2-12 船上の修業
目の前で天井から伸びた鎖に吊るされた鍋がぐつぐつと音を立てて煮える。三方を鉄製の壁で仕切られ、土台には小さいが四本の足がついたコンロを眺める。確かにこれなら木で出来た船に熱や火が飛び散りにくい、良く考えられた工夫だ。
寸胴の中には大きめにカットされた羊肉や同じく大き目に切られた人参やカブ、セロリ、玉ねぎなどが薄いコンソメスープに浸かる。
隣に居るレティがお玉から小皿にスープを掬うと、味を確かめる。
少女は何かを確認した様に頷くと慣れた手つきで塩や胡椒を足す。今度は何処からか取り出した串を野菜に刺して煮込み具合を確かめる。その手さばきの前に僕の出る幕は無い。
僕がやった事なんてレティに指示されるままに野菜の皮を剥いたり、羊肉を切り分けたり、ポトフを入れる器を用意するだけだ。
壁を一部くりぬいてたことで隣接する食堂とは互いに見えるようになっている。
その食堂では飯はまだかといきり立つ水夫や冒険者たちで混んでいる。彼らの目は血走っており、気の弱いものが見たら卒倒するかもしれない。
一方、僕らが居る台所の方も殺気立っている。人が三人並べば通れなくなるような狭い厨房で料理班として調理していたがこの戦場のような忙しさはまだ続く。出すべき料理が皿に盛りつけられる。
船の食事はある意味、時間がかかる。船が止まっているなら見張り要員を除く全員が一堂に集まり、一回で食事が済む。しかし、船を動かしている場合はそうはいかない。動かすための人員が余計に必要になり、彼らはお腹をすかせて働く。食堂で先に食事を済ました仲間が来るのを待ってから交代して降りてくる。
ポトフはともかく、他の料理を冷めた状態で差し出すわけにはいかないから彼らの分ももう一度作る必要がある。
更に言うと、師匠やジェロニモさん、それに船長を始めとした首脳陣は今後の打ち合わせを兼ねて船長室で水夫たちよりも早く食事を始めている。そのため、彼らの分を最初に作ってから波のように押し寄せた彼らの分を作っている。
当然、僕らはまだ食事を済ませていない。
「うん、美味しくできた。お兄さん、これを皿によそって。そしたらひと段落つくからあたしたちも食べようか?」
「了解です、コック長」
おどけた様にレティに返すと、彼女はコロコロと鈴を鳴らすような小さな笑いを浮かべた。
慣れない炊事に苦戦しつつも、ようやく一息つけるところまで来れた。言われた通りにポトフを皿によそい、食堂に待ち構える餓鬼たちに押し付ける様に渡す。
行儀よく列を作り並んでいた彼らは盆を持って各料理を乗せていく。今夜の食事はポトフに黒パンにホタテのような殻つきの貝柱を網で炙った海鮮焼き。夜勤が無い希望者にはエールがついてくる。
「お疲れさん、二人とも。お、美味そうだな。先に頂くよ」
「お疲れ様です。レティ……それにレイ様」
列の中にはファルナとエリザベートの姿もあった。ファルナはともかくエリザベートは昼の決闘の後から僕に対して距離をとる。まあ、僕自身全力で挑み負けた相手からフレンドリーに接せられたら、それはそれで戸惑っただろう。今はこれぐらいの距離感の方がしっくりくる。
彼女らはその実力を認められて戦闘班に回されている為、僕らよりも先に食事がとれる。というか、『紅蓮の旅団』の冒険者は全員、戦闘班に回されている。
ファルナから聞いた話では、海にもモンスターが出没するそうだ。何でも昔から海底に迷宮が存在しているが、誰も入らない為、迷宮は殆どモンスターを垂れ流している。一応、沿岸沿いにはモンスターは集まらないため初日は問題なかったが、今夜から明後日までは警戒が厳しくなる。戦闘班も寝る時間を交代制にしていつでも動けるように準備するそうだ。
思い出すと埠頭に並んだ帆船はシードラゴンを始めとして、どれも大砲らしきものを装備していた。異世界では海の上でもモンスターと隣り合わせだ。
席に着く彼女らを見送り、列に並ぶ人に料理を渡していくのに没頭していたら、いつの間にか終わっていた。
しかし、これは台風の目に入っただけに過ぎない。
今のうちに僕らは次の嵐に備えて自分たちの食事を済ませる。行儀が悪いが今から食堂で席を探すのは難しいと判断して立ち食いになる。
僕とレティは並んで食事をとる事にした。狭い台所、座って食べる事は出来ない。
盆にポトフや黒パン、海鮮焼きを乗せながら厨房を見回した。その室内には僕にとっては慣れ親しみ、だけど此処にあるのは異常な物がそこかしこにある。
つまみを捻れば火が噴き出すコンロ。扉を開ければ冷たい空気が漏れだす冷蔵庫。スイッチ一つで明かりが点滅する電球。
どれもこれも現代日本で慣れ親しんだ電化製品ばかりだ。これらは全て魔石で動く魔法工学の産物だとレティは言った。
コンロはガスに火をつけているのではなく、火魔法を放っている。冷蔵庫は氷魔法を。電球は光魔法を。
全て魔石に溜まる魔力をエネルギーとして動いているのだ。
(と、説明されても違和感はぬぐえないよな。やっぱり、僕と同じ境遇の人が過去にも来ているのか……)
僕が一番気になったのは名称だ。コンロはともかくとして、冷蔵庫に電球はまさに日本語だ。
どういう経緯でこの世界に来たかは分からないけど、僕と同じ現代日本からこちらに来た人が存在したのはある意味心強く感じる。まるで夜の海で漂流し、帰る場所を見失っていた時に見つけた灯台のような安らぎを貰った。
けど、気になる事もある。果たして、魔法工学を生み出した人は日本に帰れたかどうか。もしかすると、帰れずにこの世界で死んだのではないか。
そんな不吉な想像が頭に過り、体がぶるり、と震える。自分も同じ運命をたどるのではないかと言う恐怖が襲った。
「……大丈夫、お兄ーさん?」
すると、そんな僕を心配そうにレティは覗いてきた。見上げる翠の瞳が不安げに揺れる。
「オルド様との特訓が怖い?」
と、彼女は言ってきた。僕はああ、その事かと思いながら口を開いた。
「ううん。その事じゃなくて、ちょっと別の事を考えていたんだ。……心配してくれてありがとう」
僕は心配してくれたレティに礼を言う。それから感謝を表すように彼女の頭を撫でた。姉とは違う色の頭髪は、しかし、こうして触れると姉と同じ髪質だと分かる。シルクのような細い髪だ。梳くように撫でると指先を擽る。
突然撫でられて驚いたレティは一瞬硬直するも、その後は楽しそうに目を細めた。ニコニコと笑顔を見せる少女に癒される。
そんな彼女を見ながら、僕は昼間の師匠とのやり取りを思い出す。
分厚い胸板を丸太のような腕で叩いた。
「だったら、この『岩壁』のオルド! てめぇに修行をつけてやるよ!!」
「え、嫌ですよ。それじゃ」
吠える様に叫んだオルドに手を横に振り、断りを入れる。巌のような大男の瞳がまん丸くなる。まさか、断られると思っていなかった彼は胸に手を当てたまま硬直する。
僕はそんなオルドに申し訳程度に頭を下げてその場を立ち去ろうとする。踵を返して船室に戻ろうとすると、肩をがしり、と掴まれた。万力を込めて掴んだのはもちろんオルドだ。
「おいこらちょっと待ってお願いだから、無視すんな!! お前、ここは普通『何だって!? あの伝説の戦士に教えてもらえるなんて。オルド様万歳!!』ってなる所だろ!」
「……何処かで聞いたようなセリフだな。一応確認で聞いておくけど、そのバカ丸出しのセリフは誰のですか?」
「お前」
頭が痛くなりそうだ。どうしてこの親娘はこうも似ているのだろう。
ため息を吐いて足を止める。このまま船室に戻っても付きまとわれるだけだろう。だったらちゃんとこの酔っぱらいと話をつけるべきだと思い、振り返った。
「……それで、修行をつけるって言いましたけど、どうやってつけてくれるんですか? そもそも一週間で何が手に入るんですか」
「お? 少しは興味が出てきたか。どーしようかな、おしえよーかな」
「あ、じゃいいです。お疲れ様でした」
酔っぱらい特有のふざけた態度を見せるオルドに、再び背中を向けた。冷たく言い放ち、今度こそ船室に降りようとした。
だけど、またしても彼の万力のような力の前に捕まる。両肩に食い込む指を剥がそうとするもビクともしない。ここに来て改めてオルドとの能力値の差に絶望しそうになる。
「悪かった、悪かった。真面目になるから話を聞いてくれよ!」
背後で懇願する様にオルドが言った。それでも指の力はちっとも緩めはしないが。
「……はぁ。分かりました。これが最後ですからね」
肩に食い込む指を引きはがすのを諦めて、手を離した。降参を表すように両手を上に持ち上げた。この世界でも、このジェスチャーの意味は同じだろうか。降参に気づいたオルドは両肩から指を話してくれる。
「まあ、話は簡単だ。一週間でお前は能力値と中級冒険者にとって基本の戦い方を身に着けんだよ」
「能力値と基本の戦い方?」
「おお、そうだ。後者は置いといて、お前さんも知ってるだろ? 能力値の上げ方くらいはよ」
言われて、かつてアイナさんに教えてもらったことを思い出す。確か彼女は二つあると口にしていた。
「えっと、レベルの上昇と……修行?」
「その通り! 残念ながらレベルはモンスターを倒すことでアイツらの魂を吸収しないと上がらんが、能力値なら剣を振り回すだけで上がるぞ」
言うなりオルドは自らの鍛え上げた肉体を誇示する様にポーズを取る。盛り上がった筋肉が暑苦しさを増す。
「本当なら自分と同レベルの奴と競い合うのが良いんだがこの船にお前と同じくらいのレベルの奴はいない。だからここは考え方を逆にすんだよ」
「逆に……つまり、自分よりはるかに高いレベルの人と戦うことで強制的に能力値を上げるって事?」
「……飲み込み速いな、おい」
呆れた様に僕を見るオルドを置いておいて少し考えてみる。
たしかに、一週間で自分を鍛えるとしては破格の申し出だ。一週間後の生命の保証は怪しいが、現実的に強くなる手段は今のところこれしか思いつかない。
分からないのはただ一つ。
「―――なんで。なんで僕に修行をつけると言ってくれたんですか?」
「あ? ……まあ、なんだ」
急に口ごもるとオルドはそっぽを向いてしまう。注意深く見ると、耳が赤い。どうやら照れている様だ。
「陸でも話したろ。カミさんに決闘で負けて、奴隷のように付き従っていたって。負けて悔しがってるおめぇがあんときの自分に見えてな……それでついな」
照れくさそうに話すオルドの横顔は遠い過去を夢見ている風だった。彼の瞳はここに居ない奥さんを探すように彷徨っている。
そんな男の姿を見て覚悟は決まった。僕はオルドに向かって頭を下げていた。
「僕に、修行をつけてください。エリザベートに勝ちたいんです。お願いします! 師匠!!」
オルドはゆっくりと笑うと、僕の頭に手を乗せた。
「オレの修業は厳しいぞ……今夜から始める! 夕飯を食ったら甲板に来い。武器と防具は置いて行けよ」
「はい!」
僕の返事が大空へと飲み込まれた。
「けどさ、こんな時間からどんな特訓をするんだろうね」
食事をあらかた食べ終えて、紅茶を入れてくれたレティが不思議そうに言った。彼女の言いたい事は分かる。この時間だと日は沈んでいる。明かりも無しに一体何をやらせるのだろうか。
すると、食事を終えて食器を片付けに来たファルナとエリザベートが台所に回る。
「レイ。アンタは親父と約束の時間だろ? 後はアタシらがやるから行きなよ」
そう言うと、ファルナは台所に積まれた空の食器を洗い始める。エリザベートも手伝う様に並んでいる。
「ありがとう、ファルナ、エリザベート。お言葉に甘えるとするよ」
僕は二人に礼を言って台所を出ようとした。その時、急にファルナに呼び止められた。彼女は洗い物の手を止めて、困ったように眉を下げていた。
「あ、あのさ。親父の修業について何だがな」
これまたファルナらしからぬ歯切れの悪い口調だった。何かを言いたそうに口ごもる。
「どうかしたの、ファルナ。……もしかして一緒にやりたいとか?」
思えば変だった。
師匠から修行をつけてもらう約束をした事をファルナに伝えた時も、曖昧な表情で応援された。常の彼女なら止めに入るか、自分も加わりたいと言う所ではないか?
そんな疑問を抱いていると、意を決した様にファルナが口を開く。
「優秀な戦士が優秀な教師とは限らない。その事だけは肝に銘じてくれよ」
「あ……はい」
僕はそう返事をするしかなかった。胸中に一抹の不安を抱きながら、とにかく甲板に向かって駆けた。
甲板に上ると、そこは見渡す限り漆黒の世界だった。月も星も厚い雲に覆われ姿を隠し、夜の空と夜の海は境界線を曖昧にする。
船縁から海を覗きこむと、昼間とは打って変わりどこまでも深い闇がある。墨汁を流した様な海面に落ちれば助かるのは難しいと思わせる。
そもそも、甲板自体に明かりが無い。だが、少し考えるとそれも当然だと思った。
この暗闇の世界に明かりがついていればそれだけで目立つ。闇夜に紛れて海賊なり、モンスターなりが襲ってくる可能性もある。先程まで居た食堂は窓が無いから明かりがついていたのだ。
だけど、これだけ暗いと師匠の姿を探すのも容易では無い。僕は目を凝らして甲板を見渡す。
すると、背後から強烈な殺気が放たれた。
思わず産毛までが総毛立つ程の殺気に対して、反射的に前方へ飛んだ。
それが正解だった。
風を切るような鋭い音と共に斬撃が縦に落ちてきた。すぐさま振り返り、闇に目を凝らすと、おぼろげに強大な影だけが見えた。
ちょうど、雲の切れ目から月が差し込み、甲板を照らした。巨大な影の正体は師匠だった。彼は手にした木刀を僕に放り投げる。放物線を描いて投げられた木刀は木で出来ているが姿形はバスタードソードによく似ている。
「船倉にあった木材を加工して作った。見て見な、こっちはロングソードもどきさ」
自慢げに腰のベルトに差し込んでいたもう一振りの木刀を掲げた。確かにエリザベートが使っているロングソードに近いと言えば近い。
だけど、これで一体何を修行するのだろうか。手にした木刀の感触を確かめるように二、三度振り回すと師匠が説明するように口を開く。
「いまから、修行の第一段階を始める」
重苦しい声色に、居住まいを正す。師匠は僕の反応を確かめてから言葉を継ぐ。
「まずは、この闇の中で気配を感じる特訓だ」
「……気配?」
「そうだ。今夜は丁度雲も出ている。目隠しが要らないほど濃い闇の中だ。オレがお前を攻撃するから躱すなり、防ぐなりして目に頼らない戦い方を身に着けな」
確かに、月が再び雲に隠れると甲板の上は一面闇の世界に戻る。これでは目が慣れたとしても斬撃を見てから避けるのは難しい。
「とにかく、今のお前じゃ嬢ちゃんの速度に追いつけない。昼の戦いで技能を使って移動した嬢ちゃんの動きを環境から予測できても、まともな場所でやり合えばなぶり殺しにあうのは分かるだろ」
それは重々承知している。甲板と言う狭い空間な上、《トライ&エラー》により何度もやり直したから先読みできたに過ぎない。
もしも、次の戦う場所が只の平地ならエリザベートの動きを見る事が出来ない僕は一瞬でやられる。
そこまでは分かっている。問題は、別の所にある。
闇の向こう側で木刀を振り回し轟音を鳴らす師匠に対して不安が胸の内で踊る。ふと、先ほどのファルナの言葉を思い出した。
ーーー優秀な戦士が優秀な教師とは限らない。
「そいじゃあ、弟子よ。死ぬんじゃないぞ!」
果たして僕は明日の朝日を拝めるだろうか。
「……そういえばファルナ様?」
「何だよ、リザ?」
二人は並んで皿を洗う。役割分担をしつつ、息の合ったコンビプレーを見せる。
「さっき、レイ様に向かって言ったあの言葉の意味は何なの?」
乾いた布巾で皿を拭きながら、気になった事を口にしていた。あの時のファルナの姿はレイを止めたがっていたように見えた。皿をタワシで洗いながらファルナは遠い目をする。凍てついた氷を思わせる青い瞳に暗い影が落ちる。
その眼に驚いてエリザベートは皿を落としそうになる。
「……アタシはね。ガキの頃から『岩壁』のオルドの背中を見て育った。あの背中に追いつき、追い越したいと常に思っている。……だから、その当の本人が傍にいるんだ。稽古の一つを頼むのは当然だろ」
乾いた声で振り返りたくない過去を口にするファルナ。不吉な響きを孕んだ声色にエリザベートは再び皿を落としそうになる。どうやら自分は触れてはならない禁断の箱に手をかけた様だ。
「でもさ、あの親父、根本的にぶっ飛んでいて、修行と言う名の生き地獄ツアーを始めやがったんだ。……ああ、思い出すよ。目隠しをした状態で攻撃を躱す修行。重りを付けた状態での水練。極めつけは立ち上がれなくなるまでの無限組手」
口にするたびに遠い過去の向こう側に仕舞ったトラウマが蘇って来る。脂汗が瑞々しい彼女の肌を流れる。顔面は青白いを通り越して蒼白と言っても間違っていない程に変化する。
エリザベートは慌ててファルナの方を揺する。力が抜けている彼女は抵抗もできずにガックン、ガックンと揺れた。
「ちょっとファルナ様? ファルナ! お願いだから戻ってきて! レティ、回復魔法を!!」
友人の悲惨な姿を目の当たりにして焦るエリザベートの耳に突然、絶叫とも悲鳴ともつかないような叫び声が突き刺さる。
発生源は甲板からだ。
意識が戻ってきたファルナと共に天井を見上げる。あの向こう側で起きているだろう生き地獄ツアーに思いをはせ、レイの無事を祈るしか二人にはできなかった。
読んで下さって、ありがとうございます。




