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白兎と金烏  作者:
終幕 天帝花嫁編
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二章 はざまの乙女(2)

「もうひとつ、そなたに聞いておきたいことがあるのだが」

「なんでしょう?」

 

 かさねはひよりを映した白い地平に触れる。指先まで覆っていたうす紅の痣は今は消えている。右腕が動かせることといい、かさねが魂だけの存在でひよりと会話しているからだろう。


「千年前、そなたはかさねに『三度目の莵道をひらいてはならない』と言ったな。ひとならざるものに転じてしまうからと」

「ええ。わたしは三度道をひらいて大地女神となった」

「もしこのままかさねが莵道をひらかなければ、女神にはならんということか?」


 しかし一方で、天帝の花嫁とは、天帝と交わり、子をなしたのちに大地に落とされるともいわれる。どちらの伝説も、ひよりと天帝の婚姻譚をもとにしているのはわかるが、もしかさねがこのまま莵道をひらかず、かつ天帝から逃れ続ければ、大地女神となることはないのか。かさねの考えを聞いたひよりは、「確かなことはわたしにもわかりませんが……」と前置きをして続ける。


「道をひらいてはならぬ、と言ったのは、境界を越えるたび、あなたの身がひとのそれから離れてしまうがゆえです。かさねさまは莵道を何度ひらきましたか」

「二度じゃ」


 一度目は天帝と誓約を交わしたとき。

 二度目は六海の地で、燐圭の手から龍神を守ろうとしてひらいた。二度目に莵道をひらいたとき、かさねは自力でこちら側に帰ってこられず、イチが見つけてくれるまで異界のはざまで泣いていたのだという。ひとの身から離れるというのは、そういうことか。


「天帝のめざめも引き金となったのでしょう。あなたはすでにその身に大地女神の力を受け継ぎつつある。身体に異変が起こり始めたのはその証拠。たとえ三度目をひらかずとも、長く隠れていることはできませんし、天帝は何度でもあなたを見つけるでしょう。そうなれば、わたしと同じことが繰り返される。……漂流旅神には会えましたか?」

「うむ。かの神は一度死に、紗弓どのの胎を借りて再びこの世に生まれいでるという」


 しかし生まれるまでは十月十日の月日がかかる。

 果たして、それまでかさねは持ちこたえることができるだろうか。一抹の不安が胸に生じて締めつける。それだけではない、漂流旅神が言っていた神器のゆくえ――『鏡』と『玉』の在処すら、かさねにはわからない。


「『玉』は大地女神が所有しているというが、心当たりはあるか?」

「それがどうしても思い出せぬのです。わたしが大地女神から分かれた半端な存在ゆえかもしれませんが……」


 口惜しげに眉根を寄せ、ひよりは少し考え込んでいたが、やはり首を振る。


「『剣』はイチ……ひとの形をしていた。同じように『玉』も『玉』のかたちをしているとはかぎらぬのだな」

「ええ。おそらく大地女神にとって、とても大事なもの。だからこそ、わたしには思い出すことができない。ともしたら、女神の力を受け継ぐあなたのほうが先に答えにたどりつくかもしれません。――それと最後の『鏡』についてですが」


 カムラいわく、「鏡」は千年前に天帝が焼き払ったせいで壊れたと言っていた。天都にあった青い泉が「鏡」の転じた姿であったのだと。


「もし、イチの魂を取り戻せたら、次に彼の身体から天帝を追い出してやらねばなりません。そのときに必要となるのが『鏡』なのです。千年前、泉に映った天帝の姿を覚えていますか?」


 問われて、そうじゃ、とかさねは思い出す。

 千年前、かさねの前にはじめに現れた男はイチとうりふたつの人間の姿をしていた。彼に連れられ、かさねは『鏡』たる泉の前に来たのだ。あのとき、澄みきった青い水面はかさねと男の姿を映した。炎にも似た黄金の火の鳥を。


「かさねが水面に映った火の鳥を見た瞬間、天帝は姿を変えた……」

「『鏡』は万物の姿を暴きます。『鏡』を向ければ、天帝は本来の姿を取り戻し、神器から離れる。眠りからめざめた天帝に近づくことは容易ではないでしょうが」

「いや、ありがとう、ひよりどの。かさねがするべきことはわかった」


 大きくうなずき、かさねは白い地平に手を触れさせる。波紋がひらりと生まれ、ひよりの姿にもさざなみが立つ。ひよりはどうしてか切なげな顔でかさねを見ていた。同じように伸ばされた手が地平の表面に触れる。ぬくもりが伝わることはなかったが、確かにひよりとかさねは今手を重ね合わせているのだと思った。

 

「もっと力を貸せたらよいのに。あなたの困難な道をともに歩けないことがかなしい。せめて、この腕であなたを抱きしめられたらよいのに」

「そのようなことを言うでない。そなたはいつだって、かさねとともにいてくれたではないか。今も」


 手を触れ合わせたまま、かさねは笑った。


「星和に伝えておきたいことはあるか。言伝なら受けるぞ」

「いいえ。かの者とのお別れはとうの昔に済ませましたから」


 大切なことはこの胸が知っているのだと、ひよりは微笑んだ。

 白い地平に音もなく亀裂が入る。先ほどから繰り返されていた波紋があちこちに広がり始めたことにかさねは気付いた。はらはらと雪が舞うように天地をかたちづくる境界がほどけていく。ひよりどの、とかさねは思わず地平に爪を立てた。触れたはずの手が跳ね返り、地平の向こうにいたひよりの姿もひび割れ始める。


「わたしは大地女神から分かたれた一部。女神の死とともにまもなく消える。あなたに会うのはきっとこれが最後」

「そんな」


 泣き出しそうな顔をしたかさねに、ひよりは眉をひらく。無数のひびが顔に入るその中でも、ひよりは微笑み続けていた。かさねを慈しむように、励ますように。

 静かだけども、強靭な笑みだ。

 ほんの短い間、言葉を重ねただけのかさねにだってわかる。途方のない苦しみと奈落を味わいながらも、ひよりはわらっていることを選んだ。かさねよりも本当はずっとつよい。つよいひとなのだ。


「かさね。もうひとりのわたし。あきらめないで。必ず乗り越えてみせて。いつだってあなたの幸福をわたしは祈っている」

「ひよりどの!」


 境界がほどける。天地をかたちづくっていたすべてがほどけて散っていく。

 かさねは崩れゆく世界の向こうに大きく手を伸ばした。ほんのひとときでもよい、時を超えた片割れをかさねも抱きしめたかったのだ。手が空をかく。やわらかな春風をかさねは抱きしめた気がした。しかし次の瞬間、それは霧散し、かさねの意識は急速に後方に引っ張られていく。


 ・

 ・


「あ……」


 目をひらいて最初に感じたのは、熱っぽく気だるい身体の感覚。そして自由に動かせなくなった右腕の重みだった。ぜい、と荒く息をつく。しとどかいた汗が顎から滴り落ちた。それを左手で拭っていると、「ひよりには会えただろうか」と目の前に膝をついた星和が尋ねた。

 腹を突き破ったと思った星和の腕は、かさねの背にやさしく添えられている。傷跡らしきものも見当たらなかった。うむ、と小さくうなずいて、かさねは言葉もおぼつかないまま、星和の胸に額をあてた。ひよりの欠片がまだかさねに残っているなら、ふたりが触れられるとよいと思った。

 ひとしきり星和の胸に擦るようにしてから、かさねは呼吸を整え、顔を上げた。かさねの顔を見た星和が緑褐色の目を細める。


「道はひらけたようだな」

「……うむ」

「よかった。間に合って」


 瞬きをしたかさねは、自分が横たわるのが星和の体内でないことに気付いた。

 頬にじりじりとした熱が射す。かさねを抱く星和の背後で、老樹が火を上げて燃えている。炎に包まれた黒い残影となっている老樹を目に映し、かさねは悲鳴を上げた。


「火が……! 星和! 火が!」


 身を起こして、そちらに駆け寄ろうとしたかさねを星和の腕が引き戻す。必死に手を伸ばすかさねに、「だいじょうぶだ」と星和はあやすように言った。


「天帝はしりぞけたから。あれも片翼に傷を負ったから、しばらくは戻ってこれまい」

「でも、あれはそなたの本体なのであろう? なあ、どうすれば、火を止められる? かさねはどうすればよい?」


 取りすがるように尋ねると、星和は苦笑する。困った風なわらい方だった。駄々っ子に何を言うべきか悩んでいる親のような。


「いいんだ。おれはもう衰えていた。そのうち、消えるものだった」

「だが、星和。だが――」


 かさねのせいなのだろうか。

 かさねを助けたせいなのだろうか。

 うつくしかった星和の神域は荒らされて、木々も星和も焼かれてしまった。

 かさねの胸中を読みとったように、「それはちがう」と星和は静かな口調で否定する。


「おれはひよりを……前の天帝の花嫁をさいごに手放したことを悔いていた。千年もの間、ただ悔いて生きてきたんだ。だから今、あなたを守ることができて、とてもうれしいんだよ。おれの分身たちも、たぶんそう思っている」


 でも、だけど、だって、とかさねは意味をなさない言葉を繰り返す。しまいに何を言ったらよいかわからなくなって、ぶんぶんと首を振った。何度も振った。泣き濡れたかさねの頬に、星和の木膚めいた手があてがわれる。あふれた涙を拭って、やはり童女にするように星和はかさねの頭を撫ぜた。


「泣かないでくれ。あなたは笑っている姿がよく似合う」

「星和……せい、わ……せいわ……っ」


 額を合わせた青年が眉尻を下げて微笑む。ひよりのわらい方に似ている、と思った刹那、かさねを抱いていた青年は風にかき消えるように消滅した。はらはらと無数の金の粒子が夜闇を舞う。指先からかゆらいで消えるそれを追うように、かさねは黒い炭と化した大樹の残骸にしがみついた。まだ火種がくすぶるそれは、かさねの腕やくっつけた額にあっというまに火傷をつくったけれど、かまわなかった。もう樹のにおいもしない残骸に頬を擦り寄せる。


「せいわ……ひよりどの……」


 やがて森に夜明けのひかりが射すまで、かさねはずっとずっとそうしていた。

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