2-10 決闘 『前編』
※1/18 大幅に修正。
昼食客で賑わう食堂の中でもエリザベートの静かな宣戦布告は喧騒に掻き消されることなく耳に飛び込んだ。
当然、僕と正対する様に座っていたファルナの耳にも飛び込んだ。
彼女は驚いて立ち上がる。音を立てて椅子が倒れ注目を集めるが気にしたそぶりを見せず、エリザベートに向かって口を開いた。
「ちょ、ちょっと待ちなよ! 決闘ってアンタ。レイが死ねば自分やレティも死ぬって忘れてないでしょうね!?」
「分かっています。だから刃引きの刀剣を使っての決闘になります。……ありますよね? 模擬戦や組手用のが」
平然と回答したエリザベートだったがファルナはそれでも泡を食ったように喋る。
「いやいやいや! だってリザのレベルは42。レイ、アンタは」
「21」
「話になんないじゃないか! それだけのレベル差があれば刃引きでも当たり所が悪けりゃ即死だよ!」
「そうですね、だからレイ様。私達を殺さないためにも死なないでくださいね」
あっけらかんとエリザベートは言った。
恐れを抱かずに、虚勢を張るようなそぶりも見せず、淡々とした彼女の様子から、もし、そうなった場合でも覚悟ができているように見える。姉の背後に隠れているレティも同じように泰然と構えている。
やはり、この二人は死ぬことも止むを得無い覚悟を持っている。死に諦めるのではなく、死すらも乗り越える困難として立ち向かう。ますます気に入った。何が何でもエリザベートに勝って彼女たちを手に入れたいと思いを固める。
(とは言え無策で挑んだところで負けは見えている。何か方法は無いだろうか)
エリザベートに食って掛かるファルナを放置しつつ、思考の海へと潜る。手持ちの武器と道具、技能、現在のレベル差と数値上に現れない技量の差。そしてこの先のスケジュールを考慮して作戦を立てる。
「おい、レイ! 黙ってないでお前もなんとか言えよ!」
「―――ああ、そうだね」
呼びかけに応じて思考の海から浮上する。相変わらず策と言うには未熟な、拙い物が出来上がった。
「決闘を受けるにあたり、一つだけ条件を付けさせて欲しい。……無論、僕がチャンスを貰う側なのは分かっているけど、エリザベートとのレベル差を考慮したハンデが欲しい」
「……分かりました。……それでハンデと言うのはどのような物でしょうか? 片腕で挑むとかですか」
「いや、そういう直接的なハンデじゃない」
言って、僕は指を二本立てる。いわゆるピースサインをエリザベートに向けた。
「チャンスを二回欲しい。期間はキャラバンがシュウ王国の首都に着くまでの間。ちょうど一週間後までの間に一度でも君に勝てたら僕の勝利……ってのはどうかな?」
尋ねるとエリザベートは顎に手を当てて考え込む。形の整った眉がひそまり、眉間にしわが寄る。数瞬、考えた後に彼女は疑い深げに口を開く。
「それ以外の条件を私が決めるのでしたら、構いません」
「というと、どんな事を決めるのかな?」
「はい。まず戦う日時はレイ様が決めます。つまり事前に時間を決めてから始めるので奇襲は無しです。勝敗の決め方は相手に一撃を与えた方の勝ち。技能は互いに使ってもよし。ただし周りへの被害を考えて魔法の類はなし……といった所でしょうか」
僕は頭の中で彼女の出した条件を吟味しつつ、策を破綻に導く要素が無いのを確認すると、頷いた。
「それではファルナ様。申し訳ありませんがこの決闘の立会人を貴女に任せたいのですが」
「え、アタシ!?」
不機嫌そうに成り行きを見守っていたファルナが素っ頓狂な声を出して驚いた。エリザベートに言われるまで気づかなかったが決闘なら立会人が必要だ。僕も頭を下げてファルナにお願いする。
「頼む、ファルナ。事情を知っていて中立に見てくれるのは君ぐらいしかいないんだ」
「お願い、お姉さん」
レティも前に出て頭を下げた。姉御肌のファルナは幼い少女にまで頭を下げられるのに弱かったようで、不承不承の様子ではあるが立会人を引き受けた。
「よし、これで立会人も決まった。それじゃ、すぐにでも一回目の決闘の時間を決めようか」
僕が提案すると、三人の美少女は驚いた様子だ。まさかもう決闘をするとは思っていない様子だった。だけど、僕には時間があまり無い。早いうちから始めないと彼女に追いつけない。
「えっと、今日の予定は知ってる、ファルナ?」
「あ、ああ。……食事が済み次第出発さ。あと三十分もしないうちにアタシらは海の上だけど……その前にやるのかい?」
「いや、食後直ぐは僕が嫌だ。そうだね……出発してから一時間後ぐらいの日のあるうちに。オルドやジェロニモさんに許可を取って船の上でやろうか。……それでどうかな、エリザベート?」
「……分かりました。……私の我儘を聞いていただきありがとうございます」
彼女は見るものを惚れ惚れするような綺麗な姿勢で頭を下げた。そして頭を上げた時に、剣士としての凛とした表情をみなぎらせる。青空を思わせる瞳に焔を滾らせている。
「感謝の代わりに全力で挑ませてもらいます」
「ああ、それでこそ君だ。僕はそんな君を全力で倒させてもらうよ」
僕らはどちらとも無く笑う。人に友好を表すような笑みでは無く、獰猛な獣を思わせる笑いだった。
そして、エリザベートとレティはまた後で、と言うと席から離れていった。
遠ざかる彼女たちの背中を見送った僕は空の皿を脇にどけると長テーブルに上半身をもたれる。
「なーんで、こうなったー。面倒なことになったー」
「いや、お前、やる気満々だったじゃないか!!」
ファルナがスパーン、と景気の良いビンタを後頭部に叩き込む。音の割に痛くない高等テクニックだ。
「あんなにカッコつけて、全力の君を倒させてもらうよ、って言ってたじゃねーか」
「あれは、もう勢いというか、ノリと言うか。ああ、恥ずかしい」
呆れかえったようにファルナは口を開けて固まる。正直、エリザベートの気迫に飲まれて主導権を取れなかったのが痛い。
「それにさー。普通、奴隷が主人を決めるの? それも腕試しだなんて」
「そりゃ、まあ。戦奴隷は主人の死がそのまま自分の死にも繋がりかねないから選ぶ自由が奴隷にはあるよ。……それでも決闘で確かめるなんてのは初耳だけどさ」
エリザベートの去った方向を気遣わしそうにファルナは見つめる。彼女が何を考えているのか本心は読めなかった。どちらにしろ決闘を受けてしまった。いまさら、止めましょうなんて言い出せない。
「やだよー決闘なんて野蛮な事ー。大体レベル差以上に技術の差が激しいだろー」
そして、何よりも一番厄介な事がある。
僕はまだ人と戦ったことは無い。人に武器を向けた経験が無かった。
ゲオルギウスとの戦いはカウントされない。あれは僕の中で人の形をした自然災害だと認識されている。台風や津波のような物との戦いだ。もっとも戦いと言えるような代物でもなかった。
体を起こして空を見上げるも、粗末な屋根に阻まれてしまう。どうして僕は毎度毎度綱渡りのような策しか思いつかないのだろう。
それもこれも使いづらい特殊技能が悪い。これがもう少し都合のいい能力ならまだやりようもあるのに。
とはいえここで愚痴を吐き出しても状況は変わらない。それに決闘と言っても命を賭けた死闘にはならないはず。今回は負けても誰かの命に関わるような局面では無い。
だからこれはチャンスだと捉えよう。不明な点が多い《トライ&エラー》の謎を少しでも解き明かすチャンスだと思え。
例え負けても、エリザベートたちの身柄はどこの誰とも知らない奴の手に渡らず、『紅蓮の旅団』に委ねられる。負けても、彼女たちの心身の安全は保障されている。
だから僕は僕にできる全力を彼女にぶつけて見せる。どんな方法でも使って格上の彼女から勝ちをもぎ取る。これは、この先強敵が現れ、誰にも頼れない時が来たとき。僕にその困難が乗り越えられるかどうかのテストでもある。
そう心に固く誓うと、食事を終えたオルドが全員に通達する様に大声を張り上げた。
「食事を全員済ませたな! 30分後に港を出る。陸でやり残したことがあるなら今のうちに済ませておけよ!」
「「「了解!!」」」
景気の良い返事を返す『紅蓮の旅団』の冒険者たちは食堂を足早に出でて、船の上で三日間を過ごす準備を各自で済ませに行った。
僕はその人波を掻き分けてオルドとジェロニモさんたちの所へと進んだ。後ろにはファルナも付き添う。
「どうかしたか、レイにファルナ?」
実は、と前置きをした後に僕はエリザベートとの決闘のいきさつを彼らに話した。
ロータスさんやジェロニモさんは困ったような顔をして渋そうな態度を示していたが、どういうわけだかオルドは話を聞いているうちに顔を俯かせて肩を震わせていた。ファルナが横合いから父親の様子を伺った。
「どうかしたのか、親父?」
すると、急にオルドは顔を上げると滂沱の涙を流す。赤い口髭を涙が濡らし、大地に降り注ぐ。僕らは大男の異常な反応に驚いてしまう。
「団長? どうかしたんですか」
「どこか痛めましたか?」
冷静に大人たちはオルドに声をかけたが、当の本人は聞く耳を持たずに僕の両肩を掴んだ。彼の節くれだった指先が肩に食い込む。
骨を砕くような痛みに耐えていると、オルドが口を開いた。
「偉い!! 大いに結構だ! ドンとやれ!!」
「……はぁ?」
「お……親父?」
未だに涙を流すオルドは何かを納得した様に首を何度も縦に振る。そのたびに涙が放物線を描いて僕に飛んでくるが、感極まっている彼は気づいていない。
「男なら欲しい女を力ずくで手に入れるのは当然だよな!! いやー、オレも若いころに同じ経験をしたぜ」
「いや、レイの奴はそう意味で言ったわけじゃないだろうし、ってか同じって何?」
「おお。お前の母さんと初めて出会った時にな、オレのものになれって言ったら断りやがるから自分の体を賭けて決闘したんだよ。いやー恥ずかしい話負けちまってな、それから五年間はアイツの奴隷のような関係だったんだよ」
滝のように流していた涙は途切れ、禿頭の大男は茹蛸のように頭を真っ赤にして照れ始める。その姿を見ていたファルナは大地に膝を屈して、そんな話聞いたことない、と肩を落としていた。
視線を横に向けると、秀麗なエルフは耳まで真っ赤にして壊れたテープのように、奴隷の団長、奴隷の団長、奴隷の団長、首輪、首輪、首輪と繰り返すだけだった。そんな彼女たちの様子を見てこめかみに手を当て苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべているジェロニモさんが口を開いた。
「オルドさんが許可を出した以上、仕方ありません。私も許可を出します。ただし、くれぐれも大怪我だけはしない様に。いいですね」
「は、はい。気をつけます」
こうして決闘の舞台は整った。
「はー。良い風だな。レイもそう思わないか?」
「そうだね。本当に良い風だし、良い天気だ」
僕らは船の先端から一身に風を浴びていた。遠くの空でカモメが飛んでいるのが見えた。
カラバの港町を出て一時間。船は今の所穏やかな航路を進んでいる。甲板を忙しそうに水夫や航海士たちが作業しているのを邪魔にならない所で見ていた。
出発してすぐ、決闘前に一眠りしていたところを叩き起こされた僕は相部屋の船室から甲板へと引きずられた。
文句を言いたくはなったが、気持ちの良い風に免じて我慢することにする。
「そういえば、馬車のように酔わないな、お前」
ファルナが意外そうに指摘をするまで気づかなかった。確かに馬車の揺れであれだけ参っていた人間が船の上で平気そうにしているのは意外だろう。
「馬車はずっと不規則な揺れが続いていたからね。船は規則的な揺れだから今のところは大丈夫だよ」
「ふーん。そういうもんか。アタシは乗り物で酔った事が無いから、そのあたりが良く分かんないね」
自分の体調を伝えると、人が近づいてくる気配に振り返った。いつもの軽鎧を着こみ、背筋を伸ばして凛とした気配を放つ剣士がそこに立っていた。腰まで伸びた金色の髪が風に煽られるのを防ぐために高い位置で、紐で結んでいる。
どうやら、彼女も船酔いには掛かっていないようだ。少しだけ期待していたのが外れて、心の中で落ち込む。
彼女は手にした二振りの剣の内、一つを放り投げた。放物線を描いて飛んできた剣を掴んだ。その剣は僕が常に使っているバスタードソードに似た両手剣だった。
ただし、鞘から抜いてみると刃が潰れている。刃先に親指を押し込んだが切れる気配は無い。もっともこれだけ重いものを防具の無い所でくらえば切れはしないが、骨折は免れないだろう。僕は腰に提げていたバスタードソードとダガーを外すとファルナに預けた。いつも着ているコートは船室に鞄と共に置いてきた。その代りに、体の各所にある仕掛けを施したせいで、少々体が重かった。
「―――時間になりました、始めましょう。レイ様」
「―――ああ、そうだね。ファルナ。頼むよ」
「……はぁ。じゃあ、ちょっと場所を移動するよ」
視線を逸らせずにいる僕らを引っ張る様にファルナが甲板の一番広い場所へと僕らを誘導した。そこにはすでに話が伝わっているのか手すきの『紅蓮の旅団』の冒険者やフェスティオ商会の商人たちや水夫たちがギャラリーとして集まる。
「随分と大げさな事になってるな」
ぼやく様に呟くと、先を歩くファルナがごめん、と急に謝った。
僕らが不思議そうに首を傾げると、観客から少し離れた場所で黒板を引っ張り出して駆けの胴元をしているオルドを見つけた。
「さーて、男と女の意地を賭けた決闘! 勝負の行方はどっちの手に委ねられるのか、そいつは神にも分からねえぇ。勝つも負けるも運否天賦! だったら自分の運で賭けるしかねえ!! さあさあ、もうじき締め切るよ! オッズは1.3対3.4。堅実なエリザベートに賭けるか、大穴のレイに賭けるか、さあさあ、どっち!!」
威勢のいい啖呵で客を煽る見事なまでの胴元っぷりだ。あまりの光景に言葉も出ない。隣のエリザベートも同じ気持ちなのか呆然と見ていた。
「あ、お姉ーちゃん。頑張ってねー!!」
ギャラリーの輪の中にレティの姿を見出すとエリザベートは固まっていた体が溶ける様に動き出した。やる気がオーラのように見える。
僕らは観客を掻き分けて空いた中心へとたどり着いた。わっと、歓声が沸き起こる。
人の壁の間で向き合う僕ら。中央にファルナが立会人として立つ。
「それじゃあ、ルールの確認だよ。勝負は相手に一本入れたら終了。一本の定義は頭、首、胴体のみとする」
「腕や脚は当てても一撃とは見なさないわけだね」
僕が尋ねると、ファルナが肯定するように頷いた。僕らは距離を取って正対すると刃引きされた剣を抜いた。
「そいじゃ、はじめ!」
ファルナの合図が戦いの鐘を告げる。
レイは相変わらず構えを持たない素人剣術と言った格好だった。右手に握りしめたバスタードソードの切っ先を下ろし、中腰の姿勢でエリザベートの様子を伺う。咄嗟に使えるように左腕の手甲を軽く持ち上げ盾の代わりにする。
一方、エリザベートは右手に握るロングソードを軽く握ると、感触を確かめる様に剣を振った。風を切るような太刀筋に熟練の冒険者たちから感嘆の声が上がる。
「ふむ……まあ良しとしましょう」
呟く様に大量生産のロングソードを見下ろすと、気負いも無く、剣先をレイに向けた。しかし、真剣な表情からは微塵の油断も感じない。レイは打ち込む隙どころか、迂闊に動くこともできない。突き付けられた剣先が銃口のようにレイを捉えて離さない。
「どうかしましたか? 動かないなら私から行きますよ」
エリザベートは言うやいなや、一足飛びで襲いかかる。距離を詰めて剣を横に振るう。レイは慌てて、迎え撃つ様に剣を振るった。
甲高い金属音が甲板に響く。
ぶつかり合う剣を通して、両者は互いの実力を悟った。
(剣が重くて鋭い!)
心の中でレイは自分との違いを握った得物越しに感じる。右腕に力を籠めても噛みあった刃はビクともしない。一方でエリザベートは涼しい顔をして様子を伺う。立ち会う両者はその場を動かずに剣を引き戻すと再び振る。一合、三合、七合と数を増していくごとにレイは追い詰められていく。
遮二無二に剣を振るうしかないレイに比べてエリザベートは一手一手を明確な目標を込めて振るう。剣を真正面から打ち合うのではなく、レイの態勢を崩すのを目的として攻撃の流れを組み立てる。レイはその流れの中をもがくしかなかった。
最初に気づいたのはオルドだった。彼は積み上げた樽の上から見物していたため、エリザベートの目的にいち早く気づいた。一つ高い所から見物していた彼の目にはレイの剣撃の軌道が徐々に膨らんでいるのが分かった。
エリザベートは、打ち合いながらレイのバスタードソードを己のロングソードで受け流す高等テクニックを披露していた。技能を使わずに技術だけでレイを圧倒している。
彼は内心で舌を巻いていた、自分の娘と同い年であそこまでの剣術を習得するのは並大抵の努力ではないだろう。ファルナはオルドに黙って購入の話を進めていたが、これは拾い物かもしれない。そう思った時、状況が動いた。
十合を越える打ち合いの末に、レイの剣がエリザベートの剣に押されるように上へと持ち上げられた。無防備の胴体を振り下ろしの袈裟切りが襲い掛かる。
誰もがレイの敗北を予測していた。
しかし、少年は待っていたとばかりに笑った。
手甲で固めた左腕をエリザベートの剣の軌道に突き出した。炎鉄の手甲はロングソードの斬撃を甲高い金属音を響かせて受け止める。
その一連の流れを見ていたオルドは、レイの表情から、少年がワザと隙を作った事を悟る。
彼の想像を証明するかのように左腕でロングソードを防いだレイは間髪入れずに持ち上がった右腕を振り下ろした。ロングソードよりも長い刀身をもつバスタードソードなら間合いを詰めずにあたると判断したのだろう。
だけど、彼の狙いは脆くも崩れ去る。
エリザベートの首を狙った一撃は、彼女の放った高速の蹴りに阻まれた。長い脚に装着された脚甲から放たれたハイキックは鋭くバスタードソードの刀身と噛みあう。正面からぶつかった衝撃でレイの手から剣が弾き飛ばされた。
「―――しまった」
エリザベートは手甲に阻まれた時点で、躊躇う事も無くロングソードを手放していた。そして、振り上げた足刀の勢いをそのままに、ぐるりと一回転する。脅威も無くなり自由な身になった少女は甲板に着地をする寸前の剣を掴むと下からレイの無防備な左わき腹に襲い掛かる。
レイはその一撃を横に飛ぶことで回避する。無理に飛んだことで態勢はもつれ、船の揺れと相まって転びそうになる。集まった人々の壁は合わせるように歪み、船の欄干側がむき出しになった。
「往生際が悪いですよ!」
勝利を確信したエリザベートは再びロングソードを振りかざした。欄干にしがみ付くようにして立つレイに逃げ場は無い。―――はずだった。
ふらり、と。
何の抵抗も無く、まるで風に撒かれた紙きれのように止める暇も無く。レイの体は欄干の向こう側。大海原へと超えていた。
戦いを眺めていたオルドやロータス、それにファルナを始めとした冒険者達も。同じように観戦していた水夫たちも。そして相対していたエリザベートにも止める事は出来なかった。
少年の体は脱力した様に逆さに落ちていき、水しぶきを上げた。
「レイ! くそっ、誰か浮き輪を!」「俺が行く!! 急がねえと手遅れになる。アイツ、鎧を着込んでやがったぞ!!」
ロングソードを誰も居なくなった欄干に叩きつけたエリザベートはどこか遠くの出来事のように状況を理解できていなかった。
だけど、一つだけ確かに聞こえた事があった。
海に落ちる前。あの少年は小さく呟いていた。
「ここからが本番だ」
★
肺が石のように固い。酸素を取り込むことを拒絶したかのようにピクリとも動かず、胸に石を抱えたかのように重い。そのくせ、心臓はけたたましく鼓動を鳴らし、酸素を欲しようと血管を稼働させる。
しかし、いつまで経っても酸素は運ばれてこない。喉に蓋をされたかのような圧力を感じ、搔き毟るように爪を立てる。次第に視界は暗く狭まり、ちかちかと点滅しだす。
壊れた機械のように鼓動を奏でる心臓の音だけが無音の世界で聞こえる。あまりの苦しさに膝をついた。
いっそ、死ねればと思うように、願うようになっても、救いなんか来ない。終わりの無い苦しみはどこまでも続こうとする。
★
「―――っは! はぁはぁはぁ」
イタミから覚めたばかりの肺は酸素を求めた。呼吸が出来るというのがこれほど甘美な事なのかと驚いてしまった。なにしろ、二度も窒息を味わったのだ。呼吸が出来るという事実に涙が出てきそうなぐらいだ。
ここは帆船の船室。マットレスなんかない段ベッドが二セットある四人部屋のベッドで目が覚めた。
廊下からファルナが僕を呼びに来た音が聞こえる。
「一戦目は、僕の負けだ。だから、二戦目を始めよう」
誰にも聞こえない宣戦布告を下す。
たとえ、忌み嫌う力に縋る事になっても君を越えるために全力を尽くすと決めた。
読んで下さって、ありがとうございます。
次回の更新は8月10日を予定しております。




