2-20 怒りの赴くまま
※この回には残酷描写があります。苦手な方はご注意ください。
突然の闖入者に一時は混乱したが、それはほんの瞬きをするほどの刹那の時間だった。
黒頭巾の集団はすでにレイを取り囲む様に陣を敷き、油断なく武器を構える。頭領の老人以外は全て鋼鉄製のトンファーを構えている。
彼らの視線はレイに集中している。床に倒れ伏す両腕を断ち切られた者の存在を気にする者はいなかった。
じりじり、と距離を狭めていき、いつでも飛びかかれるようにする。緊迫した空気が流れる。誰かが動けばすぐさま乱戦へと移ると、全員が理解していた。そうなれば、たった一人で乗り込んだ少年が即座に死ぬことを。裏の世界で生きる者達にとってそれは自明である。
だから、先にレイが動いたのは彼らにとって予想外としか言えない。
バスタードソードを横に薙ぐと、唯一の光源である蝋燭の先端を斜めに切った。
自重でずり落ちた先端は床に広がっていた血の海に触れて火を消した。月も出ていない夜、暗闇が倉庫内を支配する。
頭領はレイの行動を愚行と笑う。
(暗闇に紛れて我らを撃つきか。笑止! この程度の闇、物の数秒もあれば昼と同じに見えるわ!!)
暗中での戦闘を想定した修行を積んでいた彼らにとって闇とは親しき隣人と言える。事前に明かりに目が慣れていたためほんの数秒、目を閉じて闇に慣れる時間を必要としたが不利な状況に陥ったとは思っていない。
頭領は目を瞑り、再び眼を開けた。
その数秒が命とりだった。
「ぐあああ!」
「ぎゃあああ!」
「う、腕が!!」
「痛い痛い痛い!!」
手塩にかけた彼の配下たちが闇の中で悲鳴を上げる。暗闇に適応した頭領の目は地獄絵図を捉えている。
レイには技能と言うほどではないが、一つの才能に恵まれていた。
記憶力だ。
《トライ&エラー》による死に覚えは確かに尖った性能ではあるが強敵と繰り返し戦え、相手の武器、行動、弱点を知るという意味ではこれほど便利な力は無い。だけど、それは全てをきちんと覚えればの話だ。
それだけでは無い。ネーデの迷宮で彼は総当たり戦法を取った。複数ある通路を一つ一つ順番に進みたどり着いた広間にどんな罠やモンスターがどのタイミングで現れるのかを。
それら全てを使用者が己の海馬に刻み込まなければ無意味に死ぬだけ。
レイにとって、明かりを中心に取り囲む敵の位置を瞬時に覚えることなど造作も無かった。
そんな事を知らない頭領は内心でレイを侮り、闇に眼を慣れさせてから行動に移せばいいと思い配下に指示すら出さない。
その隙をレイは突いた。
(倉庫内は全部で十二人。内一人は足元に。武器は頭領を除けば全員トンファーだったな)
闇の中を見通す特訓を積んでいないレイにとって己が作り出した闇は彼を盲目とさせる。
だけど、刹那の間に記憶した敵の数、装備、位置、そして頭上から飛来する音を判断材料に行動する。
彼は正面に居た一人目に対して剣を横に薙いだ。狙いはむき出しの頭部だ。バスタードソードの刃先がモンスターとは違う肉を断つ手ごたえを教える。
踏み出した足元で、ぴちゃり、と水を踏んだ音がする。おそらく流れている血を踏んだのだろう。
左から右へと切り裂いた勢いを使い一回転する。その最中に切りつけた黒頭巾の左手、レイから見たら右側に立っている黒頭巾に腰から抜いたダガーを投げた。
レイはある理由から、集団の右手側から先に殲滅することにした。
ダガーはレイの狙い通り黒頭巾の胸に深々と刺さる。暗闇でその事が見えない少年は膝をついた音と気配だけで倒したことを判断する。
一拍遅れて、鋭い矢がレイと頭領の間に立っていた二人を射抜く。腕や目、足を射抜かれた彼らはその場に蹲る。
これで合計五人が戦闘不能となった。残りは頭領を除けば六人。頭領とレイの間に立っていた黒頭巾は全員排除された。
彼らのミスは防具らしい防具を持たずにいた事だ。数の上で相手よりも有利だと考え。それも自分たちよりも低いレベルの冒険者を誘拐すると頭から考えていたため、隠密行動が取りやすい装備だけで来たのが仇となった。せめて乱戦になる事を想定して胸当てなりを装備していれば多少は違った結果になったかもしれない。
死体からそれらの情報を掴んでいたロータスは闇の中でも見通せる目を用い、黒頭巾たちを行動不能へと追いやる。
闇に眼が慣れた時には状況が変わっていた。間に立っていた配下が居らず、頭領はレイと対峙していた。見えていないはずの少年に射すくめられて、思わず叫んだ。
「―――殺せ! こいつを早く殺せ!」
陣形を作る際に頭領とは反対側に立つ事になった六人が弾かれたように一斉にレイへと飛びかかる。打ち合わせもせずに見事なコンビネーションを発揮する。
頭領は勝った、と思った。
例えこの六人の内半数が上の狙撃手と目の前の小僧に殺されても残りが任務を果たすと。
だけど、老人の狙いは脆くも崩れ去った。
「《留めよ、我が身に憎悪の視線を》!」
レイが詠唱すると頭領を含めた七人の視線は強制的に少年へと誘導される。《心ノ誘導》Ⅰが発動し、彼に敵意を持つ者達の意識が集中する。
得物を手に今にも一撃をくわえようとした集団にとって今更な行為だった。そんなことをしなくても意識が他に移るはずも無かった。
だけど、彼らの訓練された耳は次に起きた音を精確に捉えてしまう。
彼らの左手にあった入り口が破壊されたのだ。
轟音と共に切り裂かれた扉に、全員の意識がそちらを向いた。
―――刹那。
白刃が闇を切り裂く。不自然な程、素早く正確に黒頭巾を無力化する斬撃が三本放たれた。
空中で強制的にレイへと向いていた意識が左手で発生した音に釣られてしまい、生まれた隙をつかれた。もしも、《心ノ誘導》Ⅰを受けていなかったら、彼らは音に反応せずにレイを倒していただろう。だけど、意識を自分の意思とは無関係に操られたために彼らは突然の音に自制心を働かせられなかった。
そして即死に陥ると判断したレイの体は《生死ノ境》Ⅰを発動した。
世界は遅くなり、襲いくる集団に振り向いたレイは余所見をした近くの三人を一刀の元切り倒す。
続けざまにロータスの矢が二人を射抜く。これで五人。あとは一人だ。
残った黒頭巾は意識が他所を向いた瞬間、たまたまレイよりも距離が離れていたため生きながらえていた。幸運な事にロータスが頭上から射抜きにくい場所に立っていたのが彼を生かした最大の理由だ。
彼は一分足らずで重傷を負った仲間を見て、恐怖にかられる。
思えば、頭領が縦に一文字の傷を負った時から不吉な予感を抱いていた。自分たちは何か得体のしれない怪物を相手にしているのではないかと思い始めた。
追い詰められた男の目に闇の中でぐったりと意識を失っているレティシアを捉えた。
(そもそも、この小娘が正直に全てを話せばここまで長引くことも無かった……そうだこの小娘さえいなければ!)
追い詰められた者に正常な判断を期待するのは無理と言える。
彼はトンファーを握りしめて意識を取り戻さない少女を殴殺しようと駆け寄る。もう任務など彼には関係のない事。異国の地でこれから自分を待ち構える惨劇を恐れから生まれた自滅的な行動だ。
矢のように駆ける黒頭巾は、しかし、間に躍り込んだ人影にぶつかり止まる。ずぶりと彼の背中をバスタードソードの刃先が突き破る。
「彼女たちは僕が守ると決めた。……たとえこの手を汚してでもな」
黒頭巾の耳にレイの揺るがない意志が飛び込み、それを最後に彼の体から力が抜けた。
レイが明かりを消してから数分にも満たない間に配下全てが戦闘不能へと追いやられた。ある者は目を潰され、ある者は腕や足を潰され、ある者は骸とかした。
割れた天窓からロータスが降りてくる。重さを感じさせない軽やかな着地と共に彼女は新式魔法を発動する。
「《超短文・初級・光》」
詠唱と共に放たれた光は倉庫内を昼間のように照らす。狙撃手にとって必要な魔法だ。
正面から突入したファルナたちも倉庫内に足を踏み入れ、目の前の惨状に声を失う。倒れ伏す黒頭巾の男たち。彼らの流した血が倉庫内を赤く染め、その中で殺気を放ちながら立つレイの全身も赤い。
「……あとはアンタだけになったな、頭領」
レイは穏やかな口調で頭領に語り掛ける。だが口調と裏腹に黒い瞳は冷たく澱む。逃がさないとばかりにバスタードソードを向けた。何よりも彼を知るものなら違和感を抱かせるほどの殺意が倉庫内に充満する。
血に濡れたバスタードソードがここで、何が起きたかを雄弁に物語る。
暗器を袖口から抜く頭領は視線を周囲に飛ばす。何か一つでも自分に有利になる事を探そうと必死だ。しかし、彼の期待に応えるものは何もない。
一歩ずつ屍を跨ぎ近づくレイを倒すしか、頭領に生き残る道は無い。
「それで―――勝ったつもりか、小僧!」
不用意に自分の間合いに入り込んだレイへと。熟練の暗殺者にとってこの距離は必殺の間合いと言えた。たとえレイが何をしても確実に殺せると踏んでいた。
だが、レイの行動は頭領の予測を上回る。
彼はバスタードソードを空中に捨てたのだ。スナップだけで空中に置く様に手を離した。
これが投擲したのなら頭領にも理解できた。理に適っているし、躱せば済む話だ。
だが自分の進行方向に障害物のように置かれたバスタードソードを彼は暗器で振り払う。甲高い音を響かせてバスタードソードは倉庫内の床へと突き刺さった。
同時に。ぐしゃりと肉を撃つ音が倉庫に響く。
障害物を振り払った頭領の顔面を、精神力を纏わせた拳でレイが殴ったのだ。老人の体は背後の壁へと激突した。
「ぐはぁぁぁ!」
壁に叩きつけられ、背中を強打した頭領は潰れた顔面に構わず、すぐさま立ち上がろうとした。だが顔面を殴られた衝撃で頭が揺れ、意識がはっきりとしない。そこにレイの追撃が襲う。
彼のブーツが老人の鳩尾に深々と入る。再び壁に激突した老人は、しかし、落ちる前にレイの拳を叩きつけられ壁に貼り付けられる。
精神力を全身に纏わせた少年の一撃一撃は格上の暗殺者の体を貫く。自らの怒りを拳に宿した彼は何度も何度も頭領を死に追いやるかのように叩き込む。
いや、彼は本気で殺す気だ。
倉庫内に響く骨を、内臓を、魂すら砕こうとする音を聞いていたエリザベートが駆け寄る。血に塗れた拳を振り上げたレイを頭領から引きはがす。
「ダメです、レイ様! これ以上は本当に死んでしまいます!」
「それがどうした! あれを見ろ!!」
怒りを露わにするレイは血に染まる指で意識を無くしたレティシアを指す。ロータスにより、縄を解かれ、屍から離れた所で治療を受ける少女へと視線が向いた。
そばにいるファルナが小声でひどい、と言う。
「あんな子供にここまでした外道だ。死んで当然だろ!? 君は妹があんな目にあっても平気でいられるのか!!」
背中にしがみ付くエリザベートを振り払い、彼女と向き合うレイ。激昂する彼の黒い瞳には正常な光は無い。怒りの焔が気炎を上げる。
エリザベートは空を思わせる青い瞳に悲しみを湛えると、鋭く右手を振るった。
ぱぁん! と頬を張った音が倉庫に響く。
レイはエリザベートに叩かれた左頬を抑える。ひりひりと熱を帯びている。だが、その熱が逆に彼の中の怒りを鎮める。
「―――落ち着きました、レイ様」
「ああ―――うん」
思わずレイは首を縦に振った。自分が抱いていた殺意がビンタ一発で霧散したことに驚いていた。
「落ち着いたのなら、あの男を見てください」
彼女が指さす方を見ると、そこには壁にもたれかかり座る頭領が居た。全身がはれ上がり、口から微かに呼吸するのを見る限り虫の息だが生きてはいる。
「あの者に戦意はありますか?」
「……無いと思う」
自分が切った左目はともかく右目は縋るようにこちらを向き、微かに動く唇は助けてくれと繰り返し動く。
「戦意を無い者を殺すのは悪です。……たとえそれにどんな正当な理由があろうと魂が穢れます」
あまりにも強く握りしめた拳は痺れて指が動かない。エリザベートは言葉を継ぎながら、血に染まった拳を開かせる。
「レティも私も、貴方の優しさを尊いものだと思っています。……だから、どうか。その奇跡のような優しさを失わないでください」
青い瞳に涙が溢れた。僕の手を開くと、彼女は溢れた涙を両手で拭う。
(この世界に来てから、なんだか女の子を泣かしてばっかだな)
癖の様に彼女の頭を撫でようとして、血まみれの自分の手に気づき逡巡する。
―――刹那。
世界が遅くなる。
事前に読んでいたため、レイはエリザベートの腰に提げている剣を抜いて、背後からの奇襲者に振り上げた。
時が遅くなった世界で頭領の右腕にロングソードがくいこんでいくのを間近に見て。
世界は元の速度を取り戻す。
「ぐああああ!!」
振り上げた剣に対して体を捩じった頭領は右腕を切り落とされた。絶叫と共に着地した彼は這うように倉庫内に積み上がっていた木箱をよじ登る。
《トライ&エラー》による死に覚えでは無い。単純にエリザベートよりも頭領を多少知っていたレイは老人が簡単に命乞いをするとは思っていなかった。
先程発動した《生死ノ境》Ⅰが再使用の条件を満たしたため自動で作動した。その瞬間彼は背後から頭領が迫ってきたのを肌で感じていた。
シードラゴンでの修業が生きている。暗闇の中でオルドの攻撃を読もうとしたことである程度、人の殺気を感じる様になった。レイは先程の闇の中でもその成長を実感していた。
ロータスが天窓に向かう頭領を狙おうとしたがレイが待って、と制止した。
「頭領! 逃げるなら一度だけ見逃してやる!! だがな」
レイは脅すように叫びながら言葉を継ぐ。
「次、僕らの前に出てみろ! 次は必ず殺す!!」
天窓からレイを見下ろした頭領は歯が砕けるのではないかと思わせるほど強く噛みしめてから姿を消した。
「……よろしかったんですか。レイさん。倒せる敵は倒すべきだと思いますが」
「僕もそう思います。……でも今日はもうこれ以上人を殺すのが嫌になったんです」
自分の足元を転がる骸を前にしてレイは目を瞑る。彼の手は少なくとも二人を殺した感触が残っている。
「……甘いと思いますか?」
「ええ。甘い上に矛盾しています」
弓に番えていた矢を戻すと、バッサリと言い放つ。肩を落とすレイに彼女は唇を綻ばす。成り行きを心配そうに見ていたエリザベートに近づくと耳元で囁いた。
「でも、そこが彼の美点なのかもしれませんね」
「……はい」
エリザベートもまた薄く笑みを浮かべると頷いた。
「……う……うう」
その時、カーミラの回復魔法を受けていたレティシアが薄く呻いた。全員が少女の傍へと駆け寄る。回復魔法により傷が癒えていく少女は薄く目を開ける。翠色の瞳が姉の姿を捉えた。
「お……おねえ……ちゃん?」
「ああ、レティ! 大丈夫よ。もう敵は居ないわ」
エリザベートは感極まったように妹の手を握りしめた。レティシアは安心した様に笑みを浮かべると、また意識を失う。
「さてと。どうする、ロータス姐? ここじゃいつ敵の増援が来るかも分かんないし。そもそも、この現場に居るのを兵士に見つかったらそれだけで厄介だよ」
ファルナが辺りを見て発言する。ロータスも頷いて同意を示した。
レイが武器を回収するとエリザベートがレティシアを背負い、カーミラが道中でも回復魔法をかけれるように背後へと回る。ファルナとレイが三人の護衛の様に左右に立ち、ロータスが先頭を警戒しつつ進むことになった。
倉庫内の惨状は放置することにした。兵士に事情を知らせるのも手間だし、その間拘束されるかもしれない。逃げた頭領が後始末するだろうと思い壊した入り口から外へと飛び出す。
だが、一同はすぐさま足を止める事になる。
倉庫の近くに武装した戦士たちが待ち構えていた。
彼らの顔は多くの者が赤く、中には青ざめている者も居る。
特に禿頭の大男は壁に手をついて胃の中の物をひっくり返している。
ハイジに連れられた『紅蓮の旅団』の冒険者たちが今頃やって来たのだ。
「ごめん、副団長!」
「ハイジ!」
現れた武装集団に対して武器を構えたロータスが正体を知って武器を下げた。
「フェスティオ商会の人を宿屋に送って、武器を取ってから来たからこんなに遅くなったの。ごめんなさい」
ハイジが申し訳なさそうに謝罪する。頭の耳もぺたりと折れた。
「オロオロオロ……それで……どんなウプッ……状況だ?」
口を拭うオルドに倉庫内に居た一同はため息を吐いた。代表する様にロータスは前に出た。
「もう、終わりましたよ。これから宿屋でレティシアちゃんの治療をするんです。引上げます」
「そうか……終わったなら……それでオロオロオロ」
最後まで言えずにオルドは物陰に駆け込む。ロータスとファルナはそんな団長の姿に大きなため息を吐いた。
眠らない街ウージア。四方を高い防壁で囲う街の中心部にその建造物はある。
建造物と庭を囲う様に城壁がそびえ立つ。むしろ街の外側を囲う防壁よりも高くて頑強な城壁は建造物の重要度を表している。
その建造物は西洋風の城だった。
城の先端。塔の一室で主は開け放たれた窓から夜風を感じていた。雨は上がり、湿った空気が流れ込む。手にしていたグラスから立ち上る芳醇なワインの香りを汚す。
主は不快に思うと、寝そべっていたソファの横に設置されたサイドテーブルに手を伸ばす。細長い白魚のような指がベルを掴むと軽く振る。
鈴の音に導かれるように室内に人影が増える。音も無く主の傍に近づくと傅く。人影は燕尾服を身に纏った、男装の麗人だ。街を歩けば通りの男の視線を一身にあつめるような美貌を持つ女性だった。
だが、そんな麗人でさえ目の前に寝転ぶ城の主の前では霞む。
室内の豪華な調度品でさえ彼女の美しさの前ではがらくたも同然だ。豊満な肉体をガウンで包み気だるげな表情でワインを口にする。
彼女から立ち上る妖しい美は男は当然だが、女さえも惹き付ける。現に従者は彼女に対して熱っぽい瞳を向けている。
「何かご用でしょうか? ご主人様」
「窓を閉めて頂戴。ワインの香りが台無しだわ」
普通の人間ならそんなことで呼んだのかと腹も立てよう。だが従者の胸中は声をかけてもらった喜びで溢れていた。すぐさま立ち上がると窓を閉めた。
そして、名残惜しいが主の楽しみを邪魔してはいけないと考える。優雅に一礼をした後素早く退出しようとする。
だが主が、待って、と口にした。それだけで従者は飛び上がらん程の幸福と自分が至らないことをしたのでは無いかと言う不安に襲われる。
「な、んでしょうか」
「退屈なの……何か変わった報告は無いかしら」
叱責では無かった事に胸をなで下ろす。再び主の前で跪くと先程もたらされたばかりの報告を思い出した。
「朝になれば御報告差し上げるつもりだった案件がありますが……」
「構わないわ。退屈で死んじゃいたくなるの。早くイッテ」
最後の不自然なイントネーションが従者の耳を擽る。従者は主を喜ばせようと口を開く。
「先程、ガシャクラが重傷を負いました上、配下を数人死なせて戻りました」
「……ガシャクラ? ……誰だったかしら」
ワイングラスを揺らし、中の紅色の液体を眺める主は首を傾げる。彼女の口ぶりから本当に思い出せないのだろうと従者は考えて補足を口にする。
「本国からご主人様の配下になりたいと申した暗部の者です」
「……ああ。向うでの権力争いに負けた負け犬たちね。なーに? ここでも醜態をさらしてるの? バッカみたい」
楽しそうに唇を歪ませた主を見て、従者は言葉にできない喜びを抱く。彼女の喜びこそ、自分にとっての至上だ。
「それで、その負け犬たちに何か仕事を回してたかしら?」
「はっ。闇ギルドのクロトとの取引を任しておりました。ですが期日になっても当の本人が現れません」
「クロト? あの醜い豚ね。……取引って?」
「宝石でございます」
短く言うと、主は形の良い眉を上げた。興味の無い者は記憶どころか視界にすら留めない主だが、その瞳が此処には無い宝石を捉えているかのようだ。
「そう言えば宝石を売りに来る話が出てたわね。……期日に現れなかったと言う事は……まあどうでもいい事ね」
だがそれも一瞬だった。つまらなそうに言い放つと再びワインを口にした。彼女の唇に朱が差す。
「取引の失敗を恐れたガシャクラはクロトが連れていた奴隷を偶然街で発見したため誘拐し尋問しました。ですがその最中に奴隷の仲間に襲撃され、敗北したとの事です」
「ふーん」
主はつまらなそうに呟いた。従者は無言で彼女の横顔を見つめた。しばらくしてから恐る恐る主に問いかける。
「……ガシャクラの処分は如何いたしましょうか?」
「放置でいいわ」
心底どうでもよさそうに主は言う。おそらくもう、彼女の記憶にはガシャクラも宝石も残っていないだろう。彼女は従者に流し目を送る。話はそれで終わりかと無言で問いかける。
従者は懐に仕舞っていた二枚の紙を恭しく主に差し出した。
「これは?」
「ガシャクラの配下が持っていた物です。先程話に出ていた奴隷の姿絵です」
それは宿屋のロビーでの一幕だった。トランプを握り楽しそうに笑う姉妹が描かれている。
「可愛らしい娘たちね。……でも、私の好みじゃないわ。これがどうかしたの?」
「……本国から通達の在った例の姉妹です」
主の胡乱な瞳に理性が宿る。朱を差した唇がニンマリと笑った。
「ああ! お父様の執着している姉妹!! ……生きていたのね」
「……如何いたしますか? 御下命いただけるならば直ぐにでも」
主は細い整った指先で顎を撫でる。しばらく考えたのち、姿絵を握りつぶした。
「別にいいわ。お父様の恋い焦がれる女の忘れ形見……見つけたからと言って本国のご機嫌取りをする必要はないわ。そうでしょ?」
従者は肯定する様に頷いた。主はそれにしても、と呟いた。
「男はみんな馬鹿ね。……先王も死んだ妻に義理立てすると言って私に指一本触れなかったのよ。きっとアッチが使い物にならなかったのを誤魔化してたのよ」
ソファに寝そべる女は愉快気に笑う。手にしたグラスが揺れ、中のワインが波を立てる。従者が止める間もなく、彼女の開いた胸元に赤い滴が垂れた。白い肌を液体が蹂躙する。素早く従者はハンカチを取り出し拭こうとするが、主の手が従者を制する。
「舐めて、ふき取って」
ごくり、と従者の喉が鳴る。妖艶に微笑む主に吸い寄せられる。蝋燭の明かりに引き寄せられる蛾の様に女の白い胸元に舌を這わせた。
西方大陸最大勢力『帝国』の元第一王女にして、シュウ王国先王の後妻にして、ウージアの女帝は天井を見上げて笑みを浮かべる。それはとても残忍な笑みだった。
「闇に隠れていた小鳥たちが日に当たる所に出てきたら……猟師に撃たれちゃうわよ。……まあ、私にはどうでもいいことね」
誰に向けたのか分からない呟きは霧散する。
読んで下さって、ありがとうございます。
次回の更新は八月二十四日になります。




