7-27 地下空洞 『後編』
ラシードを閉じ込めたのと同じ泡が、鈴なりに実った果物のように吐き散らされる。レイは距離を取ろうと下がろうとしたが、泡の速度の方が早い。あっという間に距離を詰められてしまう。
どの泡もレイの体を丸呑みしてもあまりあるほど大きく、一種の牢屋のようだ。飲み込まれれば、脱出できるかどうか分からない。試してみようかなんて軽い気持ちで触れるのは危険。回避が出来ないのなら、全て破壊するしかない。
構えたコウエンを上から下へと振り下ろす。僅かに遅れて炎が軌跡を残した。
炎の熱に弱いのか、龍刀の切れ味なのか、泡は呆気なく弾ける。しかし、リィグルオクトの吐き出す泡は底が無いかのように、無限とも思える量と勢いだ。その全てを撃ち落すのは不可能。圧倒的な物量を前にして、レイは遂に泡に腕を囚われてしまった。
ずるり、と。
体全体を飲み込もうとする泡に対してコウエンを突き立てると、中に押し込められていた空気が破裂して、レイの体を横へと吹き飛ばした。
体が地下水で湿った地面を強く打つ。顔をしかめるレイだが、これが功を奏した。一時的とはいえ、泡の弾幕から逃れる事が出来たのだ。
リィグルオクトがレイの方へと泡の弾幕を向け直す前に、行動に出た。勢いよく立ち上がると、そのままの勢いでリィグルオクトに向けて突進をしたのだ。狙いは八本ある触手の内、最も近い触手だ。
泡を吐き出すことに意識を向けていたリィグルオクトにしてみれば、意表を突く行動といえた。それゆえ、レイに接近を許すことになる。
とはいえ、意表を突いたのは一瞬だけで、リィグルオクトはすぐさま対処に乗り出す。これまで、ラシードを拘束するのに使っていた触手をも使い、レイを叩き潰すべく振るう。その猛攻を前にしても、レイの走りは止まらなかった。
一直線に近場の触手へと距離を詰めると、足に精神力を貯め込んで跳躍をした。流石にレイの身体能力と、精神力程度ではリィグルオクトの触手を飛び越えるという事は出来ないが、触手の上の方にしがみ付くことは出来た。ぬるりとした体液に手が滑りそうになる前にコウエンの刃を突き立てる。
それは一撃と呼ぶには弱々しく、人間にしてみれば小指の先にとげが入った程度の痛みだった。痛くない訳ではないが、無視できない痛みという訳でもない。
だからといって、戦闘を行っている相手を見逃すほどリィグルオクトは悠長な性格でも、度量が広いはずもなく。自分の触手を叩き潰す勢いで別の触手を振り下ろした。
衝撃が地下空洞を揺るがし、噴煙が蒔き散る。手応えはサイズの違いから全く分からない。ただ、レイの居た部分を文字通り磨り潰した。
血が空洞を汚し、傷の断面が回復しようと盛り上がる中、リィグルオクトは紅蓮の火を噴煙の中で垣間見た。
見間違いかと思った瞬間、噴煙を突き破って紅蓮の塊がリィグルオクトの胴体に突き刺さった。
それは紅蓮の炎で構成された鎖だった。先端は刃のように鋭く、返しが付いているのか胴体の肉に引っ掛かり抜けないようになっている。
続いて噴煙の中を突き破ったのは、黒髪に白が混じる少年、レイだった。
自分が叩き潰したはずの少年が生きていることに、リィグルオクトは困惑と動揺をしてしまう。
レイが生き残っていたのは、コウエンとの魂の交換によるおかげだった。
触手に飛びつく直前、嫌がるコウエンに頼み込み、魂の交換を行い、レイは引き出せる炎の上限を引き上げ、それを攻撃以外の形で具現化したのだ。
リィグルオクトの異常な再生力はそのまま防御力とイコールだとレイは認識した。どれだけダメージを与えても、それが致命傷とならない以上、即座に回復されるだけだ。無敵状態と変わらない。そんな相手に対して攻撃力を増幅しても、攻撃手段を増やしても無駄だと考えたのだ。
そこで思いついたのが、三次元的な戦い方だ。このまま二次元で戦っていても、いずれ触手か泡の攻撃に捕まる。ならば、地下空洞の高い天井を利用して、戦闘の舞台を三次元に広げようとした。
ところが、そのアイディアをコウエンが却下した。
『いまの其方じゃと、翼を具現化したとしても十秒も持たずに失速するに決まっておろう。足に火を貯めて押し上げたとしても、自由自在とはいえん。ふわふわとした的が浮かんでいるにすぎんぞ』
辛辣だが、まぎれを排した冷静な指摘にレイは別案を思いつく。それこそが、彼の両手首に巻き付いた炎の鎖だ。攻撃力は無いが、先端が刃となっており、突き刺さった瞬間に返しが出現。鎖自体が伸縮自在となっており、レイの体を高速で引き寄せる。
触手に刃を突き刺したレイは、真上から降り下ろされた一撃を、後ろの壁に向けて鎖を伸ばして、攻撃が当たる瞬間を見計らって壁へと退避したのだ。
レイがわざわざ精神力を消費してまで触手に飛びついたのは、身動きが取れない状態の自分を叩き潰す為に一気呵成に攻撃してしまい、視界を塞ぐほどの噴煙が舞い上がるだろうという予測だった。
その予測通り、舞い上がった噴煙に紛れてレイは鎖を伸ばし、リィグルオクトの胴体に突き刺した。そして鎖が引き戻るのを利用して、高速で近づき、コウエンを振り抜いた。
「ギィイイイイ!」
耳障りな悲鳴が地下空洞に反響する。
鎖の収縮を利用した高速からの斬撃は敵に対して想定以上のダメージを与えていた。大きく裂けた傷口からてらてらとした血に濡れた肉が垣間見えた。
レイはリィグルオクトに突き刺していた鎖を引き抜き、もう片方の手にある鎖を壁に突き刺してその場を離脱する。その判断が一歩遅ければ出鱈目に振るわれる触手の嵐に磨り潰されていただろう。
「手応えはあった! 問題は、再生力だけど」
炎の鎖はレイの手首に絡まっており、壁からぶら下がるような形でレイは留まっている。目を眇め、触手の隙間から真一文字に裂いた傷口を見た。
傷口はまだ残っている。
じわじわと再生が始まっているが、それは触手の再生とは違い、遅い。
『どうやら、お主の目論見が当たったようだな』
「ああ。無限の再生にも弱点はある」
そもそも、レイは最初から無限の再生力なんて物はあり得ないと考えていた。コウエンの推測通り、足を食べる事で栄養補給が出来るというのなら、このモンスターは自己だけで生存を完結できるはず。それなのに、ラシードや他のモンスターを捕獲しているのは矛盾している。つまり無限の再生は存在せず、無限の再生のように装っているのだ。
そこでレイは二つの可能性を導き出す。一つは相手の再生能力に回数制限がある場合。もう一つが相手の再生力は適用される部位が限定される場合。
前者はともかくとしても、後者は願望まじりの推測だった。根拠としても、リィグルオクトはレイが近づこうとするのを嫌がり攻撃を激しくしていたという点だけだ。
それでも試す価値はあると考えて、強硬策に打って出た。
しかし、強硬策に打って出たのは間違っていなかった。リィグルオクトの驚異的な再生力にも弱点があると判明できたのだ。
「胴体の傷は治りが遅い。普通のモンスターと比べれば、圧倒的に早いけど、傷口が残る。何より、胴体なら《崩剣》の傷口を喰うというやり方は出来ない」
無敵と思えた再生力を突破できる光明にレイは笑みを浮かべた。ところが、その光明を埋め尽くすような暗雲がすぐに立ち込めた。
相手は超弩級モンスター。
この程度では終わらないとばかりに次なる行動に出た。
ぎろり、と。幾つもの黄ばんだ瞳に怒気が宿り、叩きつけられた気迫にレイの体は竦む。リィグルオクトが本気になったとレイは本能で理解した。
そしてリィグルオクトの口がすぼみ、続いて吐き出されたのは泡では無かった。
漆黒のように黒い、墨だ。
それはまるでウォータージェットのようにレイへと放たれた。リィグルオクトとの距離が開いていたのが幸いして、レイは壁に突き刺さった鎖を外し、落下する猶予を得た。
落下の最中、レイの耳は何かが溶ける音を捉えた。同時に、壁に突き刺さり跳ねた墨が肌に触れ―――痛みが走った。
頬に触れた墨はまるで高熱の焼き鏝を押し付けるような痛みをレイに与える。激痛に意識が掻き乱され、落下を回避するべく別の壁に向けて放った鎖を外してしまう。
レイは残っていた全ての精神力を身体強化に回して、地面に激突する際のダメージを減らした。体がバウンドして、二転三転して止まった時、意識を途切れさせなかった事に安堵する。
否、意識を途切れさせる事など墨による激痛の前では叶わない夢だ。
レイは墨をマントで拭うも、そのマントが墨で溶けてしまう。
「この墨は、酸かよ」
正体に呻くと、レイはサイドポーチから上級ポーションを取り出して頬に掛けた。墨は洗い流され、激痛は緩和される。それでもまだ完治には至らないから、墨の威力に戦慄する。
ウォータージェットの如き一撃。直撃すれば、まず体が吹き飛ぶ。直撃しなくても、触れれば肉が爛れる酸という二段構えだ。
『ぼさっとするな! 上から来ておるぞ!!』
壁を削りながら、レイを追いかけて酸墨が下へと迫っていた。
コウエンの声にレイは戦いが終わっていない事を思い出す。鎖はまだ両の手首に絡まり、出番を待っている。レイはとにかくこの場を離脱するべく、鎖を伸ばし、壁や天井に突き刺すと縮める。縦横無尽に空間を使うレイに対して、リィグルオクトは愚直なまでに酸墨を吐き出す。
リィグルオクトの酸墨は一本の線を描く。鎖を用いて跳び回るレイを追いかけて壁を抉っていく。地下空洞の硬質な地層すら穿つ墨は壁を腐食して穴を作り、そこに溜まった墨が垂れ、気が付けば地下水と混じり床を侵食する。
『呆れたわ。なんという出鱈目な奴じゃ。己の吐いた酸で己の足が溶けておるというのに、お構いなしだぞ』
コウエンの言う通り、リィグルオクトの吐いた墨は床に溜まり、徐々に範囲を広げている。その一部が自らの触手を溶かしているというのに、リィグルオクトは気にした素振りをせずに墨を吐き続けていた。
溶けた肉は再生と腐食を繰り返し、悍ましい臭気を撒き散らす。このままではこの悪臭で意識を失いかねないとレイは笑えない未来に頬を引きつらせた。
更に追い打ちを掛けるが如く、刺激臭が目を襲う。涙が溢れ、喉を焼く。空洞の地面付近は既に人が足を踏み入れられない場所へとなってしまった。いずれ、それがこの空間を満たすだろう。
レイは悪臭から逃げるべく、壁を蹴り、上へ上へと鎖を差し込み、遂には地下空洞の天井へと辿り着いた。まだ、新鮮な空気が残っている場所だ。深呼吸すれば、新鮮な空気と汚染された空気が入れ替わる。
ふと、眼下を見ればリィグルオクトの様子がおかしかった。
際限なく追いかけていた墨の水撃が止まり、レイを恨めしそうに睨みつけている。まさか、天井付近には攻撃できないのではないかと期待したが、どうやら違うようだ。
胴体に目を向けると、レイが与えた傷口がようやく塞がった所だった。
「もしかしてあの墨は、胴体を切られた時に出す、奥の手って訳か」
往々にして、モンスターは追い詰められたときに備えた切り札を用意しているし、その切り札に合わせた行動パターンが存在する。リィグルオクトの場合、胴体にダメージを受けた際に、敵を打破するべく墨を吐き出す様だ。
近距離ならあの攻撃を避ける事は不可能だし、例え避けたとしても辺り一帯を酸で満たせば近づくことは出来ない。例え自分がダメージを負ったとしても、尋常じゃない再生力任せで治せばいい。無茶苦茶だが、理に適っている。
『見えた光明が曇るのも早かったのう』
「うるさい。余計な事を言ってんじゃないよ」
ケラケラと笑うコウエンに言い返すと、レイは使い果たした精神力を回復させるべくポーションを飲み干す。胴体へ《崩剣》を叩きこむ流れを考えようとした。ところが、レイの企みは破綻してしまった。
飲み干し空になるポーションだったが、回復した精神力の量が少ないのだ。
レイはやってしまったと悔やむ。
昨日のキュクロプス戦、いやその前からレイは何度も精神力を使い果たしてはポーションで回復をしてきたが、そのツケが回ってきたのだ。ポーションは短期間に何度も服用すれば、効果を弱めてしまう。
回復できたのは満タン時に比べれば実に半分以下だ。これでは戦技は発動できない。
「失敗したな。……精神力を回復させるポーションは他にないし。どうしたもんか」
空になった瓶をリィグルオクトに投げつけ、レイは何か使える情報は無いかと辺りを見回した。幸い、酸墨では龍刀から放った灯りは消えておらず、視界は薄暗くとも確保できている。
地下空洞は一変していた。水撃の勢いをもろに浴びた壁は抉れ、排水管から汚水を流すように穴ぼこから墨が流れている。ぼこぼこと泡立つ墨の沼地は足の踏み場がなく、リィグルオクトが吐いた泡が浮かんでいる。自らの肉が溶け、再生を繰り返して異臭を放っていて、地獄の様相を為す。
「……ちょっと待てよ。……どういうことなんだ、あれは」
あちらこちらへと向けていた視線を一点に留めた。レイは自分の見ている光景が見間違いではないかと二度、三度見るが幻のように消えはしない。間違いなく、現実の光景だ。
―――だけど、どうしてだ?
謎に対して幾つかの可能性を浮かべては否定し、その中で唯一残った可能性。それが成功するかどうかは不明だが、もしかしたら成功するかもしれない。確率に直せば、僅かでしかないが、成功する余地はある。
「なら、試してみますか」
レイが気楽に呟くのと同時にリィグルオクトが行動を再開する。上を取ったレイに対して、泡と触手の攻撃を繰り出したのだ。次々と天井に突き刺さる触手。その隙間を埋めるかのような泡。
地下空洞が何度目かの地響きに揺れる中、炎の鎖がリィグルオクトの胴体に突き刺さる。そして、泡の壁を突き破ってレイが突撃する。
交差したのは刹那の時間。リィグルオクトの胴体に龍刀が深々と突き刺さる。
そのままレイの体は天井に残してきた鎖によって引き戻された。すると、レイは驚くべき行動に出たのだ。先程、リィグルオクトが吐き出して天井に張り付く泡の中へと飛び込んだのだ。
泡はレイという異物を取りこみ、表面は穴の一つも作らず、閉じ込めてしまった。身動きの取れない、檻の中でレイは叫んだ。
「《留めよ、我が身に憎悪の視線を》!」
技能がリィグルオクトの行動を決定づける。元から、レイを逃がすつもりの無かったリィグルオクトは何のためらいもせずに泡に閉じ込められたレイに向けて酸墨のウォータージェットを放った。
―――真上に位置するレイに向けて。
墨の水撃が瞬く間にレイを捕える檻に放たれ、貫く―――事は出来なかった。なんと、壁すら抉る圧力の水撃が、泡に触れた瞬間、弾かれてしまったのだ。
(やっぱり、そうなのか!)
レイは自分の推測が正しい事に拳を突き上げた。
リィグルオクトに対抗するべく周囲を見下ろした時、墨の上で転がる泡を見つけた。最初は、泡は墨の酸を弾くのかと思っていたが、それだけでは無かったのだ。レイを追いかける過程で壁を抉っていた水撃。その攻撃のあとは一本の線のように繋がっているのだが、その途中に張り付いたままの泡が残っていた。何より驚いたのは、その部分だけは壁が抉れていなかったのだ。泡が途切れると、酸墨の軌跡は復活する。
つまり、泡は墨の攻撃を無効化するのだ。どうしてなのか理由は不明だが、これを使わない手は無かった。
レイは泡に捕まったのではなく、絶対的なシェルターの中に逃げ込んだのだ。
そして、日本にはこんな言葉がある。
天に唾する。
意味としては自分のした悪行が自分に降りかかる、因果応報と似たような意味である。
しかし、この言葉の表面的な響きが、今の状況を表すのに十分だった。
真上に向かって吐かれた酸の墨。それはレイを包む泡に防がれてしまう。そして、行き場を失った墨は重力に引かれて下へと落ちる。
―――それは当然、リィグルオクトの体に降り注ぐ。
「ギュムオオオオオオオ!!」
超弩級モンスターの悲痛なまでの絶叫が響く。
無理もない。何しろ、今溶けているのは自分にとって触手よりも重要な胴体なのだ。それも触手とは違い、再生力は劣る。溶けた肉が塞がるには時間が掛かる。
そして悲しむべきはリィグルオクトの習性だ。
胴体を攻撃されたことで、防衛本能が容赦なく、勤勉なまでに働いてしまうのだ。受けた刺激に反射して、口から墨の水撃が放射される。その一撃はレイを包む泡で防がれてしまい、重力に囚われて落ちていき、リィグルオクトのむき出しの傷口を更に溶かす。
痛覚が刺激されたことで、またしても防衛本能が作動した。こうなれば、リィグルオクトは破滅の階段を転がり落ちて行くだけだ。
哀れにも、自らの攻撃で自らを削り取っていく。
ならば、攻撃を止めればいい。もしくは、攻撃目標を変えればいいはずだ。しかし、それを防いでいるのが《魂ノ誘導》Ⅱだった。
止む事の無い酸墨の雨はリィグルオクトの体だけでなく、理性すら溶かしてく。絶え間ない、そして終わりのない激痛は判断力を奪っていく。
いつしか、リィグルオクトは思考を放棄し、反射で墨を吐き出す物体へと切り替わってしまう。それもついに終わりを迎えた。
肉が溶け、魔石が姿を現したのだ。それは人の頭部を凌駕する、非常に大きな魔石だ。もっとも、リィグルオクトの巨大さに比べれば小さいが。
その魔石に向かって墨が流れ込み、じくじくと泡が立つ。まるで本体の苦しみを直ぐに終わらせてやろうとする慈悲の如く、あっさりと魔石が割れると、止む事の無いと思った酸墨が止んだのだった。
レイは足元の光景を見つめる。
真下では体が半壊したリィグルオクトの亡骸に、酸墨の池が溜まっている。触手は力なく、次々と倒れ、あれほどレイを苦しめた再生力は幻だったかのように起きない。
間違いなく、リィグルオクトは死んだ。
コウエンで泡の内部を突き刺すと、あれだけの時間、ウォータージェット並みの酸墨を阻んだ泡があっけなく割れた。天井付近から落下しようとするのをレイは鎖を差し込むことで回避した。
「……どうにか、勝てたな」
『いつも通りの、綱渡りの戦いではあったがな』
薄氷を踏む勝利だった。疲労が全身を襲い、今にも体を投げ出したい欲求にかられる。しかし、レイにはまだやるべきことがあった。
天井の隅に追いやられている泡の集団。その中に居るラシードの救出だ。鎖を用いて移動すると、意識を失っている少年の姿を発見した。泡の内部で寝そべる少年は呼びかけても返事がない。
まさかと思いレイははやる気持ちを抑えながら、泡を破った。落ちそうになるラシードの体を抱え込むと、か細いながらも呼吸が聞こえた。体は温く、胸に耳を当てれば心音もある。
「よかった、生きてるよ」
レイの声に反応してラシードの瞳がゆっくりと開くと、琥珀色の瞳の中に自分を見出した。
「レイ……殿……ですか」
「ああ、そうだよ。もう、安心だ。敵は」
倒したからと続けようとしたレイに向けて投げられたのは、感謝の言葉では無かった。
「何で、助けに来たんですか!?」
呆気にとられるレイに対して、ラシードの激昂は続く。
「貴方の役目はダリーシャス王子を守る事。僕を助ける事じゃない。あの時、僕は助けに来ないでくれって、言ったじゃないですか!」
「いや、確かに言われたけど」
「なら、見捨てれば良かったんだ! 貴方が追いかけてくる必要なんて、どこにもない」
瞳から大粒の涙が幾つも流れ落ちる。ラシードの中にあった感情が怒涛の如く吐き出される。それは急き止めていた理性という名のダムを突き破った。
「僕なんかを、よりにもよって貴方に助けられるなんて」
惨めだった。
議事堂でのあの日、主を死なせ、父を死なせ、一人おめおめと生きてしまった。ナキ家の人間として果たすべき使命を果たせなかった自分が惨めだった。
周りはそんな自分を慰めた。まだ幼いから仕方ない。あの状況ではどうしようもない。生きているだけで、取り返しは付く。
言われるたびに、ラシードは違うと否定したかった。起きてしまった出来事はやり直せないし、戻せない。取り返しのつかない事は取り返せないのだ。幼い体に抱えきれないほどの責任が、少年を押しつぶしかねなかった。
せめて、姉と共にダリーシャスを守る事で、償おう。果たせなかった役目を果たそうと願いを繋げた。
それなのに、姉は死に、誰とも知らない冒険者がダリーシャスの傍にいた。それもダリーシャスからの全幅の信頼を受けているのが、一目見て分かった。
ダリーシャスと姉の関係は、主と従者としては少々歪だった。姉は人目の在る所でも容赦なくダリーシャスをこき下ろし、ダリーシャスは平然と構えている。だが、真実として、あの二人は固い絆で結ばれていた。
互いを信頼していた。
その関係に憧れを抱いていた。自分もいつか、そんな関係を主と結びたいと漠然と夢見ていた。
それなのに、ダリーシャスと傍に居るレイの間には、姉とダリーシャスの間にあった絆に近いものが存在していたのだ。
姉は、ナリンザ・ナキは主を守るという本来の役目を全うできずに死に、彼女のいた場所にレイという関係の無い存在が居座る。その簒奪者に対して、ナリンザに向けていた信頼を向けるダリーシャス。
それを見た瞬間、ラシードは絶望した。
ナキ家はオードヴァーン家を支えるために存在していた。オードヴァーンの血が続くために、いかなる事もしてきたし、その覚悟を幼い自分にも備わっている。
それなのに、ナキ家と関係の無いレイを信頼するダリーシャスに。そしてその信頼を受けるレイに。
怒りを覚えていた。
父は、姉は、何だったのか。貴方達のために死んだというのに、どうして自分たち以外の他者に、自分たちに向けたのと同等の信頼を向けるのだ。
惨めだった。
自分の価値が分からなくなり、自分という存在が分からなくなり、自分がどうあるべきなのか分からなくなった。
「ダリーシャス様には、あなたが居れば、それで十分なんだよ。だったら、僕らが居る意味なんて、どこにもないんだ。なのに、どうして、僕なんかを助けるんだよ!!」
年相応の少年の、年に似つかわしくない苦しみにレイは自問する。
どうして、ダリーシャスを置いてまで、彼を助けに来たのか。
そんなの、決まっている。
自答は直ぐに出た。
いや、最初から分かりきっていたことだ。
「ナリンザさんがそうしたからだ」
「……姉上が?」
涙は止まないが、少年は不思議そうにレイを見つめる。その瞳は、やはりナリンザによく似ていた。
「ナリンザさんは、ダンジョントラップに引っかかった僕を助けに飛び込んでくれた。主を助けるという役目を背負いながら、自分が危険な目に遭うかもと知りつつも、迷うことなく飛び込んだんだ」
あの時。
シアトラ村の迷宮では転移の魔法陣がダンジョントラップとして仕掛けられていた。それに運悪く引っかかったレイは自殺することで防ごうとした。ところが、刃を自分に向けていたレイをナリンザは止めたのだ。
一見すると、ナリンザは《トライ&エラー》を発動させようとするレイの足を引っ張ったかのように見える。だけど、レイは違うと言いきれる。なぜなら、ナリンザはあの時、先頭を歩いていたのだ。レイがダガーを自分に向ける前には、既に動き出していたのだ。
魔法陣に囚われたレイを助けるべく、誰よりも早くに走り出していた。
「僕の命は、ナリンザさんに助けられた命だ。だから、ナリンザさんがしたであろうことを、僕は引き継いでいるんだ。ダリーシャスを守る事と、君を助ける事は僕の中じゃどっちも同じぐらい大切なんだ」
自らを省みない人の献身でレイは助けられた。ならば、自分もそうするべきだ。
誰かが危険な目に遭うのなら、それを助ける。そうやって、自分は救われたのだ。
「それに、君が死んだら、ダリーシャスはまた悲しむよ」
「……え? ……また」
「そうだよ。だって、あの人。ナリンザさんが死んだ時、自棄になっていたんだよ。自分なんか、死んだ方が良いって。だけど、ナリンザさんの死を受け止めて、あの人は王になる事を決意したんだ」
「ダリーシャス様が……王に」
いつの間にか、ラシードの瞳から流れていた涙は止まり、驚きが広がっていた。
「そうだよ。あの人は王様になろうとしている。それはナリンザさんの願いであり、僕はそれを見届けたい。出来る事なら、ナリンザさんの弟である君とも一緒にね。だから、自分なんか助けなくてもいい、何て悲しい事を言わないでくれよ……それとも、まだ僕の事なんか嫌いなのかな?」
問いかけに少年は何度か口籠った後に、絞り出すように呟いた。
「きらい……です」
その一言に、レイはがっくりと肩を落とす。だけど、続いて放たれた言葉に苦笑を浮かべた。
「でも……前ほどじゃ……ありません。それと……助けに来てくれ……ありがと……ございます……レイ、さん」
レイはどういたしまして、と返した。
読んで下さって、ありがとうございます。




