二章 さきぶれの音(2)
孔雀姫はその夜遅く、従者の小鳥だけを連れてやってきた。
かようなけがらわしい場所、と饐えた臭いに口元を押さえ、小鳥は不満げな顔をした。孔雀姫ほどの高貴な女人が供儀用の獣たちを入れる仮宮に足を運ぶなど、信じがたいことなのだろう。だが、当の孔雀姫はさほど気にしたそぶりもなく、颯爽と男物の袴をさばいてイチの前に立つ。
「約束を破ったな。イチ」
開口一番、孔雀姫はぴしゃりと言った。
「鳥の一族を攻撃したことか」
「ちがう」
小鳥のほうへ目を向けて尋ねたイチに、孔雀姫は首を振った。閉じた扇を握る孔雀姫の手が、イチの頬に伸びる。頬に走る切り傷に、姫は少しだけ痛ましげな顔をしたが、語気の鋭さは変わらなかった。
「そなたにはかさねどのをお守りするために口琴を貸し、緑嶺へ送り出した。が、そなたはひとり天都へ戻ってきた。これはどういうことじゃ」
「追手をかけたあんたらが言うことかよ」
「あれは……天の長が。そなたにも警告はしたはずだ」
確かに鳥の一族に襲われる直前、孔雀姫はひそかにイチに警戒を知らせる鳥文を送ってくれた。天都の者は好かないが、この姫だけは信じてもよいとイチが思ったのはこのためである。だからこそ、老に頼んで、内密に姫に取り継いでもらった。
「まず先に言っておく」
頬に触れる扇をイチはわずらわしげに外す。
それから言った。
「かさねを俺は裏切らない。あいつが何であろうと、この先何が起ころうと、俺はあいつの側に立つ。そのうえで、あんたに問いたい。あんたは誰の側に立つ?」
口元を緩く引き結んだまま、孔雀姫は碧眼を眇めた。灯りを持つ小鳥少年が落ち着かない様子でイチと孔雀姫とを見比べている。
「誰の側とは?」
「かさねの天帝の花嫁としての役割は、あんたももう知っているな? 選ばれた花嫁は、千年の眠りから目覚めた天帝と子を成したのちに、地の底へ落とされる。次の大地女神として。花嫁とはいうが、あれはもう人柱だ。俺はかさねをそのさだめから解放したい。だから、あいつを天帝へ捧げようとする限り、天都の言うことは聞けない」
「花嫁のさだめはわたしも聞いた。むごい……むごい、ものだった」
「約束なら、あんたもしたな。かさねにだ。見つけ出した花嫁を決して贄にはしないと。あれ、守る気はあるのか?」
六海に旅立つ前のことだ。天帝の花嫁を探すよう頼んだ孔雀姫に、かさねは言った。決して贄にしないと約束できるなら協力する、と。あのとき、孔雀姫は確かにかさねにうなずいたはずだった。
「イチ。わたしは天の一族の娘ぞ? 追放されたそなたとはちがう」
「だからなんだと?」
応じるイチは冷たかった。孔雀姫は苦くわらって、息をつく。そして格子のうちのイチと視線を合わせるようにその場にかがんだ。
「まったく、壱烏と同じ顔で悪態をつかれたり、ほかの女への愛を告げられるわたしの身にもなってみよ」
くっと咽喉を鳴らして、孔雀姫は扇を帯に挿す。
「わかっているだろう、イチ。わたしとて、心苦しい。ゆえに、そなたらに警告し、猶予を与えた。そなたらなら、別の運命をつかんで帰ってこられるのではないかと期待してのことよ。無論、そなたと壱烏の父――天烏どのはそのようには考えておらん。あの方は天帝がつつがなく目覚め、花嫁を得られることを第一に考えておられる」
「なら、俺をここから出せ」
静かにイチは言った。
「あんたも望んでる別の運命とやらをつかんできてやる。あいつと」
「天帝の目覚めは近い。それでも?」
「それでもまだ、望みはある」
薄く霜の降りた格子に触れて、「神器って知っているか」とイチは問うた。
「いにしえの神具か。鏡、剣、玉。三種の」
「そのうち、『鏡』は天にあるという。聞いたことはあるか」
「あるよ」
あっさりと返事があった。小鳥が掲げた明かりが男装をした姫の半身をおぼろげに照らす。半身を格子に預け、孔雀姫は腕を組んだ。
「もっとも、わたしが知っているのは『鏡』があったとされる場所だ。千年前、天帝が目覚めたそのときに、『鏡』は姿をかえ、天都に湧き出でる『泉』となった。その『泉』は樹木老神と深くつながっていたと聞くが、あるとき天帝が壊してしまった――らしい。今は干上がった窪地があるだけだ」
(まさか、『《《あれ》》』か?)
思い当たるものがあってイチは口を閉ざす。千年前の天都で、天帝が焼き払った青い泉。かさねの話では、泉はかさねや天帝の魂のすがたを映しだしたという。
「なら、『剣』や『玉』はどうだ」
「『玉』は大地女神が持ち去り、『剣』は天にいた鍛冶師が下界に降りたときに持ち去ったそうだ。のちに海に沈められ、海神の手に渡ったというが……。海神も滅んだ今、どんな形をしているかはわたしにもわからないな」
「形が変わるってのは厄介だな」
「いにしえの神器がどうかしたのか」
考え込んでしまったイチに、孔雀姫が尋ねた。
「神器を探している。話すと長くなるが、要はさっきの話に神器がひとつ必要なんだ。神器を見極める方法は何かないのか」
「わたしも詳しくは知らん。が、『剣』『玉』『鏡』というのはその物のかたちを示すのではなく、魂の呼び名であり、力なのだと。だから、形が変わっても、真名をきちんと呼べば、力を顕す。そう聞いた」
「真名か……」
壊れてしまった『鏡』は除外して、残りの『玉』と『剣』。『玉』があるのは大地女神のいる黄泉の国だから、容易に盗み出すことはできないだろう。探すとしたら海神が守っていたという『剣』のほうか。そこまで考えて、イチは海原を進む大地将軍の船を思い出した。『剣』が眠るといわれる海に大地将軍がいたのは偶然だろうか。もし大地将軍もまた、『剣』を探しているのだとしたら。
(面倒なことになる)
「とりあえず、話はわかった」
立ち上がろうとして、未だに腕が後ろで縛られたままのことに気付いた。
「小鳥」
縄を解け、と灯りを持つ少年に目で促す。ほどいておやり、と孔雀姫からも声をかけられ、小鳥少年は眉根を寄せた。ことり、と火皿を足元に置く。
「道中、わたしの同胞を何羽斬ったか、あなたは覚えておられますか?」
「さあな。そんなもん、いちいち数えちゃいない。こっちだって死にかけたんだ」
イチの上半身に生々しく残る刀傷が目に入ったのか、小鳥はばつが悪そうに視線をそらした。斬った数も覚えていないし、斬られた数も、イチは覚えていない。そういうものの考え方をしたことがない。この鳥の血筋の少年はちがうらしいと気付いて、イチは何故かすこし面白く思った。あの娘も、たぶん斬り捨てられたひとつひとつの命、ひとつひとつの傷に目を留める。
「ただ、恨まれるのはしかたないと思う。殴りたいなら好きにしろ」
「……しませんよ」
かぼそく小鳥は呟いた。
「縄を解きます。孔雀姫さまがお命じになるから」
取り出した小刀で、小鳥はイチの腕を縛る縄を切る。数日ぶりに自由になった腕は、まだ指の先が痺れてうまく動かない。軽く肩を回し、イチは小鳥が差し出した上着を取った。
「見張りは、そなたの指導役のじじが手配して一番ぼんくらなのを置いている。小鳥とわたしで見つからなかったのだから、そなたなら、たやすかろう。仮宮を出たら、西の道を使え。夜明けまでは鳥の一族の見張りもないはずじゃ」
「わかった。あんたはこの件についてはしらを切れよ」
「当たり前だ。イチ」
孔雀姫が鍵を挿し入れると、錠はあっけなく落ちた。戸を開いたイチの頬に孔雀姫の白い手が触れる。先ほどとは打って変わって、それは肉親を慈しむような仕草だった。
「かさねどののこと、くれぐれも頼む」
「ああ」
真摯な眼差しにうなずき返し、イチは暗闇の中走り出す。




