イチから離れるだろうと」
「鏡か。千年前に確か天帝が焼き払ったんじゃなかったか」
「それも繕い直されてどこかにあるのでは、と言っておったのだが……」
ううん、と考え込んだかさねに、「心当たりならひとつある」と樹木星医が細い指を立てる。
「まことか!」
「あたしと同じ、森の隠者……カムラという老婆が大地将軍に付き従っているだろう。あいつは神器をつくった鍛冶の一族のすえ。千年前に天都を追放されたようだがね。あいつなら、鏡のゆくえを知っているかもしれない」
「カムラか。なるほど」
神器を探す船上で会話をした老婆の姿を思い出し、かさねは考えこむ。
樹木星医が語った出自は彼女自身からも明かされていた。今にして思えば、カムラはイチが神器であり、かさねと燐圭が探していた『剣』であることも、わかっていたのではないか。だとすれば、とんだ食わせ者である。
「あやつはいまいち信用ならぬ」と呟いたかさねに、樹木星医はおかしそうに鼻を鳴らした。
「あれはあたしとちがって、ひとが好きだからね」
「そうなのか?」
「隠者のくせにひとの世に降りて、ひとの渦中で、ひとの生き乱れるさまを観察しようとする。あいつはひとがみんな好きなんだ。だから、片一方には肩入れしないかもしれない。ふつうに聞き出すのは難しいかもね」
わかるようなわからないようなことを言い、樹木星医は団子状にした丸薬を板のうえにのせて、外に出す。天日干しにするようだ。
「それでも万に一つの可能性にかけて、カムラを訪ねるかい?」
「たぶんそれがてっとりばやい。あやつは燐圭のもとにいるのか?」
すべて空にした皿を重ね、かさねは左手だけでごちそうさまをした。
「あぁ。ただ、外の世界では今、天帝を討つべく大地将軍が兵を率いて天都をめざしている。無論、カムラがいるのは大地将軍のそばさ。あんたが単身近づくのは容易ではない」
「俺が行く」
かさねの右手にくっついたまま静かにしていたイチが急に口を開いたので、かさねは瞬きをした。
「おまえはここから離れないほうがいい。俺が行く」
「いや、しかし。イチよ。そなたは今はかわいい小鳥の姿をしておってな」
カムラに近づくどころか、燐圭に気付かれたらその場で踏み潰されそうである。だからこそ警戒されずに近づくことができるかもしれないが、やはり心もとない。この姿では、かさねのほうがまだ攻撃力があるくらいなのだ。
よしよし、とかさねが頭を撫でようとすると、代わりに噛みつかれた。左ではなく右指を。とっさに反応しなかったかさねをイチはかなしそうに見つめた。
「樹木星医」
かさねではなく、乳鉢を拭いている古老のほうをイチは呼んだ。
「あんたはこんなにぼろぼろになっているこいつにまだ歩けっていうのか」
その声には憤りより悲しみが深く滲んでいる。イチはこの場の誰よりも途方に暮れて傷ついているようだった。かさねの動かなくなった右腕にも、起きたら何も映さなくなっていた右目にも気付いてかなしんでいるようだった。
――代償である。
ひよりは代償の話を、きちんとかさねにしてくれた。
女神の力を使うことは、またひとつ、ひとから遠ざかることだと。右腕、腕から肩にかけて、そして右目。女神に近づくごとに、かさねの身体はひととしての機能を失っていく。
だが、まだ、ひとだ。
ひとだ、かさねは。
笑みをおさめて、かさねはイチのほうを見た。イチはかさねの右手にそっと身を寄せていた。死人のように冷たくなった手の温度を感じているにちがいなかった。
イチ、と呼びかけて、黒い羽に指で触れる。今度はイチも拒まなかった。
「それはちがう。樹木星医は歩けなどとは言うておらん。かさねがそうしたくてしたことを手伝ってくれただけじゃ」
「おまえはそうやっていつもいちばんぼろぼろになる」
「そうでもないぞ。ひよりどのも星和も、皆力を貸してくれたしの」
イチのかなしみに触れていると、何故かかさねは己の中でわだかまっていたさまざまな苦悩が和らいでいくのを感じた。それはどうして自分がこんなさだめを負うことになったのだろうという嘆きであり、どうして星和やひよりを失くさねばならなかったんだろうという憤りだった。かさねの胸を押し潰すほど膨らんでいたそれらは、指に触れた小鳥の温度と一緒に解けて流れ去っていった。
「ありがとう、イチ。かさねのために悲しんでくれて」
「かさね」
「だから、ひとりといわずふたりで行こう。かさねたちはいつもそうやって乗り越えてきたではないか。のう?」
指先を差し出すと、小鳥はしばらく考え込むようにしてから、そっと指の端を甘噛みしてきた。心を決めて、樹木星医よ、とかさねはやり取りを見守っていた古老を振り返る。
「かさねはイチとカムラに会いに行く。近道を教えてくれ」




