3-20 精霊祭 三日目〈Ⅰ〉
昨日よりも色の濃い雲が空を覆う。老人の乾いた肌が空気に含まれる湿気を感じる。長年の人生経験で一雨振る事をウォントは理解していた。
『氷瀑』のウォントは人間種のホビット族だ。一般的な人間種の平均寿命の倍以上を生きる彼はここ数十年程老人の姿を保ったまま冒険者家業を営んでいる。潜り抜けた修羅場の質はともかく数ならこの戦場にいる冒険者の中でも一、二を争う。スタンピードに巻き込まれた事も一度や二度では無い。もっともこれ程規模の大きく、不可解なスタンピードは初めてだが。
彼を含めたA級冒険者は昨日の夜に出席した上流階級向けの庭園会の席上でテオドールから近いうちに増援が来ることを知らされた。この情報は時期を見て発表される。下手に伝えて一時的に士気が上がるだけならいいが、仮に援軍が一日でも遅れればかえって士気が大きく下がる。ここぞという時に使うべきカードだ。
それゆえ、今日という日を一番重要視していた。人は慣れる生き物だ。初日、二日目と生き残り経験を積んだと勘違いした兵士や冒険者が三日目にパタパタと死んで逝くのは有りえる。精神的な緩みもあるが単純に疲労の蓄積による消耗もある。テオドールの方針からすれば援軍が来るというカードを切るのは明日だろう。
だから、精霊祭三日目は防衛側の真価が問われる日だとウォントは考えていた。
防壁の上から集まったモンスターの数や種類を双眼鏡で確認している。黒山の塊は蠢き、唸り声は遠雷の如くここまで届いてくる。
「ふん。ダラズを落とした事で戦力をこちらに大分回しおったな中級が二万。上級が一万。そして……超級が五千といった所か」
大地に空にと犇めいている怪物たちを前にしてウォントは深いため息を吐く。この後に起こる戦いでどれ程の損失が出るかと考えると気が重くなっていた。死ぬのは老兵だけで十分なのに。
―――その時だった。モンスターの集団の後方で赤い何かが飛翔を始めたのは。
ウォントは双眼鏡にちらりと映った影へと視線を向けた。
(……山? いや違う。トロールやオーガよりも大きい―――)
そこまで考えて、彼は思考を打ち切った。視界一杯に吐き出された炎のブレスを見て、全身が震えた。
「全員! 今すぐ防壁から飛び降りろ!!」
ウォントは叫んだが防壁上に配置されている兵士や冒険者は不思議そうに彼を見るだけで状況を理解していない。ウォントは右腕を鞭のように振るい魔法を発動した。
「《超短文・中級・風ノ鞭》!」
右手から伸びた風の鞭が幾重にも分かれ防壁上に居た兵士たちを下へと落としていく。低くない防壁の上から有無を言わずに落とせば怪我をするかもしれないが、このまま炎のブレスが直撃するよりもマシだろうと考えた。
そして左手を振るい次の魔法を詠唱する。
「《超短文・超級・氷河ノ壁》!」
膨大な精神力が消費されていく。膝をつきそうになるのを堪えながら魔法の固定化を急がせる。空気中の水分が凝固していき瞬く間に分厚い氷の壁が防壁を守るようにそびえ立った。
透明な青白い氷の向こうにウォントは炎のブレスを見た。人を簡単に飲み込んでしまうほど大きな塊は一シロメーチルもの距離を進んだにもかかわらず減衰する兆しは無く、悪意を煮詰めたような輝きを放つ。
そして、ウォントの前で炎のブレスと氷の壁が激突した。老人の視界を発生した水蒸気が一気に包む。視界を遮られても彼には状況が手に取るようにわかった。炎が音を立てて氷を溶かし、空気が燃える様に熱くなっていく。彼の渾身の防壁は確実に削られていた。
「だがな! この魔法はここからが本番じゃ!!」
ウォントは自らを叱咤するように叫び氷河ノ壁に精神力を注ぎ込む。応えるように薄くなっていく氷が伸びていき、ブレスを包む様に姿を変えていく。
炎のブレスを包み込んだうえで精神力を注ぎ続けブレスを押しつぶそうと考えたのだ。空いた右手でエーテルの瓶を取り出すと口に流し込む。回復した精神力はそのまま魔法へと変換していく。
―――だけど、人の努力をあざ笑うかのように二発目のブレスが全てを吹き飛ばす。
「ヌ! ヌオオオオオ!!」
ウォントは氷の壁が恐るべき勢いで溶けていくのを感じた。分厚かった壁は今や薄いガラスのような頼りなさを露呈する。咄嗟に残った精神力をつぎ込んで形を変貌させる。このまま真っ直ぐにブレスが進めば防壁だけでなく城壁に、そして街へとブレスが飛んでいく。それを避けるため上方の氷を内側に天板の様に伸ばす。角度を下に向けるように調節する。
もっとも―――こんなのがどこまで役に立つのかウォント自身定かでは無い。
そして、ついに氷の壁が砕けた。ガラスに火の棒を当てる様に中心から溶かしていった炎のブレスは融合し混ざり合い二発分の威力を保ったままウォントの体を焼く。
「がああああああ!」
老人の絶叫すら飲み込まんと炎のブレスは高熱で全てを焼き尽くす。
異変を目の当たりにして撤退を余儀なくされた城壁から全てを見ていたロータスには何もできなかった。まるでマグマに飲み込まれる流木のようにウォントがブレスに飲み込まれたのを見つめた。老人が遺した氷の壁が僅かでも角度を下へと向ける事を祈りながらその場を後にする。
ウォントとロータスの願いが届いたのかブレスは防壁の上半分を焼き、氷の天板によって角度を下にして大地を掠めながら城壁へとぶつかり、弾けた。その場にいた者は、いや、アマツマラに居る全ての人に届くほどの轟音が響き渡る。
まさに人間への滅びを伝える鐘のように響き、誰もが思考を真っ白にしてしまう。惨劇の爪跡を残したブレスは城壁の一部を抉り、存在した証拠の様に炎だけが残る。掠っただけの大地も燃え上がり、黒い焼け跡を残す。そして穴の開いた氷の壁の傍に蹲った老人がぴくりと動き出した。
血は沸騰し左半身が炭化してしまったウォントはそれでも生きていた。死ぬまであと数刻も無いのは自分でも理解している。ブレスに飲み込まれた左腕に刻まれた魔法は失われ、精神力も体をガードするのに使い果たした。
それでも―――彼は諦めない。
「ゴホッ、ガッハァ。……《此処に……在りし……魔法の残滓よ……再び》」
血を吐きながら冒険者は己の技能を発動した。《再演ノ鐘》Ⅳ。大気中に散った精神力を集める事で同じ魔法をもう一度発動する技能だ。対象は自分のそばで発動された魔法。彼は氷河ノ壁を選んだ。
氷が結晶化していく音と共に、氷の壁が土塊の防壁を覆う。空いた穴を埋めるだけでなくその周囲を氷で固めていく。
「……あとは……頼んだぞ……小僧共」
聞こえてくる地響きを最後に『氷瀑』のウォントは死んだ。
ソレは意識を奪われていた。
スタンピードの群れは大概自意識を奪われていたがソレは特に徹底されていた。もとからあった誇り高き古代種としての自我は心の深遠と追いやられ、魔人が複製した魔人自身の精神を植えつけられていた。
故に当人に一切の意識は無い。植えつけられた角が偽りの自我とモンスターたちの自我をコントロールする中継器の役割を兼ねていた。ブレスを放ったのもソレの意志では無かった。
六将軍第四席クリストフォロスの自我の複製品が行った行為だ。人を人と思わない残虐な精神は昏い歓喜を抱きながら奪った体を飛翔させる。眼下では醜き怪物たちが大地を走り、後方では怪鳥たちが空を駆ける。
その先頭に立ってソレは舞い降りた。土で出来た防壁の上、一部が氷で補強された部分にしがみ付く様に捕まる。足元で何かを踏みつぶしたが特に気にならなかった。
「グリュウウゥゥゥ! グガアアアアアア!」
喉を突いて出たのは人語では無く獣の咆哮。魔人は万全を期すため余計な知識を自分の複製品に与えなかった。所詮その精神もまがい物。自分の支配下において齟齬が出ない様に自分と同一の存在を植えつけたに過ぎない。
精霊祭三日目。自我を失った赤龍がアマツマラに姿を現した。
視界の中にそれを捉えた時、あまりにも強大な生き物に思わず目を奪われていた。人はあまりにも強大で圧倒的な物と対峙した時、自己の精神を守る為にワザと認識できなくさせると聞いたが、もしかするとそれに陥ったのかもしれない。
大きさは二十メートルぐらいだろうか。鋼鉄のような赤い鱗が皮膚を覆い、広げた翼は視界に収まりきらない。咢から渦巻く火の粉の残滓が空中で散っていく。百年は生きた巨木のような尻尾が防壁を叩く。そして一番目を引いたのが額から伸びた禍々しい角。
間違いない。あれはシアラが予知した赤い龍だ。
でも―――なんでだ?
精霊祭三日目。戦いは唐突に始まった。まだモンスターは防壁に取りついても居ない。僕は城壁近くの最終防衛ラインにて待機していた時、火山が爆発したような音と衝撃を味わった。もしかすると隕石が近くに落ちればあんな風なのかもしれない。
気を失った僕はホラスに叩き起こされ、大穴を開けた城壁を見た。瓦礫は燃え上がり、大地も黒く焦げた跡を残す。
「何が……何があったんだ?」
「わかんねえ! ただ、気が付いたらスゲエ衝撃と熱い何かがあそこを通った、って。お前どこに行くんだよ!」
ホラスが僕を後ろから呼ぶが気にする余裕は無い。嫌な予感が腹に重たい石の如く圧し掛かる。火の手が上がる瓦礫まで走り寄り振り返った。大地は黒く焼かれている。真っ直ぐに伸びている黒い絨毯を敷き詰めた上に時折見える黒焦げの物体は恐らく人なのだろう。
そこまで考えていたら、思考を遮るような絶叫が耳を貫く。思わず両手で耳を押さえた。
そして―――見てしまった。防壁の上で絶望を振りまこうとする龍の姿を。
(どうしてなんだ!? シアラの予知じゃ龍が現れるのは夜のはずだろ!? 予知が外れたのか? それとも……)
思ってもいない展開に動揺して思考が乱れる。恐怖と不安が冷静さを削っていく最中、背後から声が掛かった。
「レイさん! 何をやっているんですか! 来ます!!」
理知的な声に聞き覚えがあった。振り返ると都市内の遠距離部隊を率いてるロータスさんがそこに居た。怜悧なエルフは弓を引き絞って僕の方向へ向けていた。
彼女が何を警告したのか理解できたのは―――龍に飲み込まれてからだった。轟音と共に低空を飛翔した赤い龍は何故か僕を口に咥えて再び空を駆けあがる。
「うわああああ!」
「レイさん!!」
一気に上昇した勢いで体に重力が掛かる。頭から食われたため天地が逆さまになり、龍のぬめりを帯びた口内と向き合う。龍の牙が鎧を砕かんと力を込める。だけどニコラスの施した《耐久の加護》が牙を辛うじて堪えた。
幸か不幸かこの加護のお蔭で牙による即死は免れた。だけど代わりに《生死ノ境》Ⅰは発動しなかった。あれは即死級の一撃に対してしか発動しない。
―――だから、加護が切れた瞬間世界はスピードを失う。
バキンという音を合図に《生死ノ境》Ⅰが発動した。あと数秒もしないうちに鎧は砕け剣よりも鋭い牙が僕の胴体を噛み千切るだろう。僕は手にしたバスタードソードを龍のピンク色の歯茎へと差し込んだ。
「ガアアアア!!」
口内を震わす悲鳴が音の爆弾の様に僕を襲った。龍の口内で爆音が反響する。次に何をするべきかなんて考えは吹っ飛んでしまった。
閉じていた口が痛みで開いたのに僕は何もしなかった。何かをする余裕なんて無かった。体が重力にしたがいぐらりと下へ。つまり、龍の口内へと落ちていくときになってやっと自分の失策に気づいた。はるか頭上に見えた光は再び閉じてしまう。
「くそったれええ! 出せ! 出せよ!」
龍の食道は捕まる所なんて無く、僕を下へ下へと追いやっていく。バスタードソードは口内に置いてきてしまい、ダガーを抜こうにも狭い食道によって腰に手を回せない。出来る事なんて悪態を吐くだけだ。その間も龍は暴れまわってるのか重力が僕の体を縛りつける。
何もできないまま僕は滑り落ちて、そして一際広い空間へと落ちた。
「うわ……っぷ。何だ此処は……濁った液体?」
食道から落ちた僕は縦に長い空間へと辿りついた。そこは腿まで液体が溜まり、何処かつんとした匂いがした。薄暗い空間にぷかぷかと浮かぶ燃えた切れ端などが浮かんでいなければ真っ暗な闇の世界だった。
「おいおい、食道の次ってことは……」
嫌すぎる想像が頭を過った。ふと、ブーツが何か硬い物を踏みつける。黄色く濁った液体は上から下を見る事は叶わない。意を決して液体へと沈んだ。
瞬間、激しい痛みが皮膚を襲う。まるで皮膚を小さな生物に食われるような熱い痛みが走る。それに耐えながら足元の物体を掴んで浮上した。
「ぷはぁ! つうう! これは……盾かよ」
僕が拾ったのはアマツマラの兵士が使っていた盾だ。もっとも殆どが溶けてしまい、盾の中央に刻まれた紋章らしきものしか残っていない。これで確定だ。僕の皮膚を焼く痛み。金属製の盾が溶けた事。そして食道の次の内臓といえば一つしかない。
「クソったれえええ!! 胃かよ!!」
黄色い液体、酸は徐々に僕の鎧を、衣服を溶かしていく。どうやら肉や髪を溶かす方が早いようだ。先程潜ったわずかな時間で僕の頬は酸によってダメージを負っていた。このままだと足元から溶けていく事になる。
思わず、ゾッとした。僕は咄嗟に腰のダガーを抜くと胃壁へと向かって進む。途中様々な内容物……溶け残しが足先に触れたが構っている暇は無い。
ダガーをピンク色のつやつやした胃壁へと突き刺す。此処から出るには中から進むしかないと思ったのだ。でも、それは間違いだった。
胃の中を大きな振動が襲った。きっと龍が体の内から傷つけられたことでのたうち回っているのだろう。結果、腰まで溜まっている胃液が津波の様に僕を襲う。
「があああ!」
皮膚が泡立つような音を発して溶けていく。もうすでに頬は筋肉を外気に晒している。髪に絡まった胃液が頭皮を溶かす。このままいけば頭蓋に穴を開けられるかもしれない。もっともそれよりも先に下半身が無くなるだろう。すでに脚甲の内側、ズボンは溶け両足は無数の焼き鏝を押し付けられたような痛みを脳に送る。皮膚から始まり、次第に筋肉、神経、そして骨まで達する痛みになる。
僕はもう一度ダガーを振りかざして―――柔らかい手応えに硬直した。
ダガーを見れば黒く鈍色の輝きを放っていた刀身は刃先が崩れ落ちていた。
「何でだよ! 盾や鎧は未だ持ってるだろ! 刀身だって金属製……じゃないか」
口に出しながら思い出した。このダガーはバジリスクの牙を主体に作られた武器。カルシウムが主材料だ。こんなに早く溶けるのも納得できなくも無い。ボロボロと崩れ落ちるダガーは胃液へと飲み込まれていく。
万策尽きた僕はせめて上を目指す為に胃壁へとしがみ付いた。
―――もう下半身の感覚なんて曖昧なのに。
神経は痛みを発しすぎて焼き切れた様に何も感じなくなった。胃壁に爪を立てるが指先にも力が入らなくなった。死を前にして、その時になってようやく思考が冷静になった。なぜか今までで一番揺れる龍の体内で、予知が外れた原因を考え始めた。
そして、答えが出せないまま、僕は酸の沼に沈んだ。
★
熱い。
僕は火の大地を走り回る。大火は素足だけでなく全身を常に燃やす。火だるまになりながら走った。
せめて火のない所へと。体の内と外を燃やす炎は何処までも容赦なく追いかける。眼球は幾度も弾け、皮膚は幾度も剥がれ、筋肉は幾度も炭化し、神経や血管なんて燃えカスに至る。剥きだしとなった髑髏だけが地獄のような大火に炙られる。
そしてその度に僕は人の形を取り戻し、再び火だるまになる。
無限地獄の中を彷徨う幽鬼のように。
★
「―――っうわああああ!!」
「うおっと!! 少し黙れ、F級!」
全身を焼かれるイタミで目を覚ました。視界を遮る影に向かって拳を振り回すが簡単にあしらわれる。乱れた呼吸が落ち着くのに合わせて影の正体がホラスだという事に気づいた。どうやら無限地獄から抜け出せたようだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……。ホラス……だよな」
「そうだよ。落ち着いたか?」
「ああ、うん。大丈夫だよ」
周囲を見渡せば、衝撃波で吹き飛んだ冒険者や兵士たちが起き上がり始めていた。どうやら僕は今回も《トライ&エラー》で死に戻った。残念なのは起床した時刻では無く、意識を一度失った後の時刻に戻った事だ。もう少し前に戻れればオルドに警告を出せたのに。
(いや、それはそれで流れが、未来が変わっていた可能性もあるか。いや、そもそも何をしてもどんな対策をしても龍が来るのが今だったとしたらどんな選択肢を選んでも同じ未来に収束する……ああ!)
そこまで考えて自分の愚かさに思い至った。シアラの予知が間違ったんじゃない。きっと、いつの日の夜なのか分からないけどどこかで僕は冒険者と共に龍と対峙する。それはその間にどんな選択を選んでもその未来に収束するのが決まってるだけで、決して龍とその時になるまで遭遇しないことにはならない。
そして、リザやレティ、それにシアラや予知に出てくる冒険者たちはこの場では死なない。どんな選択肢を選んでも死なない。
でも、僕は《トライ&エラー》を駆使してその未来を選択しなければならない。それが死ぬことを許された人間の代価の様に。
あの龍を相手に。この戦場を舞台に。
近くにまで聞こえる地響きと相まって、やっぱりこっちも地獄じゃないかと痛感した。
読んで下さってありがとうございます。
次回の更新は10月26日を予定しています。




