第Ⅰ-16 適応
いつからだろう。食事の時間が楽しみになったのは。
いつからだろう。家に帰るのが楽しみになったのは。
いつからだろう。彼女がこの家に入る時の言葉が、お邪魔しますから、ただいまになったのは。
いつからだろう。それに対する私の返事が、遠慮しないでから、おかえりなさいになったのは。
凛さんと暮らすようになって、一か月が経過した。
最初はぎこちない同居生活だったが、気付いたら、ごく普通に毎日を過ごせていた。
慣れというものは恐ろしいもので、気付いたら、様々なことが日課となっていた。
たとえば、凛さんは最初に召使さんをクビにするように言った。
大人になってから困るし、家事全般はできるようにという配慮だ。
両親にも電話で話をして、召使さんはクビにさせてもらった。
新しいご主人はもっとまともな人間であることを祈る。
ちなみに、両親は凛さんとの同居は了承してくれた。
というよりも、両親に特に害は無いので、どうでもいいという判断だろう。
召使への賃金が凛さんの生活費に回されるだけの話だ。元々無駄に金はある。そこまで問題は無い。
あと、家事を基本私がやるようになった。
もちろん、分からないことは凛さんに教えてもらえるし、しっかり勉強や遊びの時間は確保してくれているので、これもそこまで苦労は無い。
やり方を教えてもらうだけじゃ中々上手くできない料理は、一緒に作ったりしている。
それ以外は私が担当している。でも、あまりそれに苦労だとは感じないのは、凛さんの力なのだろうか。
まぁ、そんなことがありつつも、目立った苦労も無く月日が経ったある日、私は学校で配られたプリントを見ながらため息をついた。
「ん? どしたの。浮かない顔して」
自室で落ち込んでいた時、いつの間にか部屋に入って来ていた凛さんがそう言って顔を覗き込んできた。
それに、私は「ひゃぁッ!?」と声をあげ、仰け反った。
「り、凛さんいつの間に!?」
「ん? いや、そろそろご飯作る時間だから呼びに来たけど、返事無いんだもん」
「あ、ごめんなさい……」
「何見てんの?」
凛さんはそう言って私が目の前に置いていた紙を手に取る。
それに、私は「あぁ、ちょっと!」と慌てて取り返そうとするが、凛さんに頭を押さえつけられ、近づくことができない。
額を押さえつけられながらジタバタしてる間に、凛さんは紙をジッと見つめる。
やがて、小さく口を開いた。
「期末テストか……へぇ、もうそんな時期……」
そう言いつつ、凛さんは机にテスト範囲の紙を置き、腕を組んだ。
「勉強しないとなぁ、と思って……はぁ、憂鬱……」
「雛ちゃんの学校偏差値高いもんね~。でも、今までなんとかなっていたんでしょ?」
「そうなんですけど……でも、今回の範囲はかなり広くて……」
私の呟きに、凛さんは顎に手を当て熟考する。
やがて、ポンッと軽く手を打った。
「よし。それじゃあ私が勉強を教えてあげよう」
「……はい!?」
私が素っ頓狂な感じの声をあげると、凛さんはニヒッと笑い、私の頭に手を置いた。
「元々、私のせいで雛ちゃんが勉強に割ける時間は少ないし、一応私だって高校生は経験したことあるし……雛ちゃんって、今普通科?」
「は、はい……一応」
「それじゃあなんとか教えられるかなぁ。ハハッ、腕が鳴るねぇ」
そう言って袖を捲る凛さんに、私は苦笑する。
その時、身を乗り出した凛さんの肩から、彼女がポニーテールで纏めている長髪が彼女の肩から零れ落ちて、彼女が使っているシャンプーの匂いが私の鼻をくすぐった。
とても甘い匂いがして、つい、心臓がドキッと高鳴る。
それと同時に顔が熱くなり、私は目を伏せた。
「まぁ良いや。それより先に晩ご飯作るよ。行くよ、雛ちゃん」
「あ、ちょっと……!」
急かすように私の腕を引く凛さんに、つい声を上げる。
しかし、明るく笑いながら私の腕を引く凛さんに、何も言い返すことが出来なくて押し黙る。
優への想いを吹っ切るようになってから、なぜかは分からないが、やけに凛さんに対してドキッとすることが多くなった気がする。
この感覚は、優に対して抱いた恋心に似ている気がする。
……もしこれが恋なら、流石に、想いを切り替えるのが早過ぎる気がする。
それに、まだ完全にヤンデレが無くなったわけではない。
これを恋心として認定するのは、まだ早い。
せめて……私がもっと、まともになってから。
「雛ちゃん何してんの? 今日は肉じゃが作るよ~」
材料を出しながら言う凛さんの言葉に、私は我に返る。
とにかく、今はこの件に関しては置いておこう。
「ごめんなさい。すぐに準備します!」
私はすぐに返事をして、調理器具が入っている棚に駆け寄った。




