3-23 精霊祭 三日目〈Ⅳ〉
城壁から飛び降りたテオドール王と赤い龍は互いに睨みあったまま動かなくなった。まるで西部劇のガンマンのような一触即発の張りつめた空気が戦場に生まれた。
おかしなことに誰もが手を止め、足を止め、その睨みあいを見つめている。人間側もモンスター側も両方とも。混迷を極めた戦場が不気味なほど静寂した。
地面に伏したオルドが体を起こした。まだ傷口が痛むのか積み上げられた土嚢に背中が触れると顔を顰めた。それでも先程までの生きも絶え絶えの状態より回復したように思えた。
「団長! もう大丈夫なんですか?」
ホラスが尋ねるとオルドは緩慢な動作で頷いてみせる。完調とはいかないが危機は脱せたみたいだ。後はこの場から離れてちゃんとしたヒーラーの居る所に連れて行くべきだろう。
だけど、僕の足は地面に張り付いたように動けなかった。恐らくホラスも、そして隣にいる騎士団団長の牛人族も同じだろう。特別地域の左翼部分。元は奴隷市場のあった付近にて睨みあう一人と一匹の放つプレッシャーに体が地面に縫い付けられている。
赤い龍は翼を広げ威嚇する様に唸り声を上げる。むき出しの牙から吐息のように火の粉が零れる。白濁した瞳は意志を感じさせないのが一層不気味さを与えている。
一方でテオドール王は龍に対して腰を低くして身構えていた。手は二振りある日本刀の方へと垂れ、灰色の瞳は毅然と龍を睨んでいる。そこに恐れの色は滲んでいない。あの日、アマツマラのギルドでお会いした時のような静かな威圧感だけが広がっていく。
両者の放つ威圧感だけで空間が歪みそうな濃い威圧感の中、先に動いたのは―――テオドール王だった。
彼は突然、放っていたプレッシャーを消し去った。ふっと、まるでその場から消えたかのようなほど鮮やかに気配すら消し去ると―――本当に消えてしまった。
僕の目にはそうとしか映らなかった。テオドール王と赤い龍の間にはそれなりの距離が開いていた。少なくともテオドール王が一足で間合いを詰めれるほど近い距離だとは思わない。
だが次の瞬間、テオドール王の姿は赤い龍の懐まで迫っていた。時間にして瞬きを数回した程度。彼はその短時間で距離を詰めた。
赤い龍が行動を起こす前にテオドール王の白刃が引き抜かれた。彼は龍の胴体に向かって日本刀を振り回した。これまでオルドやロテュスなどのA級冒険者三人の猛攻を防いでいた鱗はいとも簡単に切り裂かれた。あまりにも早すぎる斬撃に鱗は切断時の衝撃で弾け飛ぶ。
遠目からでも確認できる。胴に幾筋の傷跡が生まれるたびに龍は体をねじり、腕を振るい、尾を回して距離を取ろうとする。まるで一個の台風のような猛攻を前にテオドール王は一度詰めた距離を放すことは無かった。体を捩じれば刀を突き刺し、爪を振るえば腕に飛び乗り、尾を回せば先端に捕まった。軽業師の様に致命傷どころかかすり傷すら負わずに龍から食いついて離れない。ブレスを吐こうものならテオドール王は固めた握り拳で顎にアッパーをくらわした。十倍以上のサイズ差がありながらその拳は赤い龍を怯ませる。
「あれが『銀狼』。……元S級冒険者の戦い方だ。ひとたび獲物にくらいつけば離れない、狼みたいな戦い方を好んでいた方だ。まったく引退して十年以上経つのに……衰えない方だ」
オルドはしょうがないといわんばかりの態度でため息を吐いた。だが、その瞳は憧憬の色で彩られていた。彼の横顔とファルナの横顔が重なって見えた。
そんなオルドに向かって騎士団団長は腰の鞄から取り出したポーションを渡す。僕らのような支給品とは違う金色の液体は無残に焼け爛れた傷口を治療する。
「傷口は塞がりましたが体力は違います。しばし、休んでいてください」
「そうは行くか。モンスター共が防壁を越えているんだ。早く戦線に復帰……おい、どういう訳だ? モンスター共、様子が変だぞ」
不審そうにオルドが土嚢の上から顔を覗かせて言った。遅れて僕らも壮絶な戦いをする一人と一匹から視線を逸らして周囲を観察した。オルドの言う通り、おかしな光景が広がっていた。一度は静寂が満たしていた戦場は『銀狼』が動くのを合図に再び動き出していた。だけどその中のモンスターたちの幾らかが何の反応を示さない。冒険者が剣や槍で攻撃しても何の反応を見せやしない。
ふらふらと体を揺らし、されるがままの状態だ。まるで意識を失っているようだった。
「超級や上級のモンスターが中心となって動かない……おい、誰か双眼鏡は無いのか? 動いているモンスターはどのランクだ!?」
オルドが周囲の兵士に呼びかけると、そのうちの一人が戦場のあちこちを双眼鏡で覗く。彼は確認を終えると、「どれも中級です!」と叫ぶ。
「……これはどういう事でしょうか?」
「考えられるのは一つだ。赤龍の角、あれを見たか?」
僕らは自然と赤龍の額から伸びている角へと視線を向けた。捩じれた螺旋のような角は皮膚に網目のような線が四方へと伸び、禍々しき雰囲気を放っている。
「嘗て陛下は赤龍に挑んだ際、額に角なんか無かったと言っていた。そして陛下との戦闘が始まってからのモンスターたちの異変。突飛な発想だが俺はあの角が鍵だと思う」
「あの角が今回のスタンピードにおける鍵……ですか?」
「ああ、いくら六将軍とはいえこの数のモンスターをなんの仕込みなしに操っているとは思えねえ。つーか思いたくない。この戦場で怪しい雰囲気を一際放っているのはあの角だろ」
周囲を警戒しながら盗み聞きした内容に驚く。六将軍とはあのゲオルギウスの事じゃないか。まさか、アイツ自身かアイツの関係者が今回の主犯なのか?
思い出すのはゲオルギウスの残忍な性格。人を塵芥のようにしか捉えていない奴は簡単にアイナさんを殺し、ギルドすら吹き飛ばした。悔しいが僕には手も足も出せない強敵だ。そんなアイツと同程度の怪物がこの近くにいると考えるとゾッとする。
すると、怪物同士の戦いに変化が起きた。赤龍は大きく翼をはためくと暴風を巻き起こした。さしものテオドール王も地面に釘付けになった。その隙に赤龍は大きく羽ばたくと空へと飛翔を始めた。
「団長! 龍が逃げちまいます!」
ホラスが慌てた様に叫ぶ。僕も彼と同じ気持ちだった。このスタンピードが始まってから常に制空権を敵に取られてしまっている。空という独壇場を得たモンスターは自由自在に僕らを攻め立てた。赤龍が怪鳥たちと同じように一方的に攻め立てたらテオドール王も手も足も出せないのではないかと思った。だけど、オルドも騎士団団長も慌てた素振りをせず、泰然と構えていた。
遂に自由な空へと逃亡を成功した赤龍に向かってテオドール王が呟いた。
「《超短文・上級・空中散歩》!」
風に乗って詠唱が聞こえたと思ったら次の瞬間王は大地を蹴り上げ、空中を蹴り上げた。そのまま何もないはずの空間を蹴りつづけて瞬く間に赤龍との距離を詰めてしまった。
「知らないのか? 銀狼からは逃げられない」
オルドの誇らしげな言葉は耳から耳へと通り過ぎて行った。
(空を飛ぶのは久しぶりだな)
テオドールが念じるたびに足元に不可視の足場が構築され、そこを踏み台に飛びあがる。飛ぶといよりも跳ぶという方が正確ではある。
ともかく、戦場を地上から空中に切り替わったのはテオドールにとっても僥倖だった。これで周囲に気兼ねなく戦える。
赤龍と目線を同じ高さまで跳ぶと自然と視界に捩じれた角が入り込む。禍々しき空気を放ち、まるで侵食するかのように根元に網目が走り、腐食するかのようにどす黒く変色していた。
嘗て対峙した時の賢者を思わせる理知的な瞳は白濁しており、どこか苦しげな唸り声を放っていた。
「これは、師とオルドの言が正しそうだな。クリストフォロスは赤龍を念入りに支配下に置いている様だな。あの時にはそんな角、影も無かったはず」
思い出すのは王になる直前。S級冒険者最後の冒険として挑んだ決闘だ。単身、赤龍の活動期に合わせてメスケネスト火山に赴き挑んだ戦い。
自分にとって全盛期の下り坂といえたあの時。あそこで挑まなかったら後悔したであろう決闘はテオドールの敗北で幕を閉じた。当時、持ちうる全ての物資を注ぎ込み、技術の限りを費やし、生死の境を何度も行き来した上で紙一重で負けた。あと一手の所で愛刀が砕け散ったのだ。
今自分が手にしている日本刀にその時の破片が含まれている。切れ味も耐久も比べ物にならない程上がっている。すでに二十を超える斬撃を放ち、鱗を両断してなお刃こぼれ一つ着いてない自信作だ。
だが、テオドールの胸中に渦巻くのは悲嘆の感情だった。
(あまりにも……弱いだろ)
彼の記憶にあった赤龍の姿と現在向き合う傷だらけの赤龍はどうしても重ならなかった。別の個体というわけでは無い。古代種の龍とは一属性に一頭しか居らず死ねば大地に吸収され数百年単位の後に復活すると言われている。少なくとも同じ個体のはずだ。
それなのにこれほどの落差はあまりにも悲しかった。古代種とはいってしまえば肉体を持った精霊だ。詠唱を用いずとも魔法が使え、傷なぞ負った所からすぐさま回復していた。かつてメスケネスト火山で挑んだときの赤龍は十本の炎の大剣を周囲に浮かべて、それこそ星を滅ぼすような大火を巻き起こしていた。
もっとも、そんな全力を放たれたらアマツマラどころかシュウ王国そのものが一晩で滅ぼされてしまう。
つまり、敵の目的はシュウ王国の滅亡では無いという事だ。クリストフォロスの伝承が正しければ赤龍を十全の状態で支配下に置くことも容易かったはずだ。なのにこのような弱体した状態なのはこの状態でも目的を果たせると確信してるからだろう。
「まあ、どっちにしろ、降りかかる火の粉は吹き飛ばす必要があるがな」
滞空していた赤龍が水平に構えたのを見て、テオドールも身構えた。刀の切っ先を龍に向けて固定した。
両者は数瞬睨みあった後、同時に動いた。赤龍は翼を打ち払い、テオドールは空中を蹴る。互いに高速で距離を潰し合うと赤龍は至近距離でブレスを放った。人を容易く飲み込む巨大な火の玉を避けることなくテオドールは日本刀で両断した。二つに分かれた火の玉が弾ける。
そのまま両者がぶつかる寸前、テオドールは方向転換をした。赤龍の鼻先にて空間を蹴り上げて直角に飛び上がるとくるりと縦に回転した。逆さまの視界で高速に流れる龍の背に向けて跳んだ。下に向けた日本刀の切っ先はずぶりと背に食い込む。
「グギャアアア!! ガァアアアア!!」
痛みで悶絶する龍は一気に上昇するなり回転する。遠心力で突き刺した刀がずるずると抜け始めた。テオドールは逆に深く突き刺すとそのまま尾に向けて走った。とんでもない身体バランスだった。深く差し込んだ刀身が遠心力で抜け始めるに合わせて足元は赤龍の背から遠ざかるのに、細かいステップを刻む様に空中を蹴り上げるたびに着地をする。遂に尾の根元まで深々と傷跡を残してテオドールは龍の背から飛び降りた。
自由落下を始めた彼はすぐさま空中を蹴り上げて上昇を再開する。終わりの時間は近い。背中に一文字の傷を負った赤龍を追って空中を駆け上がる。
傷だらけになりつつも戦いを続けようとする赤龍は迫りくる脅威に対して下降した。そして口から炎の息吹を零すと、瞬く間に全身を燃え上がらせた。全身を炎と化しての特攻だった。それを見て、テオドールは二本目の刀に手をかけた。
それは一本目とは違い刀身の短い刀だった。この戦局で選ぶ武器とは思えない程頼りない刀だった。テオドールは諦めた様にため息を吐くと叫んだ。
「《刃雷》!」
テオドールの叫びに反応する様に手にした小太刀の刀身が雷となった。空へと昇る雷は赤龍の纏う炎を弾き飛ばした。全身を貫いた雷は赤龍の体を焼き、苦悶の叫びを上げさせる。その代償としてテオドールの左手に握られた小太刀の刀身は消え去ったままだ。テオドールの戦技の一つ、《刃雷》は戦技の中でも珍しい代償を必要とする。刃のある武器を雷と変えて敵に放つ。その威力の増減は消費された刃の価値で決まる。戦士としての技量と同等の鍛冶の腕を持つテオドールにおあつらえ向きの戦技だ。
(くそっ。精錬に精錬を重ねた超級品のアロンダイトを素材とした刀をこんな所で使うことになるとは)
心の中で後悔を抱きながらテオドールは空を駆け抜ける。赤龍にそれを止める力は残っていなかった。すでに意識も雷撃によって朦朧としているのか自重による落下をしている。テオドールはそんな赤龍に向けて刀を振り上げた。
狙うは赤龍の首―――では無かった。
額から伸びている角の根元へと刀身は迫る。一人と一匹は空中で交差した後、互いに弾かれたように距離を取った。
「しくったな。浅いか」
赤龍の角の根元に一筋の刀傷が残っていた。交差するほんの一瞬前に意識を取り戻した赤龍が身を捩ったのだ。それに加えて龍の血がべったりと付着した刀身は切れ味を落としていた。
テオドールは鎧の下の衣服でぞんざいに血を拭った。一般には出回らない一流職人が高級繊維を贅沢に使った服も戦闘中の王にとってみれば雑巾代わりとなる。職人泣かせの男だ。
そして、再び空中を蹴ろうとしたテオドールは赤龍に異変が起きているのに気付いた。
身を捩り、額を掻きむしり、視線を彼方此方に飛ばす。先程まで白濁していた瞳にくっきりと縦長の瞳が浮かんでいた
「……赤龍殿。もしや、意識を取り戻されましたか!?」
テオドールが呼びかけると、赤龍はどこか隠棲する賢者のような声で苦し気に応えた。
「う……む。平地……の王よ……久しいな……」
やはりあの角が全ての元凶のようだ。テオドールはそう判断するなり両足に力を込めて空中を蹴り上げる。今までの中でも最速だった。まるで砲弾の様に空中を跳んだ。
だが、突如道を塞ぐように現れた黒い影に気づき、足を止めた。空中にぽっかりと浮かんだ、まるで闇のように先の見えない穴を前にしてテオドールは身構えた。そこから放たれる殺意に対して全神経をとがらせた。
「あれ? 思っていた以上に反応が良いですね。此処を通り抜ければメスケネスト平野まで送って差し上げようかと思っていたのに」
その闇のような穴の裏側から声が聞こえた。男か女かもわからない声だった。ぱちんと、音を立てて影が消えると、声の主が背中を見せて空中に浮かんでいる。とても長い黒髪はまるで夜空を濃くしたかのように黒い。
背を向けていた人物が振り返ると、テオドールに向けて優雅に一礼をする。
「先日は書面にて失礼。改めて、初めましてシュウ王国国王、テオドール・ヴィーランド。私は六将軍第四席。陛下より賜りし名はクリストフォロス」
顔を上げたクリストフォロスの笑みにテオドールはゾッとした。禍々しき金色の瞳がテオドールを射抜く。
「今回の騒動における……黒幕という奴です」
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