2-33 百鬼夜行の地獄絵図
闇夜の中。青い月に照らされた大地を黒い影が進む。
人では無い。
醜悪な殺意をまき散らし、興奮から荒くなる呼吸を出来る限り抑え、人に理解できない言葉を用いる集団。
それはモンスターの集団だった。
いや、それを単なる集団と呼ぶには相応しくない。
人と似たような姿を持つ種には体格に合わせた剣や槍、石斧や槌矛を握りしめ、体を守る防具を身に着ける。
四足歩行で進む種には鞍が着けられ、その上にモンスターが手綱を握りしめ騎乗している。時折、集団からはぐれては大地を疾走し辺りを偵察しては本体に戻る。
遅れて最後尾を進む巨大な体格を持つ種は、その巨体故に様々な種族のモンスターを体に乗せる。自分よりも遅く、行軍から離れていくものを拾い上げている。
これはまさしくモンスターの軍だった。規律良く、足並みを揃えて進む姿はまるで、歴戦の騎士団を思い起こすようだった。いくつかは自分たちで作ったのだろうが、中には血で赤く染まった物もある。
人が見れば卒倒するだろうおぞましき光景だ。黒い影にしか見えない集団は山の麓に沿って移動しているが、それを遠くから見ると例えるなら黒い川のようだった。黒い影は途切れることなく繋がっている。
延々と、繋がっている。
数えようとするのが馬鹿らしく思えるほど長く伸びていた。彼らは一心に進む。決して歩みを止めようとはしない。
最初に黒い影に気づいたのは山の民だった。
バルボア山脈の中腹。国家の枠組みから外れた山岳民族。古くは平地で暮らしていたが今に至るまでの間に滅びた国の末裔が山に逃れたり、犯罪を犯し都市では暮らせなくなって逃げてきた者で形成された部族が山脈にはいくつも存在する。
彼らは身内の結束を非常に大切にし、常に外敵を恐れて警戒する。特に精霊祭が北の大都市で行われるにあたり、警備の為に自分たちを排除するかもしれないと考え、ここしばらくは夜間に麓の木々に若者を見張りとして麓に置いていた。
この部族は基本的には狩猟を営むことで生きていたが時折、木彫りの面を被ってはキャラバンを襲い食料などを奪う山賊行為にも手を染める。
そのため、年若い者でも手を汚した経験を持ち、場馴れしているといえた。
そんな彼らでさえ目の前を緩やかに進むモンスターの軍を見て動揺と混乱と、何よりも筆舌しがたい恐怖を味わっていた。
見張りをしていた青年は木の枝から足元を流れる黒い川を凝視していた。
隣の見張りが唐突に音を立てる。歯の根が合わず、固い音が響く。咄嗟に同じ年の親友の口を押える。同時に青年自身の口も押える必要があった。
目の前を流れていく幾千のモンスターの足音でこんな音は掻き消えるはずと理性は訴えているが恐怖で壊れてしまった本能が僅かな音でも立てて気づかれる方を恐れた。
しばらくしてから体の震えは収まってきた。恐怖を克服した訳では無い。精神が受け入れられる許容量を超えて麻痺したのだ。
胸元を滑り落ちる汗を不快に思い服で拭った。その際に固い異物が青年の手に触れた。
それは常に胸から下げている首飾りだった。動物の爪に穴を開け糸に通されて幾つも連なっている。その中央の爪には族長が特別に煎じてくれた粉があったのを思い出す。
ゆっくりと慎重な手つきで爪を取り外し、中に詰まった紫色の粉を鼻で吸った。
いつも、仕事に取り掛かる前に行っている儀式だった。これをすれば恐怖が薄まり、気が強くなる。欠点はその後に来る気だるさや頭痛だがこの際贅沢は言っていられない。
足場にしている木の枝の下を流れる黒い川に飲み込まれれば、生きて帰れるはずが無い。その恐怖から逃げるために吸い上げた。
刹那の間を開けて、脳が甘く痺れる。視界に光が弾け、精神が高揚していく。隣を見れば同じように粉を吸い上げた親友が居た。
涎を垂らし、目が虚ろになり焦点が合わなくなる。
(―――こいつ! 吸い過ぎだ!!)
気づいた時には手遅れだった。
親友の体から力が抜け、足場にしていた木の枝から滑り落ちた。咄嗟に伸ばした手は彼の体を掴むことなく空を切る。
闇夜でもはっきりと見えた。
粉の影響で現実をちゃんと正視できなくたった親友が黒き濁流へと飲み込まれていくのを。
少し遅れて肉が落ちた音が聞こえ、その直後に人の理解できないモンスターの会話が響く。そして、耳を覆いたくなる食事の音が続いた。
木の枝から全てを見てしまった青年は緩やかに後退を始めた。
今は文字通り落ちてきた御馳走に意識を取られているが、もう少しすればモンスターの小さな脳みそでも違和感を感じてここを調べるだろうと考えての逃亡だ。
ほんの数メーチルの距離が途轍もなく遠く感じる。踏み外さない様に少しずつ動かす足が止まってさえいるようだった。
(さっさと動け、動け、動け、動け!)
心の中で自らの足に叫んでいた。
その動揺が枝に伝わったのだろうか? がさり、と立ててはいけない音がしてしまう。
恐怖に心臓が掴まれる思いだった。
黒い濁流としか見えなかった影たちに変化が起きていた。黒一色の川に星が輝きだしたのだ。
―――違う。
あれは星なんかじゃない。モンスターの目だ。赤や黄や青や紫や緑。他にも様々な色の目が上を、つまり自分を捉えようとしていた。
色の異なる目にたった一つ共通していることがあった。それは悍ましいほどの殺意だった。
「―――ひぃぃぃいいい!!」
気が付くと、凍り付いたように動かなかった足がバネのように跳ね上がり、枝を駆け下り斜面を駈け上げていた。
背後から人に理解できないモンスターの怒気を込められた声と、森を駆け上げる振動が響いていく。
「お、追ってきた!!」
全身を死の恐怖が捉えて離さない。目を瞑れば瞼の裏に過るのは川へと落ちていく親友の最期の顔。思えば彼は幸せだったかもしれない。粉の影響で恐怖を感じずに死ねた分、幸せと言えよう。
今の青年のように自らの恐怖で押しつぶされそうになる思いだけは感じなかったはずだ。
揺れに合わせて首元の飾りが肌を叩く。いっその事自分も粉を一気に吸って死への恐怖を感じずに死のうかと思い始めた。
震える手を爪に伸ばしかけて―――下ろした。
「違う! 俺はこんな所で死んでいる場合じゃないんだ!!」
脳裏に過ったのは残酷な未来では無く、輝くような未来だった。見張りに立つ前に夜食を渡してくれた幼馴染の事を思い出した。
照れた様子で夜食を手渡してくれた彼女とは次の月に結婚する。
部族の中でも見目麗しく、高嶺の花を射止めたなと周りから囃された。今が自分の幸せの絶頂といえた。
甘美な死の誘惑を未来への思いが断ち切る。
その覚悟の表れのように下ろした手は首飾りを握り、力を込めて引きちぎった。勢いに任せて粉の入った首飾りを放り投げた。
すると、全身を縛っていた死の恐怖が一緒に引き千切られたようだった。身が軽く、足が回り、浅い呼吸を繰り返していた肺が落ち着いていく。
恐怖を感じなくなればこちらの物だ。
足に精神力を回して強化すると風のような速度で斜面を駈け上げる。背後から聞こえてきた死の足音は遠くに消えていった。
(だけど、このまま村に戻ったとしてどうする? 村の戦力じゃ、あのモンスターの群れと戦うなんて到底できっこない)
生きられると思えたら、思考を回す余裕が出てきた。我ながら現金な物だと思ってしまうが仕方あるまい。
(そもそも。アイツらはどこから来たんだ。南から北上しているって事は―――)
冷静に分析を開始していた思考を中断させる。横合いの草むらから音がしたからだ。遅れて何かが迫って来る気配も感じた。
足を止めて腰に提げている幅広のマチェットを掴んだ。
意識を集中させ、こちらに走り寄って来る敵を討とうとして、
「―――てぇ、ちょっと待て!」
と、聞き覚えのある声が暗闇の向こう側から響いた。
軽快な足音が響き、木々を蹴り上げて自分の間合いを飛び越えた影が背後で着地した。
「俺だよ、俺」
咄嗟に振り返るも、すでに手はマチェットから離れていた。背後で着地した影は自分と同じく見張りとして山の麓を見張っていた者の一人だった。
着地の衝撃から回復した男は足を軽く回した。しかし、目だけは油断なく周囲を確認する。
「お前も見たか?」
何を、とは問う必要も無かった。代わりに小さく頷く。それだけで相手にも通じたようだった。
「あれって……やっぱり」
「ああ。スタンピードだろう」
言葉を濁した男の代わりに断言する。村の老人方から聞いていた過去の事例にそぐわないが、あれだけの多種多様なモンスターの群れ。他に思いつくことは無かった。
男もそうなのだろう。青ざめた顔に流れる汗を拭いながら口を開いた。
「お前、相方はどうした」
言われて、川へと落ちていった親友の姿を思い出してしまう。振り切ったはずの恐怖が足元から這い上がって来る。
無言の自分を見て男は察したのだろう。落胆した様に肩を落とした。
そこで、青年も気づいた。見張りは本来二人一組だ。自分に相方がいたように、この男にも居るはずだ。だけど、ここにたった一人でいるという事は―――。
いや、これ以上。考えるのは止そう。今は互いに生きていることを喜び、そして迫りくる危機を村に知らせねば。
落胆した男の肩を叩き、励まそうと手を伸ばした。
―――ほんの刹那の間だった。
瞬きする程の僅かな時間で、男の体は高速で飛来したなにかに弾き飛ばされた。伸ばした手が再び空を切る。
地面を滑るように転がった男は自分に何が起きたのか理解する前に、再び飛来した影に襲われた。
「お、おい! 見てないで―――ギャアアア!!」
暗い森の中に男の悲鳴が響き渡る。同時にその悲鳴を上書きするような鳥の鳴き声が響く。
鳴き声、なんて可愛らしいものでは無い。あれは勝利の凱歌だ。夜空を旋回してから飛来した怪鳥の群れが男へと殺到した。
肉を啄む音が森に響く。
暗闇の向こうで男の手が何かを掴もうと伸びて―――だらしなく落ちた。
それが青年に残っていた最後の勇気を砕く合図だったかもしれない。
気が付けば彼は絶叫を上げながら斜面を駆けあがっていた。木の根に躓き大地に這いつくばれば、獣のように四つん這いで進む。とにかく一刻も早く地獄から逃げようと進む。
(もう、沢山だ!! こんな山から下りてやる!! こんな地獄から逃げてやる!!)
向かうのは山の中腹にある自分の村だ。眠っているはずの愛する女を叩き起こして、山を下りようと誘う。おそらく、断られるかもしれない。その時は無理やりでも連れていくことになる。
父母や兄弟には悪いが命の優先順位では彼女と自分が最優先だ。
そのまま下山するのは駄目だ。危険だが山越えをして向う側に逃げよう。そうだ、そうしよう。
恐怖で正常な判断を下せなくなった彼は自分の中でそう結論付けて、村へと走った。
―――そこが新しい地獄だとも知らずに。
「―――はへ?」
山の中腹。段々になっている平地に建てられ村は燃えていた。
逃げ惑う人々の絶叫が木霊する。
彼の目はその地獄の隅々を捉えてしまう。レッドパンサーという名前の通り鮮やかな赤の鬣を持つ四足歩行の獣が村人を踏みつけ頭を食いちぎる様を。
その背には弓を構えたゴブリンが燃える家を光源として人を射抜く。逃げ惑う老人が背後から突き刺さった矢で絶命する様を。
ずしん、と一際大きな振動があたりに響いた。複数の空を飛ぶ種族が人食い植物の蔓に巻かれたトロールを落としたのだ。衝撃で燃えている家が崩れる様を。
背後の木々をなぎ倒して、アイアンライノーが突進していく。ただでさえ鉄のように固いと評させる皮膚に文字通り鉄製の鎧を身に纏っているのだ。迎え撃とうした部族の男どもが簡単に薙ぎ払われる様を。
村の高台を見れば杖を持った骸骨が大げさな身振りで何かを詠唱している。その杖から降り注いだ光が死体に触れると、大地に伏していた死体が動き出し同じ村人を襲っていく様を。
ここはまさしく地獄だった。
目の前に広がる光景に彼は金縛りにあったように動けずにいた。
その地獄から誰かが自分を叫んでいる声を聴いて、ようやく意識を取り戻した。
見れば、こちらに向かって愛する女が駆け寄って来るではないか。
髪を振り乱し、村でも一番の美女と言われた美貌は恐怖で引き攣っていたが、この地獄の中で生きていてくれた。
「ああ、無事だったか!!」
叫び、彼も駆け寄ろうとした。周りで起きている地獄など、視界に入らない。
だから、気づくのが遅かった。
足を止め、何かを凝視した女が横合いから放たれた炎の壁に飲み込まれるのをただ見ているしかなかった。
「あ、ああ、あああ、ああああ!!」
オレンジ色の焔は瞬く間に女の体を飲み込んだ。三度、伸ばした手は何も掴めなかった。焔の向こうで黒い影としか見えなくなった女の姿は一瞬で崩れ去った。残ったのは轟々と燃え盛る焔だけだ。
その時、彼を吹き飛ばすような凄まじき風と、鼓膜を破らんとする咆哮が村中に響き渡る。
咄嗟に耳を塞ぎ、彼は夜空を仰ぎ見る。そして、見てしまった。自分の愛する女を殺した絶対なる死を。
「……赤……龍?」
夜空を我が物顔で飛び回る赤龍。雄大といえる翼を広げ、人を容易に飲み込める咢から火を放つ。大地を切り裂かんとする焔の壁が生まれ、村人もモンスターも容赦なく飲み込んでいく。
村の老人が口にしていたメスケネスト火山の王がそこに君臨していた。伝え聞いていた姿とは若干違うがあれはまさしく龍だった。
「―――ああ、何だ。これは夢だ」
遂に彼の精神は崩壊していた。目の前の光景を現実と受け入れられずにいた。
一方で、彼の右手は胸元を何度も探る。首に提げていた首飾り、その中にあった粉を求めてさまよう。精神は壊れ、本能は現実を誤認する術を求める。
彼が龍の齎した焔に飲まれる直前。最後に思ったのは、せめて首飾りだけは取っておくべきだったという後悔だった。
「ふふん。実に素晴らしい手際だ。我ながら惚れ惚れしてしまうよ」
漆黒を塗りたくった空に浮かび上がる影は手元の『窓』を開いて満足そうに頷いた。そこにはモンスターの軍に飲み込まれて命を散らしていく人々の姿があった。
それも一つだけでは無い。開かれている『窓』の数だけ地獄があった。
黒い川は進む方向にある人家をすべて飲み込んでいく。村落も、監視塔も、砦も。本命にたどり着くまでの道程を細心の注意を払って彼らは進む。
目指すは魔力が豊富な肥沃の大地。
地獄絵図を描きながら北へ向かう。
読んで下さって、ありがとうございます。




