11-8 打ち上げ
扉が開かれる直前、コウエンは溶ける様に人の形を崩し、スライムとなってエトネの足の間に収まった。
現れたのは、ここまで案内してくれたギルド職員とは別の職員だった。雑務を請け負う職員よりも仕立ての良い制服を来た壮年の男性が入室する。
だが、全員の視線は彼の後ろに居た人物に向いていた。続いて現れた大きな影に、レイ達は驚きで目を見開いた。
何故なら、現れたのはオルドだった。どうしたのか、と尋ねようとしたレイに岩を削ったような厳めしい顔の男は、鋭い視線で目配せをした。
黙っていろと暗に伝えていた。
「お待たせしました。ただいま、臨時審議会の方が滞りなく終わり、《ミクリヤ》所属のレイ様、エリザベート様、シアラ様、レティシア様、エトネ様のC級昇格に関する審議に結果が出ました」
思っていた以上に速い結論に、レイは妙だと感じた。
この手の話し合いで結論がスムーズに出るという事は、最初から結論ありきで議論が行われている可能性が高い。そう考えると、オルドがこの場に居る意味が読めてきた。
「昇格審議会は先の五名の昇格、並びにパーティーの等級をC級と認める事に致しました」
わっ、と喜びの声が上がった。
C級昇格を目標に頑張ってきた訳ではないが、それでも自分たちの積み上げてきた物が評価されるのは素直に嬉しかった。喜びに沸く中、職員の説明は続いた。
「C級に昇格されました皆様方は、これから先上級冒険者として見做されます。下位冒険者だった時には受けられなかったクエストや、ギルドに秘蔵されている書物など、様々な面で優遇されます。しかし、それは新たな責務を負う事と引き換えだと認識してくださいませ。これから先、思いがけない困難を前にした時、戦えない人々の為の退くことのできない壁となって貰います」
重々しい宣告にエトネがごくりと唾を飲み込んだ。
かつて、アマツマラで起きたスタンピードの時、C級以上の冒険者たちは優先的に壁外へと送りこまれた。四方八方から敵が押し寄せてくる、迷宮とは違った死地。戦いの混乱で、レイも一度は足を踏み入れてしまった。正直、魔法工学の兵器が無ければ死んでいても不思議では無かった。
C級に昇格するというのは、真っ先に死地へと飛び込む覚悟を持たなければいけないのだ。
「C級に関する訓令書、並びにギルドで受けられる優遇措置に関してまとめた書類はこちらにございます。あとでお読みください」
渡された紙の束がやけに重たかった。
「お堅い話はここまでです。……昇格審議会では、貴方がたの若さや結成してから一年未満という短さが問題視されましたが、こちらの『岩壁』のオルド様の一言で反対意見は退けられましたね」
「なに、《ミクリヤ》の連中とは何度も死線を潜り抜けてきたんだ。若さゆえの危なっかしさは認めるが、これまでの活躍はまぐれなんかじゃない。立派にC級の看板を背負えるに足る人材だと考えただけだ」
「その言葉が強力な後押しになり、審議会は幕を閉じました。では、レイ様達五名は改めてC級にプレートを更新いたしましょう」
職員が言うと、手にあった水晶玉をテーブルに置いた。レイ達は自分のプレートを置くと、順番に更新をしていく。真新しく刻まれたCの文字が、どこか誇らしげに輝いていた。
「それでは、私はこれで失礼いたします。この部屋は、このままで構いませんので」
そう言って、職務を終えた職員は部屋を退室する。残ったのは、《ミクリヤ》のメンバーとオルドだ。
扉の前を陣取った大男に、レイは頭を下げた。
「ありがとうございます。僕らの昇格の為に骨を折ってもらって。そのために無茶までしてもらって」
「ん? 何の事だ」
恍けるオルドに対して、エトネがどういう事だろうかと首を傾げた。
「オルドさま、何かしたの?」
「そうね……さっき、入り口で『紅蓮の旅団』の冒険者と会った時に、強行軍で地上を目指したって言ってたのは覚えているかしら。推測だけど、オルド様はワタシ達の審議会に出席するために大急ぎで地上を目指したんじゃないかしら」
シアラの推測に、その事に気づいていなかったエトネとリザが驚きと戸惑いを浮かべた。
『冒険王』の言葉を記した冒険の書において、迷宮は潜る時よりも地上に戻る時の方が危険だと書かれている。行きは体力も気力も漲っており、集中して探索が出来る。しかし、帰りはどうやっても万全の状態は望めない。迷宮内で休息を取り、食事をバランスよく摂取できたとしても、体力と気力は完全には回復できないし、一度通った道だからと注意が散漫になりやすい。ギルドの統計でも、冒険者が重傷を負う確率は、行きよりも帰りの方が高いと出ている。
地上への帰還の重要度と危険度をオルドが知らない訳がない。それなのに強行軍を行ったのには何かしらの理由があり、今の時点で最も高い可能性がレイ達の昇格に関する昇格審議会に参加するためだと推測した。
禿げた頭を指で掻いていると、オルドは観念したように口を開いた。
「レイ、お前に忠告しておくが、人の厚意ってやつは黙って受け取るのが礼儀だ。わざわざ言葉にされちまうと、ええかっこしい事した俺が気恥ずかしくなるだろ」
その返答は、シアラの推測が正しいと暗に認めていた。
「昇格審議会の慣例で、B級以上の冒険者の出席を求めて、意見を聞くことになってる。学術都市だから、俺以外にもB級以上の冒険者が居るから、先乗りして俺にお鉢が回るように裏で手を回しておいたんだ。けしかけた俺なりに、援護射撃をしてやろうと思ってな。もっとも、お前らがボスを撃破して、この時間帯に来るかどうかは賭けだったがな」
「そうだったのですか。ありがとうございます、オルド様」
リザが頭を下げると、他のメンバーも頭を下げる。オルドは面倒臭そうに手を振った。
「いやいや、気にするな……と言いたいところだが、義理堅いお前の事だ。どうせ、どこかでこの礼を、と考えているんだろう。いや、考えてないはずがない」
「……え?」
オルドは自分の言葉にそうだ、そうだと相槌を打つ。急に始まった一人芝居に、全員が困惑したが、オルドの即興劇は止まらなかった。
「どうしても礼がしたいと言うなら、俺も受け入れる度量ってもんはある。そこでだ、レイ。お前ら、この後は暇か?」
「え、えっと。まあ、暇と言えば暇ですね。武器の手入れとかは、明日以降に持ち込めばいいですし、こまごまとした用事も、すぐに片付けないといけないのはありません。……だよね。あとは、屋敷に戻ってささやかな慰労会でも開こうかと考えてたけど」
リザとシアラに確認を取ると、二人は首を縦に振った。その反応に、オルドはしめしめと言わんばかりに唇を吊り上げた。
「よし! なら、丁度いいな! 合同訓練会の打ち上げをするぞ。ついでに、お前らのC級昇格を祝う会だ」
「そんな、祝ってもらう様な事じゃ。それに、それがお礼になるなんて」
「あ?」
「いえ、参加させて頂きます」
断わろうとしたレイだが、オルドの体から立ち上る殺気に前言を翻す。超級ボスモンスターと正面から切り結べても、この男の前に立つのはまだ無理だ。
「よしよし。それじゃ、後で俺達の借りている宿の隣に来い。食堂を貸し切って、夜通し飲み会だ! 屋敷に戻って埃を落とすのも良いが、レイ。お前さんは完全装備の状態で来いよ。最悪、龍刀だけは持ってこい」
「ちょ、ちょっと待って。ただの打ち上げに完全装備って?」
「なーに。その方が新進気鋭の若手冒険者っていう、名刺代わりになるだろ。それじゃ、頼んだぞ!」
がははは、と笑い声を上げてオルドは出ていってしまった。呆気にとられたレイ達は、どうすると顔を見合わせた。
結局、レイ達は打ち上げ会に参加する事になった。先輩の誘いを断れないという冒険者特有の上下関係もあったが、ギルドを出る時に会ったロータスからも出席を求められたのだ。流石にロータスの頼みは断わり辛かった
屋敷に戻り、荷物を置いて、汗や汚れを軽く落としたら黄金の小鹿亭に到着した。ちなみに、コウエンは面倒の一言で誘いを切って捨てた。
ラフな格好をしたリザ達とは反対に、再び鎧姿になったレイを出迎えたのは飾り付けられた店内だった。華やかで、並べられた料理は豪華で、厨房から漂ってくる匂いに知らずの内に高揚感があった。
「おう、来たな。団長、レイ達が来やしたぜ」
「そうか。なら、全員着席! レイ達はあっちのテーブルを開けておいた」
オルドの声が響くと、それまで騒めいていた室内がピタリと静かになった。流石は六十人を超える冒険者たちを纏める団長だ。
レイ達が席に着いたのを見計らって、杯を持ったオルドが声高に開催の挨拶を始めた。
「あー、堅苦しい挨拶は苦手だが、今日は身内以外にも来てもらっているんだ。団長として、少しは真面目な所を見せろと鬼の副団長から言われているんで、ちと真面目に話させてもらう」
自分たちの事かと思ったが、室内の端に見慣れない背格好の人物たちが居る事に気づいた。装飾品の多い、まるで商人のような身なりをした男たちだ。
「今年は大きな躍進と変化があった年だ。俺がA級に昇格した事で、クランの等級もA級に上がり、冒険者のトップが見える位置に昇りつめた。……その道のりは険しく、平坦じゃなかった。倒れて置いてきた仲間だって居た。だが、過去を見つめていちゃ、前を向いて歩くことはできねえ。仲間の誇りを胸に、俺達は進むんだ。今ここに居る仲間共への感謝と共に、乾杯!」
「「「乾杯」」」
乾杯と唱和が続き、杯が触れると打ち上げが始まった。最初はそれぞれ割り振られた席に座っていたが、場が盛り上がるにつれて席の移動が始まり、あるいは床に直接座ったり、こっそりと抜け出したりと各々が勝手に行動を取っていた。
レイ達も知り合いに挨拶をしに言ったり、逆に挨拶を受けたりして、いつの間にかバラバラになっていた。すると、オルドがレイを呼んだ。
「どうかしたんですか。……こちらの方々は?」
オルドとひざを突き合わせて飲んでいたのは、開始の挨拶前に見かけた商人だった。男は軽く頭を下げると、
「コストロール商会番頭のボンゴレと申します。『紅蓮の旅団』とは長い付き合いをさせて貰っております、はい」
と、丁寧に自己紹介をした。
「初めまして、《ミクリヤ》所属の『緋星』のレイです」
「ええ、ええ、存じ上げています。いま、ギルドでも話題の名うての冒険者。そちらが、かの『鍛冶王』が手ずから打った武具、龍刀ですか。いやはや、聞きしに勝る迫力ですな。それに聞きましたぞ、C級に昇格したとか。これを縁にお近づきになれればと思うのですが、如何ですかな、はい」
言いながら、ボンゴレはレイの両手を握る。冒険者とは違う商人の手にレイはどう返事をするべきか困ってしまう。
「おいおい、ボンゴレ。有望な若者を見たら、すぐに声を掛けるのはお前の悪い癖だぞ。レイ君、こんなおっさんには気を付けろよ」
「えっと……貴方は?」
ボンゴレの隣に居た赤ら顔の男が割り込んできた。恰幅の良いボンゴレに比べれば、体は分厚く、鍛えられた肌がシャツの襟もとから覗いていた。
「おっと失礼。カルバントライン商会の番頭、オスカーだ。元冒険者だが、膝をやってしまってな。何か入り用だったら、いつでも声を掛けてくれ」
がっちりと交わされた握手からは、力強さを感じた。どうやらオルドを囲う様に集まっている男たちは、『紅蓮の旅団』と親しい間柄か、あるいは支援者のようだった。その後も、どこそこの商会の人間だの、貴族の名代だのと名前が続く。酒が入っているせいか、名前と顔を一致させるのに一苦労だ。
「今日はこれて良かったです、はい。あの『緋星』とこうして顔を合わせる機会が持ててね、はい。ありがとうございます、オルド殿、はい」
「がはは! この人気ぶりじゃ、俺からレイに乗り換える奴らが出てくるかもしれんな。……さて、皆の衆。ちと、上で飲み直そうじゃないか」
オルドが上と言ったのは、食堂の二階席だ。急な提案に戸惑うレイとは逆に、オルドの知り合いたちから反対意見は出ずに、彼らは二階へと上がっていく。まるで予定調和のような流れだった。
レイは席に残って見送っていると、ロータスが水を持って隣に座った。
「お疲れ様です、レイさん。うちの支援者は……色々と濃い方々ばかりで、気疲れしたのではありませんか」
「いえ、そんな事は……もしかして、この打ち上げは僕を紹介する場だったんですか?」
ふと思いついた疑問を口にすると、ロータスは半分あたりですと答えた。
「会そのものは、純粋に打ち上げという意味もあります。一月近く迷宮を潜っていたメンバーたちを労わるのが主たる理由です。そして、レイさんたちが昇級したことを祝いたいというのも本心です。ですが、それらとは別に、ある目的があったのも事実です」
「というと?」
「あの方々には、ファルナ奪還の為にこの一月、いえ、私どもが学術都市に来てからずっと動いてもらっていたのです」
ファルナの名前を出されて、レイの頭が幾らか冴えてきた。
『紅蓮の旅団』団長のファルナは法王庁から依頼を果たした直後、何故か聖都に残る決断をした。『紅蓮の旅団』にあれだけ拘っていた彼女がクランを抜け、神学校に入った理由は分からず、まるで別の誰かが乗り移ったかのような変貌ぶりだったと、現場に居たマクベたちは言っていた。
「あの方々と、これからいらっしゃる方たちは、聖都に対して物流や人の移動、神官たちの権力図や神学校でのファルナの様子などを調べて頂いてます。今日はその報告と、今後の方針を打ち合わせする場でもあるのです」
「……もしかして、『紅蓮の旅団』と《ミクリヤ》で合同の打ち上げ会を開いて、支援者たちを呼んで引き合わせたのは、法王庁の眼を誤魔化すためですか?」
「その通りです。ファルナを巡り、法王庁と対立している私達は、この学術都市内でもある程度監視されていると睨んでいます。下手に支援者たちを集めると、こちらの行動を不審がられ警戒されるかもしれません。今回彼らが集まったのは新進気鋭の冒険者と顔を合わせる絶好の機会だから、という事になっています」
それであれだけ来るように圧を掛けていたのか、とレイは納得した。
「申し訳ありませんが、この後も団長が会わないといけない支援者がやってきます。レイさんはこの後もしばらく残ってもらう事になりますが、それで宜しいですか?」
「構いませんよ。ファルナの事は、僕も気になっています。力になれるのでしたら、この名前をいくらでも使ってください」
気前よく言うと、ロータスの表情が少しだけ和らいだ。
「ただ、エトネとレティが体力的に限界を迎えてきているんで、他の皆を先に帰しても良いですかね」
視界の端で、うつらうつらとし始めた頭が二つあった。美人のクロノを守る為に無邪気な子供という壁としてそびえていた二人だったが、流石に疲れからか眠たそうにしていた。
そのクロノも、そしてリザやシアラも眠そうにしていた。
どうやら限界が近いようだ
夜も更けてきたが、『紅蓮の旅団』の冒険者たちは元気だった。ベルドランドを筆頭に、酒盛りは賑わいを更に加速させていた。ついて行けなくなった若手冒険者たちの屍が床を埋めていくのは無視されていた。
レイは首を縦に振ったロータスの前を辞して、リザとシアラ、ヨシツネを呼んだ。
「どうだい? 打ち上げは楽しめたかな」
「はい……ですが、流石に疲れましたね。レティ達も限界が近そうです」
「なに? そろそろお開きになりそうなの?」
眠気眼をしているリザとシアラに、レイはちょっと違うと前置きしてからロータスから聞いた話を繰り返した。
「という訳だから、僕は偽装工作の一環としてこの打ち上げ会に最後まで参加しなくちゃいけない。でも君たちは付き合う必要が無いから、先に屋敷に戻ったらどうかな」
「私達、だけですか? レイ様はお一人で残られるのですか?」
「拙者がお付き合い致しましょうか? 学術都市とはいえ、酒気を帯びた主殿を一人で返す訳には行きませぬ」
従者としての使命感に燃えるヨシツネだが、彼も疲労の色は濃い。むしろ、迷宮というこれまでに体験した事の無い種類の環境に一月も潜っていたのだ。修羅場に慣れているとはいえ、疲労は溜まっている。
「心配ないよ。僕はこのまま、隣の宿の一室を借りさせて貰う。帰るのは明日の朝……いや、昼になりそうかな、この感じだと。いいですよね、ロータスさん」
「構いません。空き部屋ならまだあります」
「許可も出たから、僕は泊まらせてもらうよ。だから、ヨシツネも屋敷に戻って休養を取ってくれ。これは命令だよ」
冗談めかして言うと、ヨシツネは重々しく受け止めた。
「了解です。それで、明日はどのように動きますか? 完全休養に宛てますか」
「それは止めておいた方がいいんじゃないかしら。もう年末も近いから、あと数日もすれば店が一斉に休業しちゃうわ。その前に年を越す準備をしなくちゃ」
どうやら、エルドラドも年末年始はお店が休みを取るようだ。コンビニなんて便利な物の無いこちらの世界で、準備が整わない内に店が休みになれば寂しい年明けになってしまう。
「なら、年を越す準備をお願いするよ。防具とかも明日の内に出せば、年を明けてすぐに戻ってくるかな。それと食料品の買い出し。ああ、それにキュイも預け所から引き取らなきゃ。それと……年が明ける前にナタリカ博士の所にも顔をさないとね」
「げぇっ」
「そんなに嫌そうな顔をするなよ。迷宮から戻ったっていう報告と、進捗状況を聞くぐらいの事はしないとね」
「うーん……まあ、分かったわよ。それじゃ、そう言ったこまごまとしたことは、ワタシ達がやっておくわ。それと昼になったら誰かが迎えに行くから。それで良いでしょ、リザ、ヨシツネ?」
シアラの言葉に反対意見は出なかった。三人は遂に眠ってしまったレティとエトネを抱え、クロノを伴って宴席からこっそりと抜け出した。
その代りと言わんばかりに、新しい人物が食堂を訪れ、レイは挨拶に追われ、その度に酒を注がれていく。器を空にする為に、無理に飲んでいくうちに意識は遠ざかって行った。
「ああ……天井が……ぐるぐる、してきたぞ」
その言葉を最後に、彼の体はゆっくりと後ろに傾き―――。
―――ずきん、と。
割れんばかりの痛みで跳び起きた。
「っぅううう。……すげぇ、痛い」
苦悶の声すら、今のレイにとっては痛みを盛り上げるSEにしか聞こえなかった。頭の中で、雷雲が轟く。ちょっとの振動で稲妻が落ち、激痛となって暴れ回っていた。
みしり、と。下にあったベッドが軋んだ。どうやら、食堂から宿屋のベッドへと移されたようだ。記憶をひっくり返しても、最後の記憶はおぼろげで、定かでは無かった。
「うぇ。……吐く息で吐きそうだ」
胸は焼けた鈴を呑んだように、不快感と熱さが拭えずにいた。レイはベッドを起き上がって近くにあるはずの水差しを取ろうとした。ところが違和感に気づいて動きを止めた。
「……随分と、シンプルな部屋だな。それに汚いな」
言葉通りである。
宿屋と思しき部屋はベッドが一つしかない。内装は所々壁紙が剥がれ、染みが人の形を作っている。ベッド自体もかび臭く、日の光で干していないシーツが不快感を増した。
妙だな、とレイは痛む頭で考えた。
『紅蓮の旅団』が貸し切っている宿屋は、最高級とまではいかなくても、それなりのグレードの宿だ。屋敷が決まるまでしばらく間借りしていた部屋は、収納棚やハンガーなどが置かれており、シーツも数日おきに必ず干していた。少なくとも、年単位で干していないようなシーツは使っていないような宿屋だ。
他に何かないかと視線を巡らせると、窓の外の景色を見て背筋が凍った。
心臓が止まったような衝撃を受けた。
あの光景は、見間違えるはずが無かった。忘れるはずが無かった。
なぜなら、ほんの半日前に通り過ぎた光景なのだ。
「……どういうことなんだ」
ポツリと呟いた言葉に、誰も返答はしない。レイは窓に駆け寄ると、勢いよく開け放った。途端、五感を刺激するのはあり得ざる街の情報だ。
天は蓋をされ朧げな明かりが偽の空を生み、街行く人々のほとんどが冒険者で、地上から持ってきた材木や魔法工学の道具で作られた文明の街が広がっていた。
街の名前はエンドスポット。
学術都市大迷宮ラビリンス中央部上層ボスの間手前のセーフティーゾーンにある、迷宮の街だ。
読んで下さって、ありがとうございます。




